クラブの前身である東京ガスサッカー部でキャプテンとして中盤の底に君臨した“ガネさん”は今、首都をホームタウンとするFC東京の代表取締役社長としてクラブを率いている。ポルトガル語で“舵取り”を意味するボランチを主戦場とした現役時代から一変、ユニフォームをスーツに着替え、今度は経営者としてクラブの操舵を担っているというわけだ。
アマチュア選手として戦い、プロサッカークラブの社長となるまでには、果たしてどんな経緯があったのか。そして彼は何を考え、今後いかなる方向性を打ち出していこうとしているのか。
大金直樹社長が最大のポイントに挙げたのは「育成」の二文字。彼の言葉から、首都をホームタウンとするFC東京が抱く壮大なビジョン、そして新たな取り組みを追った。
インタビュー・文=青山知雄 写真=兼子愼一郎
――まず大金さんがサッカーを始めてからFC東京で社長になられるまでの経緯をお伺いします。大学サッカーで活躍されたのち、クラブの前身である東京ガスサッカー部に入られました。
大金 東京ガスに入社する時は「あまりサッカーには力を入れないから」と言われていたのに、実際にはすごく力を入れていて(笑)。最終的には関東サッカーリーグからJSL(日本サッカーリーグ)まで上り詰めました。その後、チームは1993年にスタートしたJリーグには手を挙げず、粛々とアマチュアとしてプレーしていて、そして1999年のJ2開幕と同時にFC東京が誕生しましたが、その頃は本社に戻って営業をしていました。東京ガスでプレーしていたのは1989年から1995年までの6年間ですね。
――東京ガスサッカー部ではキャプテンも任されていました。どんなタイプの選手だったんですか?
大金 主にボランチだったんですが、できるだけ接触がないところにいました。基本的にスライディングやヘディングといった相手との接触プレーが嫌いで、あまり泥臭くないタイプ(笑)。周りからは「痛みを伴わないプレースタイルだよね」と皮肉を言われていましたから。
――そもそもサッカーとはどういった形で出会ったんでしょうか。
大金 サッカーは小学生の頃に始めました。当時はプロ野球の人気が高かったんですが、偶然にも地元の小学校に少年団チームがあったんですよ。それで小学6年生の時に第2回全国少年サッカー大会に出て、茨城県代表としてよみうりランドに行きました。それがサッカーを続けるきっかけになったというか、今までサッカーに携わり続けることになる一つのポイントでしたね。
――やはり全国に行ったことで夢が膨らんだわけですね。
大金 本当にそうです。田舎の子供だったので都会に行くのも初めてでしたし、県外の選手と対戦するのも初めて。当時試合をした選手と高校や大学で対戦することもあったので、すごくいい思い出の大会になりました。
――サッカーを続けながら勉学にも励み、筑波大に入られました。当時の筑波大は非常に強いチームだったと思います。
大金 本当にスーパースター軍団でした。僕も試合に出ていましたが、サッカーをするより、サッカーをしている人を見ているような感じでしたから。
――大学では関東1部リーグや総理大臣杯を制しました。やはり卒業後もサッカーを続けていこうと考えて東京ガスに進まれたんですか?
大金 それが実は全く考えていなかったんですよ。自分のピークは大学1年の頃だと思っていて、2年以降は「この実力では戦えない」と感じて落ち込みました。自分の努力次第ですが、それが自分にとって初めての挫折というか、このままサッカーは続けられないなと思ったんです。正直、サッカーの優先順位が低くなりましたし、就職するにあたってはサッカーとは縁を切ろうと。ただ、当時の東京ガスに早稲田大出身の矢野(眞光)さんがいらっしゃって、一つ年上で違う大学ながらも仲良くさせてもらっていたこともあって「受けてみれば?」と誘われて入社試験を受けたんです。本当にそれがきっかけでした。
――普通に入社試験を受けたわけですか?
大金 はい。ただ、サッカー部に入ることも条件の一つではあったので、一応入部はしましたよ。最初は「あまりサッカーには力を入れないから」と言われていましたから(笑)。
――その予定が大きく変わって、社会人リーグでも戦い続けることになったわけですね。当時の印象的な思い出はありますか?
大金 忘れもしないですよ。記念すべき関東リーグの開幕戦。会場となった埼玉県立志木高校はビックリするほど荒れたグラウンドで、汚れることが嫌いな私は「どうしてこんなところでやるのか……」と思いました。芝生どころか、砂と石が入り交じるような環境でしたからね。
――そこからJSLまで昇格していくわけですが、大金さんの現役時代は、ちょうどチームが大きく右肩上がりになっていく時期と重なります。
大金 そうですね。私が入った頃はみんな東京ガスの社員、いわゆるアマチュアだったんですけど、少しずつプロ契約の選手が入ってきました。その一人が僕と同級生でもあるアマラオ(現ザスパクサツ群馬コーチ)だったわけです。彼の加入で実力もレベルも上がり、何となく本格的なサッカーになっていったように思います。
――アマラオさんの来日が1992年。のちに“ミスター東京”と呼ばれるようになる藤山竜仁さん(現FC東京普及部コーチ)も入ってきたシーズンですよね。
大金 そうですね。今、GMをしている立石(敬之)もまだ現役でした。
――まだまだプロ化への道は考えていない時期です。
大金 ただ、そうは言っても、関東リーグから全国レベルに上がりたいという思いがチーム内にあったのは間違いないです。もちろんプロ化に際して非常に難しい部分があることは分かっていましたし、企業スポーツからクラブチームになるのは並大抵のことではないことも理解していました。正直、現実的ではなかったですね。
――東京ガスはそこからJリーグ昇格を目指すチームにとっての関門となり、JFL(ジャパンフットボールリーグ)の“門番”と称される存在になっていきます。その中で大金さんは1995年に現役を引退をされました。少し早かったように思いますが、その理由は何だったのでしょうか。
大金 1994年のことでした。等々力陸上競技場での東芝戦。これも忘れられないですね。相手選手に後ろからスライディングされて、右ひざの前十字靭帯を断裂してしまったんです。手術してリハビリを続けたんですが、なかなかピッチに立てずパフォーマンスも戻らなくて……。数試合に出ましたが、年齢も28歳になっていましたし、そこで現役引退を決意しました。
――平行して社業に取り組みながらの現役生活でした。そのバランスにも苦労されたのではないかと思います。
大金 ガス機器を販売する営業部署の一員として、午前中は必ず会社に行っていました。状況によっては午後の練習が終わった後に会社へ戻ることもありましたし、当時はサッカーに専念するというより、仕事のほうが割合が高かったように思います。
――現役引退後はどのように過ごされていたのでしょうか。
大金 そのまま社業を続けていました。単純に練習時間がサラリーマンとして働く時間になっただけですね。2002年にFC東京に出向してくるまで、ずっとそうでした。
――どうしてFC東京に出向してくることになったんですか?
大金 当時の強化部長に鈴木徳彦さん(現ファジアーノ岡山GM)がいらっしゃって、「そろそろ来てもいいんじゃないか」という話をもらいました。その後、正式に会社から辞令が出て、FC東京へ出向することになったんです。
――形式上は新たにプロサッカークラブのスタッフとなったわけですが、その一方で“戻ってくる”という意味合いもあったと思います。当時はどんな心境だったのでしょうか。
大金 正直、いつかはFC東京に行くだろうとは思っていました。ただ、「少し早かったかな……」という思いはありましたね。当時、東京ガスで担当していた仕事が面白くて、楽しくて、いろいろと勉強させてもらっているという充実したタイミングでもあったので、もう少し本社の業務を続けたいという気持ちはありました。ただ、そうは言っても自分の意志ではないところもありますから。
――引退して本社に戻って以降、東京ガスサッカー部やFC東京との関わり合いは?
大金 ゼロでした。ただ、FC東京ができたあとに東京ガスサッカー部を復活させることになって、アマチュア時代のチームメートとプレーしたりはしていたんです。それが唯一のサッカーとの関わりでしたね。FC東京の試合結果とかも全く気にならないくらいでした。FC東京の試合に初めて足を運んだのが、アマラオがJ1通算100試合出場した時(2003年11月22日/J1セカンドステージ第14節東京ヴェルディ戦)だったくらいです。
――加入当時のキャプテンとしていらっしゃった時ですよね?
大金 そうです。花束贈呈のプレゼンターとして行ったんですが、それが出向するまでの間で最初で最後の味スタだったんですよ。(東京ガスサッカー部で)自分の試合があったのも理由でしたが、本当に新鮮だった記憶があります。
――プロ化する前の東京ガスFCの試合もご覧になっていないんですか?
大金 見ていないんですよね。だから石井(豊/現FC東京強化部長)の“伝説の弾丸FK”も話で聞いただけで(笑)。すごく空白の時間があるんです。
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代表取締役社長 大金 直樹(おおがね なおき)
1966年 12月13日生
1989年 筑波大学卒業
1989年 4月 東京ガスへ入社。同社サッカー部へ入部。
1995年 現役を引退。
2011年 東京フットボールクラブ株式会社 常務取締役 就任
2015年 同 代表取締役社長 就任
By サッカーキング編集部
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