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【インタビュー】あれから18年。山口素弘が語る横浜フリューゲルスと国立競技場の思い出とは(後編)

2016.10.29

ラストマッチの天皇杯決勝を制した横浜フリューゲルス ©JFA

 まさに“青天の霹靂”だった。リーグ屈指の強豪だった横浜フリューゲルスに降って湧いたクラブ消滅問題。若いサッカーファンの中には、今から18年前に起こった悲しい出来事をご存じない方がいるかもしれない。いきなり襲われた衝撃の事態に、選手やサポーターはクラブ存続へ動く。だが、それも実らず、話は1998シーズン限りでのクラブ消滅、横浜マリノスへの吸収合併へと進んでいってしまう。

 チームにとっては“終わりの始まり”。だが、消滅が決定した後の横浜Fの戦いぶりには誰もが胸を打たれた。特に天皇杯では「敗れた時点でクラブ消滅」というギリギリの状況下にありながら、一つになったチームは破竹の勢いで勝ち進んでいく。そして1999年1月1日、国立競技場で行われた決勝で清水エスパルスを下し、見事に有終の美を飾ったのである。日本サッカー史上、最も悲しいタイトル獲得。これを持って横浜Fの歴史に終止符が打たれた。

 当時、横浜Fでキャプテンを務めていたの山口素弘氏(現日本サッカー協会技術委員/サッカー解説者)は、クラブが消滅に進む激動の流れの中、何を思い、どのような心理状態で試合に臨んだのか。そして決勝の舞台となった国立競技場で、どんな風景を目撃し、どんな思い出を回顧したのだろうか。

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写真=瀬藤尚美、JFA

 消滅が報じられた時、チームはJリーグ2ndステージの試合を4節残しており、リーグ戦終了後には天皇杯も控えていた。クラブがなくなってしまうのに、試合をしなければならない。およそゲームに集中できる状況ではなかったが、選手たちはこの逆風に真っ向から立ち向かい、驚異的なパフォーマンスを見せ始める。

――チーム消滅が報じられた直後のリーグ戦では、驚異的なパフォーマンスを演じました(編集部注:Jリーグ2ndステージ第14節セレッソ大阪戦。7-0で勝利)。当時はどのようなチーム状況だったのでしょうか。

山口素弘(以下、山口) 一部では「(試合を)ボイコットしよう」という話も出ました。「俺たちが出ても仕方ないだろう」という意見もありましたから。

――いろいろな意見があったようですね。

山口 それはそうですよね。選手はそれぞれ立場が違うし、考え方も違う。最初はそんな話ばかりでした。

――しかし、ボイコットはしませんでした。

山口 やっぱりしなかった。やっても解決しないという結論に達し、リーグ戦は最後まで戦うことになりました。その後に天皇杯が始まったんですけど、当初、天皇杯は若手中心で臨もうという話もありました。そう言えば、天皇杯の前に調印式が行われて合併が正式に決まっていたんですよね。

――12月2日、天皇杯初戦を約10日後に控えたタイミングで、電撃的に調印式が行われました。

山口 調印式をやる時はちゃんと教えてほしいと言っていたんですけど、教えてもらえなかった。連絡なく進められてしまったので、「もう、こいつらはダメだ」って思いましたよ。

――先ほどおっしゃっていたとおり、天皇杯では若手中心のチームで出場しようという話もあったようですね。

山口 選手だけじゃなく、スタッフも含めて、次の身の振り方を考えなければならない状況でしたからね。主力で名が知られていた僕やナラ(楢崎正剛)、アツヒロ(三浦淳宏)は、すでに移籍のうわさが出回っていて。僕なんてヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)移籍って報道が出たんですよ。そんな話、全くなかったのに(笑)。でも、若手は移籍先が決まるかどうか分からない状況だった。遠藤(保仁)も当時は若かったし、他のクラブはどんな選手か分からなかったら獲得しようがないじゃないですか。だから天皇杯は、若い選手のアピールの場にしたほうがいいんじゃないかという意見が出ていました。

――しかし結局、主力メンバーが出場することになりました。

山口 当の若い選手たちから「そんなことはやめてほしい」って、泣きながら言われたんですよ。「そんな理由で試合に出てもうれしくないし、フリューゲルスの誇りを持って最後まで戦いたい」って。あのチームは非常に一体感があったので、「こんなところでバラバラになっても仕方ない。やるしかないだろ」って感じでした。調印式もやられてしまったけど、心のどこかでまだ「何か起きないか」という期待もありました。いいプレーをすれば、チームが結果を出せば、もしかしたらどこか急に手を挙げてくれるかもしれないというわずかな期待を抱いて挑みました。

――天皇杯では敗れた時点でチーム消滅という過酷な状況で戦うことになります。

山口 ああいう状況だったのでみんな応援してくれるんですが、やっている当人たちに余裕はなかったです。負けたら終わりというトーナメント戦である上に、チームとしての終わりも告げられてしまう。それはもう大変なプレッシャーですよ。天皇杯の初戦から、こんなにテレビ局の関係者や記者の方々が来るのかとも思いましたし。

――3回戦が横浜Fにとっての初戦で、博多の森球技場(現レベルファイブスタジアム)での大塚FC(現徳島ヴォルティス)戦でした。

山口 先制したけどすぐ追いつかれてしまって、結構危なかったんですよね。天皇杯はいつも「負けたらどうしよう」と緊張するものなんですけど、それにプラスしてチーム消滅のプレッシャーもあって、もうガチガチでした。「消滅の瞬間を見に来ているだけだろう?」みたいな人もいたし。それでも何とか勝ち上がっていくことができました。

――その徳島戦を4-2で勝利し、ここから伝説的な快進撃がスタートします。

山口 やっぱり「最後まで行きたい」、「元日までやろうよ」という気持ちはありました。その次が鳥取でのヴァンフォーレ甲府戦で、あの天皇杯はちょうど試合会場が福岡、鳥取、神戸、大阪、東京と、うまい具合に西から東へと移って行ったんです。甲府に3-0で勝って、次がジュビロ磐田。やっとJクラブと戦えるってことで、少し気が楽になった部分もありました。ジュビロは強かったですが、うちもその前年の天皇杯で決勝まで勝ち進んでいたし、リーグ戦での成績も悪くなかったので、最後まで残りたいという気持ちはありました。

――相手チームの選手からは、何か声は掛けられましたか?

山口 ジュビロに勝った試合後、ゴンちゃん(中山雅史)から「最後まで行けよ」と言われたことを覚えています。

――磐田に2-1で勝利した後、準決勝では1-0で鹿島アントラーズを下し、清水との決勝に挑むことになりました。決勝前夜はどのように過ごされたのでしょうか。

山口 いつもどおりの大晦日の夜でしたよ。ただ、元日に向けての準備段階が印象的なんですよね。薩川(了洋)が準決勝で退場になって、決勝が出場停止になってしまったんですけど、僕と薩川は練習からランニングから、ずっと一緒にやってきたんですよ。だから最後の練習で薩川と過ごした時間の印象が強かったです。

――薩川選手からは、何か言葉は掛けられましたか?

山口 何かを言われたというより、反対に「お前、何でこんな肝心な時に出られないんだよ!」みたいなことを言っていましたね(笑)。お互い、そういう関係性だったので。

――クラブハウスがあった東戸塚トレーニングセンターへの思い入れも強かったと思います。

山口 そうですね。最後にスタッフも含めて、みんなで写真を撮りました。実は自分たちの荷物も決勝までにクラブハウスからどんどん引き上げなければならなかったんですよ。「もうここに戻って来ることはないんだな……」と思って、ずっと使っていたロッカーの裏にサインを書いて帰りました。

 1999年1月1日、横浜Fは“最後の試合”に挑んだ。守備の要である薩川こそ欠いたものの、それ以外はベストメンバー。所属選手全員が望んだ「強いフリューゲルス」を示すにふさわしい布陣で、国立競技場のピッチに立った。対戦相手の清水は、奇しくも1993年のJリーグ開幕戦で相まみえたクラブ。ラストマッチは、手に先制されながらも前半終了間際に山口氏のアシストから久保山由清のゴールで追いつき、72分に吉田孝行が逆転ゴールを決めて2-1で勝利。合併発表以降、全勝街道を突き進んだチームの歩み以上に、劇的でドラマティックな展開となった。

――決勝の日の出来事は鮮明に覚えていますか?

山口 朝から鮮明に覚えていますね。監督のゲルトがずっとビデオを撮影していたので、「もう、何やってんだよ」って感じでした(笑)。

――決勝にはどんな気持ちで臨んだのでしょうか。

山口 試合自体は、天皇杯の決勝という位置づけというかイメージですね。勝って優勝したい。ただそれだけの気持ちでした。

――感傷的になった瞬間はありましたか?

山口 試合終了の10分前くらいですね。「このまま終わったら優勝できるけど、試合が終わっちゃったら終わりだな」と。「追いつかれたら延長になって、もう少し長くプレーできるかな」っていう思いも一瞬だけよぎりました(笑)。

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歓喜の中でカップを掲げる山口氏 ©JFA

――試合終了のホイッスルが鳴った瞬間は?

山口 試合球をもらおうと思って、すぐにボールを拾いに行きました。あのボールだけは絶対に誰にも渡さないと決めていたので。これは後で気づいたんですけど、薩川が後ろからすごい勢いで走って来ていたんです(笑)。抱き合いたかったのかもしれない。ちょっと悪いことをしちゃったなと思っています(笑)。

――そのボールは今どこに?

山口 自宅に保管してありますよ。サインなど何もせず、そのまま大事にしまってあります。主審が岡田正義さんだったんですが、「いったん返してくれ」って言われたんですよ。試合終了の時は審判が持って引き上げなければならないルールなので、返してくれって。だから「あとで絶対に渡してほしい」とお願いして、ピッチから引き上げてすぐに審判の控室へ行って、岡田さんから手渡してもらったんです。

――表彰式で印象に残っていることはありますか?

山口 スタンドに上がる前に、薩川がボロボロ泣いていたんですよ。仕方がないからつられて一緒に泣いてあげました(笑)。天皇杯を受け取った瞬間は、本当に気持ちが良かったですね。

 考え得る最高の結末とともに、チームとしての活動に終止符を打った横浜F。その後、選手たちはそれぞれの新天地へと活躍の場を移したが、横浜Fというクラブで築き上げた仲間同士の絆は一生涯、綻ぶことはなく、クラブとともに歩んだ思い出が消えることもない。山口氏は最後に、横浜Fのチームメートやスタッフたちとの思い出話を語ってくれた。

――クラブのOBはその後、定期的に集まっているのでしょうか。

山口 全員で集まる機会はあまりないんですが、サンパイオとジーニョがパルメイラスの一員としてトヨタカップに来日した時(1999年)は、新横浜にみんな集まってご飯を食べましたね。個々で会う機会は結構あります。

――若い選手たちからは、どんな言葉を掛けられたのでしょうか。

山口 遠藤なんかは加入してすぐに溶け込んでいたし、僕らの姿を見ていろいろと感じる部分があったと言ってくれました。永井(秀樹)も「短い期間だったけど、今でもあの時のサッカーが一番楽しかった」って言ってくれています。

横浜フリューゲルス

横浜Fは若手、ベテランを問わず、多くの選手に愛されたクラブだった ©JFA

――チームスタッフとの思い出話はありますか?

山口 スタッフもいい人ばかりでしたね。例えばバスの運転手の山田さんという方は、どこに行ってもいい運転をしてくれるんですよ。アウェイゲームの時も下見をしてくれて、ホテルから試合会場までの所要時間を事前に確認したり、試合開催の曜日や時間帯によってどうなるかとか、すごくしっかり下調べをしてくれるんですよ。だから絶対に遅れない。最後の天皇杯も大阪まで個人的に見に来てくれたんですよ。プライベートで来たのに、雑用をいろいろやってくれて。で、試合後にみんなで新幹線で帰る予定だったんですけど、山田さんが「お金がないから夜行バスで帰ります」って言うんですよ。だからみんなから1000円ずつ集めて、「山田さん、新幹線で一緒に帰りましょう!」ってみんなで帰りました。山田さん、泣いてましたよ。みんなでそういうことが普通にできる。そういう意味でも横浜フリューゲルスは最高のチームでしたね。

国立競技場への思い出を語った前編はこちら

By サッカーキング編集部

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