遠藤は35歳を迎えた今でも大黒柱としてチームを支える [写真]=鷹羽康博
Jリーグ史上最多のベストイレブン選出回数。日本代表での国際Aマッチ最多出場記録。Jリーグ歴代最多のPK得点。ガンバ大阪のみならず、日本代表でも偉大な記録を打ち立てて来た遠藤保仁が17日のJ1リーグ・浦和レッズ戦で、J1通算500試合の節目に到達する。
「記録のためにサッカーをやっているんじゃない」、「数字は現役を終えてから振り返ればいい」。過去、様々な記録を問われるたびにクールに語って来た背番号7が、過去3人だけが到達している大記録を問われると意外にも率直な言葉を返して来た。
「もちろん嬉しいことだし、これだけたくさんの試合に出させてもらっているのはありがたいこと。ここまで長い間積み重ねて来た数字でもありますしね」
鉄仮面とさえ言いたくなる冷静沈着なプレーメーカーだが「やっぱりプロとしてスタートを切る中で重要な試合」と強く脳裏に焼き付けている横浜フリューゲルスでのプロデビュー後、京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)、そしてG大阪の3クラブでコツコツと積み上げて来た数字には格別の思いがあるようだ。
「この年齢までやれているだけで凄いし、先発で出続けての500試合を達成した選手はそうはいない。鉄人ですね」。2013年の就任以来、キャプテンを託す背番号7に全幅の信頼を置く長谷川健太監督も、その数字の質の高さを絶賛したが、特にG大阪では2005年以降、ほぼ毎年タイトル争いに絡む常勝軍団の大黒柱としてフル稼働し続けて来た。
昨年はクラブ史上初の三冠獲得を果たし、カップを掲げた回数は実に3度。そしてシーズン終了後には自身初のJリーグMVPにも選出されたが、必ずしも栄光ばかりに満ちたサッカー人生だった訳ではない。「ピッチに立てないのが選手にとっては一番辛いこと」。2006年にはウイルス性肝炎で優勝争いをしていたシーズン終盤を棒に振り、リーグ戦の最終節で劇的な復帰を果たしたものの、浦和との直接対決に敗れ、連覇の夢を打ち砕かれた。そして2008年にはウイルス性感染症でオーバーエイジでの出場が濃厚と見られていた北京五輪の日本代表を辞退。負傷による長期離脱とは無縁だが、キャリアを通じて2度、望まぬ離脱を強いられた。
そして、栄光に満ちたその履歴書には消したくても消せない負の一年も刻み込まれている。J1リーグでは歴代最年少となる35歳での500試合に到達しようとしている遠藤ではあるが、2013年には自身初のJ2リーグで33試合を戦い抜いている。
「まあ、出来れば下に落ちない方がチームとしてはいいし、個人も上のレベルでやらないといけないが、ああなった以上は一つのいい経験だったと思う」。今だからこそ、いい経験、と当時を振り返る遠藤ではあるが、G大阪にとってクラブ史上初となるJ2リーグ降格が決まった2012年の最終節、ジュビロ磐田戦後は、いつもクールな背番号7も試合後、うっすらと目を赤らめたものだった。
病で2度、長期離脱を強いられた経験は「少しでもいいコンディションに保つためにも日々のトレーニングは重要だと、病気でピッチを離れたあの時はそれを実感した。ピッチに立てない悔しさを忘れないようにしてやっていきたい」とより自己節制するきっかけになった。そして、おそらく最初で最後となるJ2リーグ時代は「勝利に対する泥臭さが必要だと改めて分かった。内容が良くても勝たないと意味がない」という意識改革につながった。
日本代表ではボランチとして長年不動の司令塔としてプレー。戦術眼を誇るプレーメーカーというのが世間一般の遠藤に対するイメージのはずだ。だが、近年のプレースタイルはもはや単なるボランチの枠組みに収まらない。「こちらの求めることをしっかりとやってくれる。その辺りが歴代の日本代表監督からも信頼されているし、頭のいい選手だと思う」と評する長谷川監督は、就任一年目、遠藤の万能性を評して「ポジション名はヤット」という名言を残した。
ボランチだけでなく、FW起用やトップ下など様々な役回りを長谷川ガンバではこなしている背番号7だが、昨年は今野泰幸とともに泥臭い役回りを果たしたり、気の利いたポジショニングで守備の綻びを事前に補ったりと守備面でも欠かせない存在だった。
「サッカーは年齢じゃないことをこれからも証明し続けたい」。昨年のJリーグアウォーズでこんなスピーチを残した35歳は、500試合の節目を前にこんな言葉を発したのだ。
「常にレギュラーとして試合に絡んで行きたい」、「まだまだ足りない部分も多い。少しずつでもいいので成長しながら、色んな経験をしていきたい」。ようやく試合に出始めたルーキーさながらの向上心を未だに忘れないJリーグMVPにとって、500試合もほんの通過点。まだプレーヤーとしての最終形態を見せきっていないG大阪の背番号7は、これからもマイペースに、ピッチを走り続ける。
文=下薗昌記
By 下薗昌記