東日本大震災によって運命の荒波にのみ込まれた鮫島彩とマリーゼの選手たち――。仲間が散り散りとなるなか、鮫島は多くの人の尽力により、海を渡ることになる。サッカーへの情熱を再確認した鮫島はこの秋、かつての仲間とともに再びピッチに立つ。
文=西森 彰 写真=早草紀子
仙台にある常盤木学園高は、今や高校女子サッカー界のナンバー1チームになった。鮫島彩、田中明日菜、熊谷紗希と3人のワールドカップ優勝メンバーを送り出し、その下の年代別代表にもOGや現役選手を輩出している。
「同じ高校の先輩たちが世界一になって『凄いな』っていう部分はあります。『自分もそういう先輩たちに続きたいな』って思います」
U-20日本女子代表の一員であり、INAC神戸レオネッサでプレーする仲田歩夢は言う。
そんな常盤木学園高が“夜明け前”の頃に、在籍していたのが鮫島だ。越境入学だが当時、ボールに人生を捧げるほどの覚悟はなかった。それでもサッカーセンスは抜群、豊富なスピードがあり、緩急を付けたリズムがある。女子サッカーの育成年代で名を馳せる同校の阿部由晴監督は、鮫島に期待を寄せた。二の腕を体にぴったり付けた、いわゆる“女の子走り”で対面する相手をぶっちぎる。全日本高校女子サッカー選手権で対戦した鳳凰高校の嶋田正照監督は呆れ顔で語った。「さっきの鮫島のプレー、見ました? グッと加速して、一気に来られる。2枚じゃ厳しいですね。3枚いなければ止められませんよ(笑)」周囲の人たちは、鮫島に溢れる才能を見出し、その進路を用意した。
高校を卒業すると、鮫島は東京電力に入社し、その女子サッカー部マリーゼでプレーすることになった。マリーゼの選手たちは、福島県の『浜通り』と呼ばれる沿岸部の原子力発電所などで働いていた。午前中の業務終了後、食事を取ってからJヴィレッジに移動し、練習する。東京電力の正社員としての身分が保障され、一般社員と同じように給料も支給される。また、サッカー選手を辞めてからも、希望すれば社員として会社に残ることができる。アルバイトしながらサッカーを続ける、多くのなでしこリーガーに比べて、恵まれた待遇だった。
それがチームカラーにも反映したか、ツボにハマると華麗なサッカーを展開する半面、勝負に対する泥臭い執着が欠けていた。YKK AP東北女子サッカー部フラッパーズから移管された初年度の2005年に4位の好成績を挙げたが、鮫島らを補強し、さらなる前進が予想された06年には最下位で降格の憂き目に遭っている。
ただ、そうしたスマートなマリーゼのスタイルは、当時の鮫島にも似合っていた。日本代表では、U-19日本女子代表、なでしこチャレンジプロジェクト、なでしこジャパンと順調にステップアップしていく。また、マリーゼでも07年度のなでしこリーグディビジョン2でMVPを獲得。09年に就任した菅野将晃監督の下では、代表と同じサイドバックにポジションを移し、翌年にはベストイレブンと、サポーターが選ぶMVPを受賞する。勝負弱かったマリーゼも、菅野監督の指導により、首位争いを繰り広げられるところまで来ていた。
しかし、そんな楽園が一変する。2011年3月11日。日本中を悲しみで覆い尽くした東日本大震災は、鮫島とマリーゼをも運命の荒波にのみ込んだ。開幕を前に宮崎キャンプへ発っていたマリーゼの選手、スタッフは、第一報に大きな衝撃を受け、その後の原発を取り巻く状況に絶望感を深めていった。キャンプ地からJヴィレッジには戻れずじまい。それどころか、危険区域にある選手寮へ家財を取りに帰宅することすら、しばらく許されなかった。
そうした苦境の中で、国内外のサッカーファミリーが救援の手を差し伸べた。なでしこリーグ各クラブが移籍の受け皿となり、マリーゼの選手を受け入れていった。当然のように鮫島にも声が掛かったが、彼女はアメリカへ渡り、マリーゼと交流のあったボストン・ブレーカーズとアマチュア契約を結ぶ。この頃から鮫島は周囲に漏らすようになった。
「たくさんの人たちのおかげで、私は今もサッカーをさせてもらっている」
昨年のドイツワールドカップでは、多くの海外メディアから繰り返して「震災と原発」に対する質問を浴びせられたが、これに挫けることなく、優勝カップを掲げた。ワールドカップ終了後にはフランスへ戦場を移し、モンペリエで1年間、プロ選手として戦った。
そしてこの秋、鮫島はベガルタ仙台レディースでの戦いを開始する。マリーゼで一緒にプレーした仲間たちとともに。波乱万丈の1年を過ごし、サッカーへの情熱を再確認した鮫島へ、チーム関係者とサポーターは期待に胸を膨らませている。
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