アルウィンのゴール裏を埋める山雅サポーター[写真]=佐藤博之
[サムライサッカーキング5月号 掲載]
「勝利を目指して、さあ行くぞ山雅。走り出せ、松本山雅。掴み取れ、今日の勝利 を」。アルプスにこだまする歌声。サッカーと無縁だった信州の古都が、今、強烈な熱を放っている。
文=元川悦子 写真=佐藤博之
発足のきっかけはパラグアイのチラベルト
J2参戦1年目の平均観客動員数はヴァンフォーレ甲府、大分トリニータに次ぐ3位の9531人。2013年1月19日にまつもと市民芸術館で行われた新体制発表会に集まったサポーターの数は、1,500人を超えた。会場に入り切れない人のためにインターネット中継までされたほどだ。
地方クラブの見本と言われる甲府で会長を務める海野一幸氏は、その凄まじい熱気を目の当たりにし、「山雅の迫力はすごい。このままだと追い抜かれる」と舌を巻いた。危機感を顕にし、山雅を引き合いに出して社員を鼓舞したというのだから、その勢いが分かるだろう。Jリーグに彗星のごとく現れた松本山雅FCは今、J2を席巻している。
松本のサッカー熱は最初から高かったわけではない。むしろ長い間、「サッカー不毛の地」と言われてきた土地柄である。地元出身の有名選手と言えば、日本代表歴のある田中隼磨(名古屋グランパス)くらい。全国的な強豪校はなく、サッカー界の要人もいない。長野県という小さなエリアの中では、松本平がサッカーどころと位置付けられてはいるが、松本市民の間でサッカーが話題に上ることなど、皆無に等しかった。
1965年に駅前の喫茶店の名前を取って発足した「山雅サッカークラブ」も、社会人が仕事の傍ら、趣味的にプレーする草チームでしかなかった。そこを母体にJリーグを目指す動きが本格化したのは04年のことだ。山雅の大月弘士社長はこう説明する。
「01年にアルウィンができ、02年日韓ワールドカップの前にパラグアイ代表がキャンプに来てくれたんですが、その時に(ホセ・ルイス)チラベルトが、『こんなに素晴らしいスタジアムがあるのになぜ地元のチームがないのか?』と発言したんです。それを聞きつけた山雅最古参のサポーター・疋田幸也さんたちが、『ならば、松本のチームを本気で作ろう』と盛り上がり、青年会議所もその気になった。04年には『NPO法人アルウィン・スポーツ・プロジェクト(ASP)』も立ち上がりました」
ASPは代表だった八木誠・現山雅取締役、大月社長ら18人の有志で活動を開始した。スポンサー回りやサポーター集めに奔走したが、当然のごとく、周囲の理解を得るのは容易ではなかった。八木取締役もしみじみと苦労話を語る。
「県内の会社を回っても『長野エルザ(現長野パルセイロ)もあるし、県内に2チームは無理』、『山雅なんて誰も応援しないよ』と言われるばかり。実際、スタンドにも数えるほどしか人がいなくて、自分で旗を振って応援したくらいです。そんな窮地を救ってくれたのが、エプソンイメージングデバイスの社長・有賀修二さんでした。05年から500万円でパンツのスポンサーになってくれて、三本菅崇(現アルテリーヴォ和歌山)ら有力な選手を補強できた。辛島啓珠監督(現FC岐阜コーチ)も招聘して、ようやく北信越1部昇格を果たしたんです」
06年には土橋宏由樹らJリーグ経験者数人を補強して北信越1部上位に躍進。07年
には木曽出身の今井昌太(現MIOびわこ滋賀)らを加え、初めて地域リーグ決勝大会に進出した。そして08年、吉澤英生監督(現鳥取ヘッドコーチ)が新指揮官に就任し、柿本倫明(現松本山雅アンバサダー)らが加入。チーム完成度が一段と上がり、2度目の地域リーグ決勝大会へ進出する。しかし、JFL昇格への壁は高く、またも1次リーグ敗退を強いられてしまった。
「このまま北信越をウロウロしているわけにはいかない」。09年に挑むに当たり、ASPは大きな決断を下す。経営と強化の両面を把握できる加藤善之GMを東京ヴェルディから招聘し、抜本からテコ入れを図ったのだ。
加藤GM体制で迎えた09年。木村勝太(現カターレ富山)、鐡戸裕史らを獲得し、満を持してJFL昇格を狙った。長野パルセイロとの「信州ダービー」には6000人〜7000人が集まるなど、固定客もついてきていた。ところが、北信越1部でまさかの4位。高い期待との落差から、誰もが昇格をあきらめかけた。
しかしその矢先の10月11日、天皇杯2回戦。その後の山雅に大きく影響を及ぼす伝説の試合が生まれる。日本代表経験者をズラリと揃える浦和レッズを2─0で撃破したのだ。
実質4部のチームが1部のビッグクラブを破るジャイアントキリング。歴史的快挙は大々的に報道され、それまで関心を示さなかった一般人や松本市長までもが山雅を応援し始めた。この勝利で勢いに乗った山雅は、全国社会人大会で優勝し、敗者復活枠で地域リーグ決勝大会に挑み、1次リーグを初めて突破。決勝ラウンドにコマを進めた。
決勝ラウンドの開催地は松本。奇跡的な追い風だ。初戦はツェーゲン金沢にPK戦の末敗れたが、NPO横浜スポーツ&カルチャークラブとの2戦目には1─0で勝利。そして12月6日、日立栃木ウーヴァスポーツクラブとの最終戦、アルウィンには1万人を超える観衆が集結した。地元サポーターの後押しを受けた山雅は、先制点を許すも、逆転に成功し、ついに悲願の優勝を遂げた。
「07年に平均2000人台だった観客動員が、09年には5000人になり、最終的に1万人を突破した。あの試合は、サッカー不毛の地だった松本に、『見る文化』が根付いた瞬間だったと思います」
八木取締役は感無量の様子で振り返った。
松田直樹の存在とJ2昇格への強い意志
松本市民はもともと郷土愛が強い。明治政府が廃藩置県を行った際、松本は筑摩県の県庁所在地だった。それが庁舎の火災喪失によって突如、長野県に編入されたのだから、素直に受け入れられるはずがない。以来、長野との地域対立は根深く、過去幾度となく分県運動も起きている。この歴史が郷土愛の原動力となり、サッカーにも投影された。不遇な立場に置かれてきた松本市民は、山雅の誕生によって初めて、「松本」を大声で叫べる場を得たのだ。
長野パルセイロより先にJFL入りしたこともプライドをくすぐった。その関係性はスペインの名門バルセロナとレアル・マドリーに近いとも言われ、両者のライバル関係をドキュメントで描いた映画『クラシコ』も製作された。山雅の人気は長野との争いによってブレイクした側面も大いにある。
北信越時代から1万人を動員した田舎クラブの存在は全国的に知れわたり、それは横浜F・マリノスで戦力外通告を受けた元日本代表DF松田直樹の耳にも届いた。JFL1年目の10年に、法人化などチームの土台作りを前進させながら7位に終わった山雅は、11年を迎えるに当たり、この大物獲得に乗り出した。
「初めて会った時、熱狂的サポーターのDVDを見せながら『キミがくれば松本の街は沸き上がるよ』と語りかけたことは、今も脳裏に焼きついています。その松田から、12月31日に『お世話になります』と電話がかかってきた時の興奮はすごかった。絶対にJ2に上がるんだと強く決意しました」と大月社長は振り返る。
超ビッグネームの加入はチームの注目度をより一層高めた。「松田選手が入ったから見に行ってみようかな」と話す人も増え、アルウィンには高齢者や家族連れの姿が目立ち始めた。
「山雅の応援は一体感がすごい」、「ゴール裏の差別がないから誰が行っても楽しめる」、「選手が自分の孫みたいで親近感がある」とうれしそうに話す人々が試合を追うごとに増え、山雅は確実に地域のシンボルとなっていった。
同年の山雅は出足から機能せず、6月には吉澤監督が解任される。加藤GMが後を引き継ぐ形で指揮を執り、立て直しに向かっていた矢先の8月2日、松田が練習中に急性心筋梗塞で倒れてしまう。2日後にこの世を去ったのは、今も信じがたい出来事だ。
チームもサポーターも大きなダメージを受けた。それでも「マツさんのために勝つ」と選手たちは奮起し、再起を図った。終盤には奇跡の5連勝という「山雅劇場」を演じ、12月のホンダロック戦で勝ってJFL4位以内を確定。J2昇格をついに現実のものとした。
J2初年度の12年には、北京オリンピック代表を率いた反町康治監督の招聘に成功。アグレッシブに走るサッカーが徐々に浸透し、後半戦は7試合無敗を2度もやってのけ、一時はJ1昇格プレーオフ参戦の6位以内も射程圏内に入れた。最終順位は12位だったが、一緒にJ2に昇格した町田ゼルビアがJFLに再降格したことを考えれば、上々の結果だ。
山雅は発足以来右肩上がりの成長曲線を描き、常に人々を惹き付けてきた。教育中心で特に娯楽もなかった松本市民にとって、日常に突如現れた山雅は、自分たちのアイデンティティーそのものである。「J1昇格は、決して遠い夢ではない」。トップカテゴリーに上がり、アルウィンで歓喜する日を夢見て。雷鳥は頂を目指す。