[サムライサッカーキング Nov.2012 掲載]
今シーズン開幕前、長谷部誠が置かれた状況は“絶望”に近いものだっただろう。それでも彼は、チームに残る選択をした。「なぜ」、「どうして」という思いが交錯する中、サッカーの女神は長谷部を決して見放さなかった。再び強い光に照らされた彼の“過去”と“未来”に迫る。
Text by Thomas ZEH
Coordination and Translation by Masazumi ANDO
Photo by Getty Images
2012年4月20日、ブンデスリーガ第32節マインツ対ヴォルフスブルク。この試合、先発出場していた長谷部誠はハーフタイムでピッチを退いている。
結果はスコアレスドローという凡庸なゲームだったが、フェリックス・マガト前監督は交代の具体的な理由を明かすことはなかった。そしてこの日を境に、長谷部はピッチ上から姿を消すことになる。
かつて「私が最も大事に思っている選手の一人」とマガトから絶賛された男が、なぜ今日に至るまでの半年の間、試合に出られずにいたのか。その理由を紐解くために、まずは“マガト”について、話をしていこう。
選手はロボット……、“鬼軍曹”マガトの哲学
どんな状況でも自分のやり方がベストだと考えている彼は、決して選手と向き合って会話をしない。極端な言い方だが、選手など“単なるロボット”でしかないと思っているのだ。ロボットに自分の考えを伝える必要などない。ロボットはいくら走っても疲れない。ロボットは命令されたことだけを守れば良い。ロボットを操縦するのは、この“マガト”である――。
加えて、ドイツにおける彼の代名詞、“鬼軍曹”が表すとおり、トレーニングは“過酷”の一語に尽きる。肉体に限度を超えた負荷を与え、壊れてしまう寸前まで鍛え上げるフィジカルトレーニングは有名で、まさに軍隊方式なのだ。例えば深夜(明け方)4時から練習を始めたり、極寒の中を帽子や手袋の防寒着を着用させずに走らせるのも当たり前だった。それこそが成功の法則だと信じて疑わない、一昔前のフィジカル至上主義の指導者。それが“マガト”なのだ。
もう一つ彼を語るのに欠かせないのが“移籍フェチ”であるということ。目移りの激しさは有名で、この1年半で獲得、放出、期限付き移籍をした選手数は50人以上にのぼる。費やした移籍金の総額は7000万ユーロ(約72億円)。もちろん、どちらもリーグ新記録だ。クラブの年間予算は、親会社の気前の良さも後押しし、昨シーズン2冠を達成したドルトムントの2倍に及ぶ。そんな環境で選手たちは、ある日突然、理由も告げられず構想外や解雇の憂き目に遭ってきた。
“犠牲者”の一人、シャルケのジェフェルソン・ファルファンは、10月6日の第7節ヴォルフスブルク戦でゴールを決めると、「どうだ、見たか!」と言わんばかりに拳を振り上げ、敵チームのベンチに向かって走り出した。シャルケ時代に苦境に立たされたファルファンは、自分を見下し続けたマガトをどうしても見返してやりたかったのだろう。その気持ちが見て取れるようだった。また、アマチュアリーグに移籍した別の選手は今でも「アイツの顔なんて二度と見たくない」と、口にする。マガトとはそれほどまでに、チームの選手たちから嫌悪される人物なのだ。かつてマガトを雇い入れ、2冠を達成した名門バイエルンは「選手たちとの関係があまりに一方的で、周囲の人間を誰一人として信用しない。すべてが自分中心だ」という理由で彼を解雇した。そして彼らは「同じことがヴォルフスブルクでも起きるだろう」と予想し、それが見事に当たってしまったのだ。
監督交代で差した光、迫られる今後の“選択”
この原稿の執筆依頼を受け、私がマガトに関する記事を書くために取材をしていると、「マガトは記事を読んでチェックするのかな……」とビクビクするヨーロッパの代表選手がいたが、彼は窮地に追い込まれた長谷部を心配していて、匿名を条件に重たい口を開いてくれたのだ。
「なぜマコトを使わなくなったのか、誰も理解できないんだ。マコトはいつも一生懸命トレーニングに励み、規律正しいプロの鑑のような男だ。それなのに出場のチャンスがないなんて……。マコトが抜けて、そのポジションがガタガタになってるというのにだよ!」
そんなヴォルフスブルクに転機が訪れた。日本でも大きなニュースになったようだが、10月25日、ドイツサッカー界最後の“独裁者”が解任されたのだ。極度の成績不振を受けて、フォルクスワーゲン社のマルティン・ヴィンターコルンCEOが南米出張からの帰国便の機上で決断したと聞く。臨時ではあるが、監督代行には09年からヴォルフスブルクでアマチュアチームの監督を務めたロレンツ・ギュンター・ケストナーが着任(11月1日時点)。地味ではあるが人間味溢れる60歳のケストナーは、就任して2日後に迫った第9節デュッセルドルフ戦のメンバーに今シーズン初スタメンとなる6人を一気に投入。その中の一人に“長谷部誠”の名前があった。
監督が代わればチームも生まれ変わる。(前節時点で)最下位に沈んでいたヴォルフスブルクは、この試合に4-1と快勝、長谷部は右サイドの攻撃的MFとして走り回り、2ゴールに絡む活躍を見せた。前半は互角の戦いだったが、絶好機が訪れるまでしぶとく待ち続けたヴォルフスブルクの選手たちは、闘争心を前面に出し、気迫溢れるプレーを披露。「独裁者マガトがいなくなり、これからは自由で公平なチームになる。本気を出して頑張ろう」という心情が働いたのか、「チームのために戦おう、勝利しよう」という気持ちで一致団結しているように見えた。「チームが厳しい状況ですからね。(チームを)また助けることができてうれしいですよ」と長谷部が語れば、ケストナー監督代行も「チームは今シーズン最高のパフォーマンスだった」と満足気だった。
走力、試合の流れの読み方、戦術眼に統率力、豊富な経験といった長谷部の最大の持ち味は、この試合で十分に生かされたと言えるだろう。攻撃重視の布陣にあって、彼は守備にも奔走し勝利に貢献した。開幕から9試合すべてに出場中のDFファグネルを最もサポートしていたのは、今シーズン初出場の長谷部だった。ドイツ語のできないファグネルも、他の選手たちもまた、このチームにおける真のリーダーが誰であるのかをハッキリと実感したはずだ。ボールを失った選手に対しすぐさまフォローに回る。身ぶり手ぶりで戦術の修正を指示する。苦しい時期を過ごしていた日本人選手が見せたそのアクションが指針となり、チームは試合中、一度も乱れることがなかった。また、マガトによって苦難に立たされている間も長谷部は全く不平を漏らさず、監督批判もしなかった。プレーだけではなく、この品格溢れる態度はクラブ上層部とチームメートに信頼感を与えていたはずだ。そうしてチャンスは再び巡ってきたのである。
ケストナーは2年前にも監督代行を務めたことがあり、5カ月間の在任中に長谷部を毎試合のように先発で起用した。長谷部の気質もプレーの安定ぶりもよく知っているため、これからも彼が重用されるのは間違いないだろう。ただ、少し先の話になるが、チームがこのまま2部に降格した場合、長谷部にはヴォルフスブルクにとどまるメリットがない。14年のブラジル・ワールドカップ前にトップレベルのパフォーマンスを披露しなければ、日本代表としての出場機会を失う恐れがあるからだ。そこで気になるのは“移籍”のことだろう。長年、長谷部が憧れるプレミアリーグへの挑戦は環境の変化が伴うため少々厳しいとしても、ドイツ国内なら「HASEBE」の名前はどこでも通用する。新たな環境を探すのに苦労はしないだろう。もっとも、そのことを長谷部に問うと「今は、ヴォルフスブルクとの契約下にあるので何も考えないようにしています」とあくまでも冷静な答えが返ってきた。
ともかく、ウインターブレークが終わるまでには一つの“選択”が必要になる。もちろん、決めるのは長谷部自身。辛い日々から解放された彼が、新たな幸運を見つけることを心から祈っている。