[ワールドサッカーキング 0103号 掲載]
まさにジェットコースターのようだった。夢のような“シンデレラストーリー”と失意の物語は常に背中合わせだとはいえ、今シーズンの香川真司ほど極端なアップダウンを経験した選手はいないのではないか。「ユナイテッドの香川真司」の半年間を振り返る。
Text by Masayuki TANABE Photo by Kazuhito Yamada/Kaz Photography
懐疑論を振り払う順調な滑り出し
ドルトムントを離れ、マンチェスター・ユナイテッドの一員となった香川真司は、これ以上望むべくもないような船出を飾った。
8月20日、シーズンの開幕を告げるアウェーのエヴァートン戦では、いきなりトップ下で先発出場する。それまではダニー・ウェルベックが1トップ、ウェイン・ルーニーがトップ下で、香川は仮に出場できたとしても肩慣らしを兼ねて途中からピッチに立つか、攻撃的なサイドMF(4-2-3-1の「3」の両端)で起用されるという見方が強かった。
ところがアレックス・ファーガソン監督はルーニーを1トップに上げ、ウェルベックをサイドに回す形で、日本人の「10番」にトップ下の聖域を用意した。つまりこの時点で、香川は既にウェルベックとのポジション争いに勝利を収めていたことになる。
そして香川は見事に期待に応えた。ユナイテッドの選手たちがエヴァートンのフィジカルなプレーに手を焼く中にあって、唯一、チャンスらしいチャンスを作り出すことができていた選手だったといっても過言ではない。
8月25日、オールド・トラッフォードにフルアムを迎えた2戦目、香川は初戦を上回るインパクトを残す。この試合では何とルーニーを押しのけ、1トップのロビン・ファン・ペルシーと組む形でトップ下として起用されると、攻撃の司令塔として完全にゲームをコントロール。早々と記念すべき初ゴールまで記録した。
FWA(イングランドフットボール記者協会)の現会長を務める友人は、既にエヴァートン戦を終えた時点で「日本人にサッカーを習う時代になった」と脱帽していたが、フルアム戦の活躍で、香川に対する評価は一層揺るぎないものになった。それは辛口なコメントで知られるガリー・ネヴィルでさえもが、彼の才能を手放しでたたえたことからもうかがえる。
ユナイテッドの歴代の選手の中で、近年、かくも順調なスタートを切ったのはルーニーとカルロス・テベス程度しか思い当たらない。香川の移籍が発表された際、巷では「マーケティング目当てではないか」という俗説も流れていた。しかし、香川はそんな懐疑論を唱える人々の鼻をまんまと明かしてみせたのだった。
このフルアム戦では一つの事件も起きていた。後半に交代出場したルーニーが太腿に裂傷を負い、数週間欠場することが明らかになったのである。そもそも今シーズンのユナイテッドを巡っては、香川がファン・ペルシーやルーニーと共存できるかが大きなテーマとなっていた。ルーニー負傷の一報に接したジャーナリストたちが色めき立ったのは当然だろう。『マンチェスター・イブニング・ニュース』や『ガーディアン』などは、ルーニーが治療に専念する間に、香川が完全にポジションを奪う可能性さえ示唆した。
だが運命はあざなえる縄のごとし。ピッチ上における香川の存在感は、ルーニーが欠場すると同時に微妙に薄くなっていく。代わりにうなぎ登りの評価を集めたのは、第3節のサウサンプトン戦でハットトリックを、第5節のリヴァプール戦でも決勝ゴールをたたき出したファン・ペルシーだった。
もっとも、厳密に言えば「不調」に陥ったとされる間も、香川のプレーは決して悪くなかった。
前線でチームメートからボールを預かりさえすれば、サイドに流れてからのカットインやマイナスの折り返し、正確なワンツーやトリッキーなスルー、そして十八番とも言えるスモールスペースへのフリーランで、確実にチャンスを作り続けていた。得点にこそつながらなかったものの、サウサンプトン戦においてハビエル・エルナンデスにラストパスを出したシーンや、チャンピオンズリーグ(以下CL)・グループリーグ第1節のガラタサライ戦でマイケル・キャリックのゴールをお膳立てした場面などには、彼の持ち味が良く表れていたと言える。
「トップ下」を奪われ、変化した立ち位置
にもかかわらず、香川は第6節を境にレギュラーポジションそのものを脅かされるようになる。直接の契機となったのはルーニーの復帰だった。
トッテナムをホームに迎えたこの試合、香川は例によってトップ下で先発。後半には卓越したボディーバランスとボールコントロール能力を生かして、絶妙なシュートも決めている。
ただし、「バレエのダンサーのようだった」と評されたゴールが生まれたのは、後半にルーニーが交代出場し、香川に代わってトップ下に収まってからだった。つまり、8月25日のフルアム戦から約1カ月後、両者の立ち位置は逆転したのである。
そんな香川の苦境に輪をかけたのが、ファーガソンが着手した第二の戦術実験だった。
10月2日のCLクルージュ戦、ファーガソンは香川をベンチから外したばかりか、フォーメーションを4-2-3-1からダイヤモンド型の4-4-2に変更し、ルーニーにトップ下を任せている。ファーガソンは同じシステムをプレミアの第7節、ニューカッスル戦でも踏襲する。
この試合では今シーズン初めて香川、ルーニー、ファン・ペルシーの3人が先発で出そろったが、香川に与えられたのは日本代表でも経験したことのない右サイドだった。ダイヤモンド型の中盤でサイドにつく場合には、攻撃的MFというよりもサイドハーフ的な役割が要求される。香川は不慣れなポジションで必死にプレーしていたが、守備に追われるシーンが目につき、輝きを放つことはできなかった。
プレミアリーグのストーク戦を挟み、ファーガソンは10月23日のCLブラガ戦で再びダイヤモンドを採用し、今度は香川を左サイドで起用する。新たなシステムも消化し始めていたのだろう、香川は攻撃にもだいぶ絡むようになり、エルナンデスのゴールを演出している。このかいあって、ユナイテッドは最終的に3-2の逆転勝利を手繰り寄せた。
ところが、である。何としたことか、香川は守備でもチームに貢献すべく、スライディングを試みた際に左ヒザを痛めてしまう。
恐らく、このままベンチに退いたのではレギュラーの座さえ危うくなるという焦燥感を抱いていたに違いない。香川は前半終了まで果敢にプレーし続けたが、結果的にはそれがアダになった。数日後にチームから発表されたのは「故障のため、3~4週間は戦線を離脱する」という衝撃的なニュースだった。
かくして香川はルーニーからトップ下のポジションを奪い返すどころか、ピッチに立つことさえかなわなくなる。鮮やかなデビューから、失意のリハビリ生活へ。日本人ではじめて“赤い悪魔”の一員となったチャンスメーカーを待ち受けていたのは、あまりにも残酷な顛末だった。
香川が直面した4つの障害
自らが紡ぎだしていた“シンデレラストーリー”から、なぜ香川は中座しなければならなくなったのか。
よく聞かれるのはイングランドの“フットボール”特有のフィジカルとスピードの壁に行く手を阻まれたのではないか、という推論だ。だが、この手の説は取り扱いに注意しなければならない。
確かにフィジカルを強化する必要性は、ファーガソンのみならず香川本人も口にしている。サウサンプトン戦やリヴァプール戦、あるいはニューカッスル戦などで、香川がドイツの“フスボル”にはない速さと激しさに手を焼いていたのも事実だ。
しかし普通に考えるなら、フィジカルの差が本当の意味で響いてくるのは、あくまでも疲労が蓄積してくる後半戦になる。シーズン序盤の10節も消化していない時点では、さほど大きな障害にはなっていなかったはずだ。現に識者の中には、香川は予想よりはるかにスムーズに、新たな環境に対応したと主張する者も少なくない。
ならば、香川のシナリオを書き換えたものとは何だったのか。浮かび上がってくるのは、より根の深い問題だ。
1つ目は、理想的なスタートを切ったことの反動である。
香川は初戦で強烈な印象を与えた。メディアも含めて、そのイメージを刷り込まれた人たちが、フルアム戦に比べてもの足りないなどと不満を言うようになったのは自然な反応だろう。本人は意識していなかったにせよ、少なくとも一般的な評価という点で、香川にとって見えざる敵となっていたのは、他ならぬ彼自身だったと言えるかもしれない。
2つ目は、ユナイテッドのメンバーが香川の使い方に慣れていなかった点だ。
香川が切れ味を欠き始めたとささやかれた際、ガリー・ネヴィルは親しい記者に何度となく持論を漏らしたという。「ユナイテッドの選手は香川の使い方を覚える必要がある。香川もチームメートを使いこなせるようになっていかなければならない」
G・ネヴィルの言葉は説得力に富んでいる。サウサンプトン戦以降、ユナイテッドではナーニやアントニオ・バレンシアが4-2-3-1の両サイドで香川の“侍従”を務めるケースが多かった。彼らは香川のプレースタイルに最も「慣れていない」、言葉を換えればパスを渡そうとしない選手だった。結果、ルーニーというピッチ上の最大の理解者を失った香川は、自分の持ち味を発揮できなくなっていったのである。
加えて、ファーガソンは戦術の実験を急いでいた。これが3番目の要素だ。今シーズン、ファーガソンはメインのシステムを4-4-2から4-2-3-1に切り替えている。本来ならば、そこで香川、ファン・ペルシー、ルーニーの組み合わせを煮詰めていく予定が、クルージュ戦からはダイヤモンドまでテストし始めた。役割分担がはっきりしているファン・ペルシーや、チームメートと意思の疎通が取れているルーニーに比べ、香川の混乱が大きかったことは容易に想像できる。
そして最後はユナイテッドの中のポジション争いである。日本ではほとんど指摘されていなかったが、開幕前、香川にとってはトム・クレヴァリーの存在も脅威になるのではないかと言われていた。ファーガソンはクレヴァリーをして、「ポール・スコールズ以来の逸材だ」と常々吹聴してきた。例のニューカッスル戦とクルージュ戦で、香川とクレヴァリーが左右を入れ替わっているのは象徴的だと言えるだろう。
香川の重要性は損なわれていない
香川は“シンデレラストーリー”を再開できるのか。
私は微塵も疑問を抱いていない。今シーズンのユナイテッドには、是が非でも香川にいてもらわなければならない理由があるからだ。
例えばCLのクルージュ戦は、香川がベンチにさえ呼ばれなかったという点でも話題となった。しかしファーガソンは、次のように述べているのである。「私は遠征メンバーからシンジを外そうとは思わなかった。彼をチームに帯同させておけば、それだけで相手に脅威を与えることができる。シンジは非常にクレバーな選手だからだ」
更にファーガソンは最近の会見でも、香川の存在をいかに重視しているかを強調している。「シンジには満足している。彼は8月の最優秀選手だったと思うが、このクラブに来てあれだけのインパクトを与えられる選手は多くない。ケガで休んでいる間は、彼がチームにいてくれればと思ったよ。引いた相手を崩すのに苦労した試合が何度かあったからね。シンジはそういう状況でうまくプレーできるし、(守備陣をこじ開けるための)パスコースを見つける力も持っている。それこそ我々に必要だったものだ」
立ち戻るべきはシンプルな事実だ。今年の夏、ファーガソンは香川を招き、チームの基本システムを4-4-2から4-2-3-1に変えた。
昨シーズンはマンチェスター・シティーの前に苦杯をなめたとはいえ、プレミアの戦況を考えれば、4-4-2のままでも十分に戦えていたはずだ。ましてや今夏の移籍市場でファン・ペルシーを獲得した以上、システムを切り替える必然性は弱くなる。
だがファーガソンは安易な選択肢を避けた。プレミアでマンチェスター・Cから覇権を奪回し、ヨーロッパで再び頂点に立つためには、戦術をアップデートして、チームを数段スケールアップしなければならない。そして、そのための「触媒」こそが、新たな攻撃のスタイルとアイデアを持った香川真司という選手だったのである。
むろん、故障をした事は悔やまれる。チームとともに大きな変化の荒波を乗り越えていたならば、今頃、どんな姿を見せてくれていたのだろうかと想像してしまうのは我々の性だ。
だが一時的に喧騒とスポットライトから離れたことで、香川はユナイテッドというクラブやマンチェスターの街にも、じっくりなじめたはずだ。エスペラント語のように難解なファーガソンの言葉を少しでも理解すべく、語学にも磨きをかけただろう。「災い転じて福と成す」ということわざのとおり、予期せぬ休暇をポジティブに活用できれば、長期的にはお釣りがくることになる。
そして何より、香川はファーガソンとチームメートから必要とされている。むしろシーズンが佳境に差し掛かり、戦いが厳しさを増せば増すほど、彼の重要性は高まってくる。
シンデレラストーリーの第二幕は、パーティー会場に置き忘れたガラスの靴をヒロインが再び履くところから始まる。香川は「夢の劇場」にガラスの靴を取りに戻り、新生ユナイテッドの主役として、真のスポットライトをもう一度浴びなければならない。
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