[サムライサッカーキング2月号掲載]
ドイツに渡って1年半。悔しさと手応えを胸に、宇佐美貴史は、成長の歩みの中にいる。そんな彼をガンバ大阪時代から見守ってきたライター高村氏が、宇佐美の言葉とともに“今”をリポートする。
溶け込んでいたドイツの日常
宇佐美貴史が住む、ハイデルベルクの街を訪れたのは2012年12月5日。約束の時間に合わせてハイデルベルク駅に降り立つと、練習を終えた宇佐美が待っていてくれた。
その日の気温は4度。駐車場までは1分もかからない距離だったとはいえ、肌を突き刺すような冷気に襲われ思わず身を縮めてしまう。だが、隣を颯爽と歩く宇佐美は、と言えば、ニットのカーディガンにマフラーという軽装。「寒くないの?」と尋ねると「大丈夫です。慣れれば全然、平気っす」という返事が返って来た。
車の運転も滑らかだった。彼の行きつけのレストランまで20分ほどだったが、向かう途中、窓から見える風景を説明してくれながら車を走らせる。レストランに到着してからも、にこやかに店員と挨拶を交わして案内された席へ。「僕に任せてもらっていいですか?」との問いに「もちろん」と答えると、渡されたメニューを見ながら慣れた様子で注文をしていく。使っているのは、もちろんドイツ語。
そんな宇佐美を見ながら不思議な気分になった。彼がドイツに渡って約1年半。彼は実に違和感なく、ドイツの生活に溶け込んでいた。
宇佐美を刺激するリベリーの言葉
宇佐美がドイツの名門、バイエルンへの移籍を決めたのは2011年7月のこと。ガンバ大阪のアカデミーで育ち、クラブ史上初めて高校2年生でトップ昇格を果たしてから3年目のシーズンだった。1年目こそ出場機会に恵まれなかったが、2年目には18歳ながら、コンスタントにJ1リーグに出場。才能を世に知らしめ、Jリーグベストヤングプレーヤー賞を受賞するなど、一身に注目を集めた。その活躍は翌年も続き、6月には初の日本代表に選出。そんな宇佐美に世界が注目しないはずはなく、海外からいくつかのオファーが届けられる。その中から彼が選んだのは、ドイツの名門、バエルンだった。
「ガンバはホンマに大好きなチーム。ずっとガンバでプレーし続けて“ヤットさん(遠藤保仁)みたいにガンバの顔になろう”って考えたこともあった。でも、オファーをくれたのが、世界でもトップクラスの能力を持った選手が顔を揃えるバイエルンやったから。悩んだけど、こんなビッグチャンスを逃す自分を見たくなかった」
この言葉にもあるように、バイエルンはまさに、世界でもトップクラスの能力を持った選手で溢れていた。彼と同じ2列目のポジションにはアルイェン・ロッベン、フランク・リベリーら、名だたる顔ぶれが揃い、宇佐美の前に立ちはだかった。
その競争の中で宇佐美は、ブンデスリーガ第2 節のヴォルフスブルク戦(2011年8月13日)で途中出場を果たしたものの、以降は一向にチャンスを貰えない。それでも「ここでなら、間違いなく成長できる」という確信があったからだろう。日々の練習から“世界”を感じられる環境のもと、フィジカル強化、個のパワーアップに力を注ぎ、精力的にセカンドチームの試合にも出場しながら自身の向上に努めた。
「試合に出られない事実には納得していない。だけど、バイエルンにはトレーニングにも、自分を成長させられる要素がたくさんある。例えば紅白戦もその1つ。Bチームに入ると大抵の場合、フィリップ・ラームとマッチアップになるけど、ボールを取れないどころか、身体にも触らせてもらえないから。ラームのパスの選択肢を消しながら、いろんなことを予測して動いても、あっさりクライフターンでかわされてしまう。そこに必死についていっても、簡単にリベリーとのワンツーで抜けられちゃうからね。異次元の域でプレーしているように感じる。だから……。悔しいけど、正直、今の僕のままでは彼からボールを奪える気がしない。でも、それを知ることができたのは大収穫」
そうした日々は、宇佐美を確かに鍛え上げた。それを誰よりも実感していたのが、他ならぬ宇佐美自身だ。昨シーズン終盤のリーグ戦第32節、ブレーメン戦(2012年4月21日)で移籍後初のフル出場を果たした際の言葉がそれを物語る。
「トップでは半年以上ぶりの出場やったからね。試合勘や体力的に大丈夫かなと思っていたけど、『やれる』という手応えはめちゃめちゃあった。しっかりフィジカルを作ってきたという自信があったからこそ、それまではあまりしたことのなかった『自分から身体を当てにいくプレー』も出来たし、競り合っても耐えられるようになっている自分を確認できた。課題を挙げるなら90分をトップスピードでやり抜く体力。そこは試合を重ねていくしかないと思う」
それ以外にも日々の中で、リベリーらと交わす会話は彼を刺激し続けた。そのリベリーに言われた「プロでやっている以上は、自分が一番と思え」という言葉は今も心に刻まれている。練習でも試合でも、ミスをすればするほどセーフティーになるどころか、強気になっていくリベリーの姿は、彼に改めて『世界』を実感させた。
バロンドールをいつか、獲りたい
だが一方で、バイエルンでの1年に多くの手応えを得たからこそ、宇佐美の“試合に出たい”という欲は、加速した。2つ目のチームとして今シーズン、ホッフェンハイムを選んだのも、まずはそこを求めたから。もちろん、スタメンやポジションが確約されることはないとしても、ある程度、ピッチに立つことが計算できるチームを選ぶことは、自分をステップアップさせるための重要な判断基準となった。
と同時に、彼が目標に定めたのは“個”のレベルアップと目に見える結果。どれだけ自身をレベルアップさせても、ブンデスリーガで戦える自信を得ても、試合に出て結果を残さなければ誰の目にも留まらない。それを痛感したからこその目標設定だった。
その目標どおり、ホッフェンハイムでの生活は順調な滑り出しをみせた。ロンドン・オリンピック出場のためチームへの合流が遅れたこともあって、開幕から2試合は途中出場となったが、ブンデスリーガでの初ゴールを挙げた第3節のフライブルク戦(2012年9月16日)からはスタメンの座に。以降、ゴールはシュトゥットガルト戦(9月26日)に留まったが、前線を得意のドリブルで切り裂き、躍動する姿は確かに、宇佐美の成長を示していた。
そして、その姿はザッケローニ日本代表監督の目にも留まり、2012年11月には約1年半ぶりとなる日本代表にも選出される。だが、一筋縄ではいかないのが“海外”なのだろう。日本代表から戻って以降は、いきなり控えメンバーに戻ってしまう。その後4試合続けてベンチスタートになると、ホッフェンハイム移籍にあたり宇佐美獲得を指示したマルクス・パッベル監督が成績不振を理由に解任になってしまう。更に、その後任となったフランク・クラマー新監督の下でも、レギュラーの座は取り返せず、悔しさが募る毎日が続いているようだ。
「ホッフェンハイムで試合に出続ける中で『やれる』という手応えはあるし、ピッチに立てば絶対に結果を残せる自信もある。それだけに現状は悔しいしジレンマもある。自分に対しても『お前は何をやってるねん!』と腹立たしくて仕方がない」
そうして現状を悔しく思い、焦りを抱くのも、数年後に目指すべき場所を明確に捉えているからだ。思えば、ドイツに渡るにあたり彼は「僕は真剣に、いつかバロンドールを獲りたいと思っている」と語っていたが、それは今もブレていない。いや、彼自身にそれを問うと「今の自分では、バロンドールさんに失礼です」と謙虚に話したが、厳しい状況に置かれている今も、彼の言葉の端々には“世界”への意識が感じられる。
「周りはまだ20歳だというけど、僕にしたらもう20歳やから。世界を見渡しても今の年齢で試合に出てなかったらサッカー人生は終わりや、くらいの感覚でいる。それに将来を見据えれば、年齢に関係なく、自分がいる場所で常に主力じゃないとアカンし、目に見える結果を残していかないと上にはいけない」
「才能がある、なんて評価はうれしくもない。試合に出ていなければ才能がないのも同じ。才能がある、あると言われて気が付いたらサッカーができなくなっていたという選手を何人も見てきたしね。ホンマに才能があるなら試合にも出て結果も残せているはず。それが僕の才能の基準」
「新しい監督が来てまだ1週間? もう1週間でしょ。1週間も時間があって何もアピールできなかった自分にマジでむかつく。この世界、時間があるなんて思っていたら大間違いやから」
そうした高い意識がある限り、そして、先を見据えて逃げずに自分と向き合えているうちは、宇佐美はきっと“バロンドール”に向かって前進し続けることだろう。
いや、そのためにもまず、今、目の前に立ちはだかる壁を壊さなければいけない。ドイツに渡ってからの1年半。自分に起きるすべてのことを受け入れ、生活や文化に馴染み、言葉を覚え、ひたすら上を目指してサッカーに向き合ってきた時間を無駄にしないためにも、立ち止まっている訳にはいかない。彼が「今が最大の正念場。これを乗り越えたら……、最強の自分がいると信じている」と話したとおり、乗り越えた壁の向こうには必ず、“最強の宇佐美貴史”がいるはずだから。