Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、6つのクラブを渡り歩き、2002シーズン後半をサンフレッチェ広島で過ごしたDF井手口純さん。現在は母校・桐光学園高でコーチを務める彼に、プロ選手として過ごした自身のキャリアに対する思いと、指導者としての道を歩むセカンドキャリアについて聞いた。
文=細江克弥 取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム
エリートとして飛び込んだプロサッカーの世界
多くのプロ選手を輩出している育成の名門、三菱養和SCジュニアユースが初めて高円宮杯全日本ユース(U-15)を制したのが1994年。彼はそのチームのキャプテンとして活躍し、一躍脚光を浴びた。桐光学園高時代には79年度生まれの“黄金世代”の一人としてU-17日本代表に選出され、小野伸二や高原直泰、稲本潤一らとともに95年のU-17ワールドカップに出場。高校2年時には1学年上の中村俊輔を中心とするチームで全国高校サッカー選手権準優勝に輝き、卒業と同時に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に加入する。
井手口純は、いわゆるエリートとしてプロの世界に飛び込んだ。「小学生から始めたサッカーを今もずっと続けられていることは幸せですよね。プロとしての9年間は……夢がかなった時間でもあり、もっと活躍できたかもしれないという悔いも残っています。ただ、どのクラブで過ごした時間も鮮明に覚えているし、僕にとっては大切な時間でした。濃い9年間でしたね。27歳で引退したことは、今思えば『早かったかな』とも思います。でも、悔いはない。『生まれ変わったら何になりたいか』と聞かれれば、迷わず『サッカー選手』と答えます」
ピッチを退くまでの9年間は、井手口自身にとって充実した時間であり、人生の財産であると言い切れる。ただ、「もっとやれたのではないか」という悔いも残る。エリートとして過ごした育成年代を考慮すれば、確かにそのキャリアは決して華やかとは言えない。
指導者としての道を志す彼は今、桐光学園高サッカー部のコーチを務める傍ら、「JFAこころのプロジェクト」のスペシャルスタッフとして全国各地で子供たちに“夢”を語っている。「その活動を通じて得られることは?」と問いかけると、笑いながらこう答えた。「この活動には現役引退後から参加させてもらっているんですが、むしろ現役時代からやらせてもらえたら良かったなと思うんです。自分が元プロ選手として子供たちに“夢”を伝えようとすることは、自分がそれまでやってきたこと、今やっていることを自分自身で整理する機会になる。自分は本当に努力しているのか、夢を持って生きているのかということを考えながら、自分自身を見つめ直すことができるんです。僕はそのたびに、現役時代の自分の努力が足りなかったということに気づくんですよ」
高校3年時に負った故障の影響で、プロ1年目の大半をリハビリに費やした。当時のチームには井原正巳や小村徳男、松田直樹ら守備陣に日本代表クラスの選手がそろっていたため、「じっくりケガを治して2、3年後に出場機会を得られるようになれば」と考えていたという。しかし、2年目の99年はリーグ戦で2試合しか出場機会を得られず、シーズン途中にJ2に所属していたコンサドーレ札幌への期限付き移籍を選択。横浜FMに復帰した00年も出場機会はなく、01年には再び期限付き移籍を決意して湘南ベルマーレのユニフォームを着た。結局、横浜FMでの出場機会は翌02年も与えられなかった。「マリノスにいたのは都合4年間。難しかったですね。トレーニングはレベルが高くて良かったのですが、今思えば、“それ以上”の努力ができなかった。もちろん『日本代表になりたい』という目標は漠然と持っていました。でも、その目標に近づくための努力を自分自身に課すことができなくて、プロ選手として一番大事な時期をある意味“普通”に過ごしてしまったのかなと思います。それが後悔として残っていますね」
サンフレッチェ広島に籍を置いたのは、02シーズン後半の半年間だった。わずかな期間だったが、このクラブに対する思い入れは強い。「サポーターの皆さんの熱さが、すごく印象に残っていますね。普段はそれほど感じないんだけど、ビッグアーチで試合に出ると『こんなにたくさんの人が応援してくれるのか』とびっくりする。マリノスにいて、広島から期限付き移籍のオファーをもらった時は迷わずチャレンジしようと思いました。その頃はマリノスでもトップチームに絡んでいるという手応えがあったんですけど、自分に足りないものを見つけるためには環境を変えてチャレンジする必要があるなと。でも、マリノス時代と同様、自分自身にもっと厳しくならなきゃいけなかったと思います。そこはやっぱり反省点ですね」
広島ではリーグ戦7試合に出場。このクラブに在籍したのは半年だけだったが、昨年のリーグ制覇に際しては特別な喜びを覚えた。チームを離れて11年になるが当時親交の深かった森﨑兄弟を始め、ともにプレーした選手の活躍はやはりうれしい。
サッカーへの強い思いが切り開いたセカンドキャリア
03年には横浜FMからサガン鳥栖への移籍を選択。3年目の05年にはレギュラーとして30試合に出場したが、シーズン終了後にクラブから戦力外通告を受ける。鳥栖からはコーチ就任の打診を受けたが現役続行の意志を貫き、徳島ヴォルティスから届いたオファーを受けた。体が動く限り、必要としてくれるクラブがある限り選手としてピッチに立ちたいと考えた。「自分が続けたいなら、続けるべきだと思ったんですよ。プロの世界ではいつ何が起こるか分からないですから」
徳島ヴォルティスではリーグ戦27試合に出場。しかしまたしてもシーズン終了後に戦力外通告を受けた。井手口はこのシーズンを最後に現役引退を決断する。徳島で過ごした1年間は彼にとって有意義だったが、またしても戦力外通告を突き付けられたことで自身の身の振り方を考えるようになった。「鳥栖でも徳島でも出場機会をもらったんですが、それでもシーズン終了後に戦力外通告を受けることになって。結果を残してもクビを切られてしまうという状況に立て続けに直面して、現実を突きつけられたというか、『もう厳しいかな』と思ってしまったんです。それで、徳島を最後に引退することを決意しました」
とはいえ、セカンドキャリアについて具体的なイメージを持っていたわけではない。自身の中で決めていたのは、サッカーを続けること。つまり指導者としての道に進むことは、何となく頭の中にあった。「ある先輩から、サッカースクールを手伝わないかという話をもらっていたんです。だから、このタイミングでそっちの道に進んでみたいと思いました。サッカーから離れようとは思わなかったですね。“外の世界”にはほとんど興味を持ちませんでした。いつか、自分を育ててくれた三菱養和の指導者になりたいという思いもありましたし、とにかくその方向に向かって進もうと。例えば起業するとか、そういうことは全く考えませんでした」
それが前園真聖さんが主宰する「ZONOサッカースクール」で、首都圏に9校を構える12歳以下の少年少女を対象とするサッカースクールだった。現役引退の決断から間もなく、井手口はここで指導者としてのキャリアをスタートさせるチャンスを得た。「サッカースクールでの指導をメインとして新しいキャリアをスタートさせました。07年には『JFAこころのプロジェクト』でユメセン(夢先生)の授業をお手伝いさせてもらったんです。それがきっかけでユメセンのアシスタントを務めるようになり、全国各地を回って子供たちと触れ合うようになりました」「JFAこころのプロジェクト」での全国を回る活動は、井手口に大きな刺激を与えた。サッカースクールにはサッカーが好きな子供たちが集まるが、ユメセンの現場はそうではない。もちろんサッカーが好きな子供もいれば、そうでない子供もいる。そんな子供たちにサッカーを通じて「夢の大切さ」を伝えるという試みは、彼自身の人間性を磨く上で非常に大きな手助けになっているという。
指導者としての道を歩き始めて7年目。今年に入ると、母校である桐光学園高からコーチ就任の依頼を受けた。「迷う必要はない。お前のステップアップにつながるんだから挑戦してみればいい」と周囲からも背中を押され、新しい道へ進む決断を下した。
伸び盛りの高校生と向き合う時間は、指導者の道を進もうとする彼にとって得るものも大きい。「今の高校生は、僕らの頃に比べて、基本技術は間違いなくアップしていますよね。でも、“サッカー”に対する理解はまだまだ浅い。高校生だからその日の気分やコンディションに左右されることも多いので、難しいですね」
神奈川県高校サッカー界の名門である桐光学園高は、井手口の高校時代の恩師でもあり、名物指導者でもあった佐熊裕和監督が昨年度限りで退任。後任には井手口の2つ上の学年でキャプテンを務め、アビスパ福岡や鳥栖で活躍した鈴木勝大が就任した。井手口はコーチとして鈴木監督をサポートしている。「桐光学園高にとって佐熊先生が退任されたことは、ピンチでもあり、チャンスでもあると思うんです。やっぱり『大丈夫か?』と言われることも多いんですが、この状況を何とか跳ね返したいという思いは強い。僕自身、佐熊先生が退任されたことで声を掛けてもらったので、もちろん責任も感じていますよ。でも、これをチャンスと考えないと」
スクールコーチとして小学生を指導し、夢先生のサポート役として全国各地の子供たちと触れ合い、今度は母校のコーチとして高校生と向き合う。井手口の指導者としてのキャリアは、着実なステップアップを遂げていると言っていい。「ものすごく自分の勉強になりますよね。年代別に教え方を変えなければならないということが、ここまでの経験でよく分かりました。小学生は頭では理解できないことがあっても、行動と態度で示すことができる。逆に高校生は、頭では分かっているけど行動と態度で示すことができない。高校生と向き合ったばかりの頃は、少し戸惑いました。今は約半年間一緒に過ごして、ようやく少しずつ慣れてきた感じです」
指導者として身を置く高校サッカー界の“景色”は、やはり自身が選手だった十数年前とは大きく違う。「勝負や結果に一喜一憂するということではなく、そこまでのプロセスが大事だと思っています。僕の仕事は、選手たちをどのようにコントロールして、いい状態を作ってあげるかということ。そう考えると、自分が選手だった頃よりは気が楽というか、楽しめますね。ただ……ピッチの外で試合を見ていても、やっぱり熱くなってしまうことはあります。ゴールが入ると、やっぱりうれしいですから。先日はピッチの脇で控え選手のウォームアップを手伝っていたんですが、気づいたら大声でピッチ内の選手に指示を出していて、第4審判に注意されてしまいました(笑)」
母校・桐光学園高で日本一を目指す道のり
井手口は、プロとしてのキャリアの中でセカンドキャリアについて思い悩むことはなかった。というより、自分がサッカーの世界に身を置き続けることを漠然とイメージし、サッカーにこだわることで未来を切り開いてきた。「さっきも言ったとおり、選手としての自分が求められる限り、自分にやりたいという意志がある限り選手であることを続けるべきだと思っていました。だから、選手時代にセカンドキャリアについて考えたことはありません。選手としての寿命は限られているかもしれないけど、引き際がいつなのかを分かる選手は誰もいないと思うんです。そこがサッカー選手にとって難しいところでもある。僕の場合は、頭の片隅には『ダメになったらその時に考えよう』という気持ちだけがありました。でも、サッカーから離れようとは思わなかった。いろんなことにアンテナを張っておくことはすごく大事だと思うんですが、実際に行動に移すのは難しいですよね」
自らのキャリアを振り返って、選手として「もっと努力していれば」という悔いもある。ただ、そうした思いを指導者として伝えることで、自身のキャリアを意味あるものにすることもできる。「いろんな現場で指導させてもらったことで、僕自身にとってものすごくいい勉強になっています。プロの時にできなかったことを、今度は指導者としてやりたいという思いが強いですね。今の目標は、桐光学園高を日本一にすること。ただ、それだけじゃなく、サッカーをいろんな角度から見ながら、もっと深く勉強したい。指導にかかわることを幅広くやりながら、サッカーそのものの面白さを伝えられる指導者になりたいですね」
日本一を目指す高校生に伝える言葉と、その日限りの指導で接する小学生に伝える言葉は違う。指導の現場で養われる「人間力」を井手口は肌で感じている。「先のことを考えるのは難しい。だから、何十年後の自分をイメージしてそこに向かうのではなく、今向き合っていることに全力を注ぎたいと思います。プロ選手としての生活が染みついているので、短期間で結果を求められる厳しい世界に身を委ねることも決して苦ではないですよ(笑)。プロとしてのキャリアを通じて、そういう強さは身についている気がしますね」
18歳でプロの世界に飛び込み、そこで9年の歳月を過ごした。プロ選手とセカンドキャリアの関係については、次のように感じている。「サッカー選手である以上、サッカーのことしか考えられないというのが普通だと思うんです。だから、もしセカンドキャリアのことを考えるなら、大学に通うほうがいい。可能性が広がることは間違いありませんから。もちろん自分のキャリアに対する後悔はありませんが、しっかり勉強をしてからサッカーの世界に挑む。そういう手順を踏むにしても、決して遅くはないと思いますね」
高校サッカー界に身を置いてまだ半年だが、サッカー界の未来を作るこの仕事にやり甲斐を感じている。自分を育ててくれたサッカーに、サッカーで恩返しをする。彼のセカンドキャリアはまだ始まったばかりだ。