スポーツマーケティングの仕事に向いているのは、どんなタイプの人だろうか。
「人が好きな人」と、渡邉和史さんは言う。おそらくは彼自身がそうなのだろうということは、話していてすぐにわかる。堅苦しいところがなく、フレンドリーで、話にはユーモアがある。取材する立場としてはありがたい人物だ。
日本コカ・コーラ株式会社でマーケティングを担当してきた渡邉さんは、東京2020オリンピックに向けた同社のマーケティング事業の一環である、オリンピック聖火リレープロジェクトを統括するリーダーの立場にある。
FIFAワールドカップやオリンピックといったスポーツの祭典をスポンサーするコカ・コーラ社で、彼はさまざまなアクティベーションを企画・実施してきた。キャリアを通じて、一貫してスポーツマーケティングという仕事に携わってきた。その根底には、彼自身のどんな思いがあるのだろうか。
11月、株式会社フロムワンが運営する「FROMONE SPORTS ACADEMY」では、渡邉さんを講師に招いてセミナーを実施する。その前に、渡邉さん自身がどんな人物かを明らかにするために、このインタビューをお届けしたい。スポーツビジネスに興味を持っている方なら、彼の言葉から学べることがたくさんあるはずだ。
──渡邉さんのキャリアは「スポーツマーケティング一筋」という感じですよね。広告代理店、FIFA、コカ・コーラ社と職場が変わっても、基本的にはスポーツを通してさまざまな情報を発信していく、おもしろい企画を仕掛けていく、というお仕事だと思います。一貫してスポーツにこだわる、その原点はどこにあるんでしょうか?
渡邉 キーワードは“ボーダーレス”ですね。スポーツには国境がないじゃないですか。たとえば一人の日本人アスリートが海外で活躍すれば、その選手が世界的に注目を浴びて、その人を中心に日本という国を知ってもらえるし、勉強してもらえる。ものすごくいいアンバサダーになるわけですね。僕がこのスポーツマーケティングの業界に「これだ」と足を踏み入れたのも、“ボーダーレス”ということに魅力を感じたからなんです。
──何か、そう考えるようになるきっかけがあったんですか?
渡邉 ひとつのきっかけは、就職活動中に家でテレビを見ていたら、ロサンゼルス・ドジャーズでプレーしていた野茂英雄さんがノーヒット・ノーランを成し遂げたんです。当時のメジャーリーグは選手のストライキの影響もあって、人気が低迷していたんですよね。
──よく覚えています。野茂さんがアメリカに渡ったのが1995年。最初のシーズンはストライキで開幕が遅れていましたよね。
渡邉 そんな中で、日本国内からも「野茂はどうしてメジャーになんか行くんだ」という声があったにもかかわらず、彼は海を渡って、日本人選手のパイオニアになった。ノーヒット・ノーランという偉業を達成して『タイム』誌の表紙になり、米国でも“ノモ・フィーバー”という言葉ができたほど、旋風を巻き起こしましたよね。彼のパイオニア精神と、何よりも自分の意思を貫く姿勢に感動しました。そのときに、自分自身がスポーツ選手として海外に行くことはできないけれども、こういうことに関われる仕事はできないか、と思ったことが原点ですね。
──つまりスポーツを通して、世界に出ていくような仕事ということですね。
渡邉 そうです。それで博報堂に入ることになるんですが、その前に実はアナウンサーとして内定をもらっていたんですよ。それも、テレビ局に入れば、日本のスポーツをいろいろな形で世界に発信できると思ったからなんです。
──1990年代後半は、ものごい就職氷河期でしたよね? 優秀な学生だったんですね。
渡邉 いえ、ノリが良かっただけです(笑)。ノリが良くて笑いばっかり取っていたので、面接には強いんですよ(笑)。ただ、僕にはライフコンセプトがあるんです。僕は高校まで日本と米国を行ったり来たりの人生で、14歳から17歳まで米国で過ごした高校時代に感じたのは、日本の文化がほとんど知られていない、ということでした。友達から「君の親父ってやっぱり忍者なの?」と言われたりする(笑)。悔しかったし、危機感も感じました。「いや、1回日本に来てみろ、すごいんだぞ」と。だから自分はいつか日本に帰って、日本の良さを伝える仕事をしたい、と考えたのが高校3年生のときです。それが最初に言った“ボーダーレス”にもつながってくるんですけども。
──1997年から広告代理店に入って、希望どおりにスポーツマーケティングの仕事ができたんですか?
渡邉 初めて本格的にスポーツマーケティングに関わったのは、南米のサッカークラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスでした。大会のスポンサーだったトヨタ自動車の担当として運営に関わったんですが、日本の常識が全く通用しなくて、本当に大変な思いをしました(笑)。でも、南米というのはサッカーに熱い地域ですから、スタジアムの盛り上がりはものすごいんです。サッカーというスポーツが持つポテンシャルを感じましたね。
──2000年にFIFAに転職されたのは、そのときの経験が大きかったわけですか?
渡邉 そうですね。2002年のFIFAワールドカップに直接関わることができるわけですし、自分が今後、サッカーの世界で働いていくことを考えたら、人脈を形成するためにもいい機会だと思ったんです。給料は下がりましたけどね(笑)。でも、自己投資という意味ではFIFAに転職して、正解だったと思っています。結果論になりますが、僕が今、コカ・コーラ社で東京2020オリンピックに向けてさまざまなプロジェクトに関わり、一緒に仕事をしている方々のうち、40パーセントくらいは2002年にお付き合いしていた人たちなんですね。そう考えると、芯のところでブレずに、やりたいことを貫いてきた結果、今みたいなポジションにいられるのかな、と思います。
──せっかく大手の代理店に入ったのに……と思ってしまいますが、結果的にはFIFAに転職したことがプラスになっている。
渡邉 僕の父もそういうタイプなんですよ。父はもともと日本の銀行員だったんですが、米国のサンディエゴに行くことになり、そこで生まれたのが僕なんです。父はそこから外資系の銀行に移って、今も現役で働いています。父親のそういう姿を見てきたので、働く場所を変えることにためらいはないですね。自分の信念、つまりスポーツを通じて日本の文化、日本の魅力を世界に伝えていく。そこがブレなければ、働く場所は関係ありません。転職やキャリアプランニングについては、僕にはライフコンセプトがあるので、明確な判断基準があるんです。自分のやりたいことじゃなければ、たとえ給料が倍になっても行かない。行ったって仕方ないし、おもしろくない。キャリアプランニングを考えるうえでは、そこが一番重要なポイントだと思います。
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By 坂本 聡