あの“レアル・マドリード”で働いた日本人――。
スペインから帰国して以降、酒井浩之さんはどこに行ってもそんな風に紹介されている。レアル・マドリードというクラブの知名度を考えれば、わかりやすい“肩書き”だ。20代の頃、酒井さんは外資系企業を転々とするキャリアを送り、30代でスペイン留学を決意した。そして今、「レアル・マドリード」は彼の武器のひとつになった。
株式会社フロムワンが運営するFROMONE SPORTS ACADEMYでは、その酒井さんを講師に招き、スポーツマネジメントを学ぶセミナーを企画している(2019年1月に実施予定)。世界的な名門クラブの内側、そしてスポーツマネジメントの最前線について、たっぷりと語ってもらう予定だ。
このインタビューでは、酒井さんの人物像を知るべく、スペイン留学に至るまでの経緯をお届けする。実はこの部分だけで1時間もかかったほど濃い話だったから、留学後のお話は後日、「後編」としてまとめることにした。思いどおりにならない現実と戦いながら、悩んできた20代の日々。その内容には参考になる部分も、勇気づけられる部分もある。少なくとも僕は、わりと励まされました。
──酒井さんはレアル・マドリード大学院のスポーツマネジメントMBAコースを修了したのち、実際にレアル・マドリードのクラブスタッフとして働いた経歴をお持ちです。そこはものすごく興味深いんですけども、MBAに到達するまでの経歴も少し変わっていらっしゃるので、ぜひそのストーリーもお聞きしたいと思います。まずはサッカーとの関わりから。
酒井 父親の友人にサッカー関係者が多かったんですよね。それで自然とボールを蹴るようになり、小・中・高と学校のチームでサッカーしてました。見るのも好きだしやるのも好きだし。大学ではサッカーから離れて違うことをしようと思っていたんですが、体育の授業で足をケガして、リハビリのためにまたボールを蹴り始めたんです。その後、当時アルバイトを応募した焼肉屋さんに、元ジェフ・ユナイテッド市原・千葉の小屋禎さんがお手伝いで厨房に入られていて。それで「サッカーがやりたいならウチのチームに来いよ」と誘っていただいたんです。
──バイト先の定員さんが元Jリーガーだったと。すごい縁ですね。
酒井 それで入ったのが「FC青山」という、青山学院大学の体育会サッカー部OBが作っている社会人チームでした。実は、小屋さんは青学サッカー部出身で、その焼肉屋さんのオーナーも青学サッカー部の関係者の方だったんですよ。そんなご縁があって、僕自身は日本大学の学生だったんですけど、青学OBの社会人チームでプレーしてたんです。
──大学も違えば、年齢も違う方々と同じチームでプレーしていたわけですか。
酒井 そうなんです。FC青山に行くと、青学サッカー部出身の先輩がたくさんいて、自然と現役選手ともつながります。そういう人たちと知り合いになって、一緒に遊びに行くようになって。自分の大学に行くよりも楽しくなっちゃったんですよね(笑)。そんなときに、先輩のひとりに「オレの会社に遊びにこいよ」と言われて、行ってみたらアディダスだったんです。
──なんか、すごい展開ですね。いつごろのお話ですか?
酒井 それが2001年くらい。アディダスが2002年の日韓ワールドカップに向けて、いろいろな準備を進めていた時期ですね。その先輩は2002年に発売するスパイクの担当者だったんです。ワールドカップで発表されるモデルを開発していた。そこで「人が足りないから手伝ってくれ」と言われて。まあ、何も知らない学生にとってみれば、とんでもない世界がくり広げられていましたよね。
──いきなり開発の現場に呼ばれてしまった。
酒井 もう驚きの連続でした(笑)。そこからアディダスでのインターン生活が始まったんです。当時は会社の中に自分の席があって、名刺も作ってもらい、日韓ワールドカップ中もずっと仕事してました。だから大学の同期が「就職どうしよう」なんて言ってるときも、「オレはもう決まったな」と思ってたんですけど……。
──決まらなかったんですか。
酒井 クリストフ・べズーさんという当時の社長が面接してくれたんですが、「ヒロは5億、10億円のカネを動かしたことはあるか?」と言われました。ビジネス経験のない人間は採用できない、つまり「アディダスは人を育てる場所ではなく、ビジネスをする場所だ」というメッセージですよね。彼らはいい商品を作って終わりじゃないんです。それを「売る」ことが非常に重要で、ものすごいお金と労力をかけて「売る仕組み」を作っていた。だから「どうやって売るか」というミーティングもすごく多かったんです。それが当時は全くわからなかったので、社長の言葉にポカーンとしてしまって(笑)。自分の中では「モノ作りのスペシャリストになる!」というストーリーができていたんですけどね。
──就職活動もゼロからやり直しになってしまった。
酒井 それで読売広告社に入りました。広告代理店なら、「売る」という部分、マーケティングの部分を勉強できると思って。「ザ・代理店」という環境でしたけど、ここで頑張れば絶対にどこかでアディダスに戻れるチャンスが来ると思ってやってました。3年半くらい経ったときに、アディダスに誘ってくれたFC青山の先輩からまた話があって、部門はフットボールじゃないけど、来る気があるかと。それで念願のアディダスに入れたんですが、1年ほどで契約を切られてしまいました。
──1年で? シビアすぎませんか?
酒井 ちょうど2008年のリーマンショックの時期で、タイミングも悪かったんですね。ショックでしたけど、今度はまた違う先輩から電話がかかってきて、キャロウェイという外資系のゴルフ・ブランドのシューズ部門に誘われました。ここなら自分の経験も生かせるし、「これからはゴルフだ」と意気込んで入社して、成果も出したんです。きちんとマーケティング分析をして、価格帯を下げたモデルがかなり売れた。そしたら今度は、「シューズ部門はたたむ」と言われてしまって……。
──結果を出したのに、ですか?
酒井 リーマンショックの後、ヨーロッパの金融危機があって、事業を整理する必要があったんですね。ゴルフメーカーで一番重要なのはゴルフクラブなので、そこを残してシューズ部門はカットすると。その経営判断は、今はわかりますけど、当時は納得できなかったですよね。その次はまたゴルフ関連のメーカーで2年ほど務め、また契約を切られて。もうわけがわからなかったですよ。自分なりに頑張っているのに、どこに行っても認められないんですから。
──外資系は転職が当然の世界とはいえ……悩ましい状況ですね。
酒井 なので、クビになった後はいつも半年くらい、仕事しないでボーッと悩みながら過ごしました(笑)。その後、キャロウェイ時代の先輩に紹介していただいて、電通東日本で契約社員として働いていました。チャンスをいただけたことは本当にありがたかったんですが、毎日、自問自答を繰り返してましたね。仕事は言われたことをやるだけだし、好きなスポーツにも関われない。自分がこの仕事をやる意味がわからない。33歳にして人生に迷ってしまったんです(笑)。このまま、ここで勝負するのはどう考えても苦しい。どうせなら自分の好きなことで苦しみたいなあと。それはやっぱりスポーツだと思いました。そんなときに、元日本代表の、宮本恒靖さんの講演を聞いたんです。
──ちょうど宮本さんがFIFAマスター(FIFA大学院)を卒業されて、日本に戻ってきたくらいのタイミングですかね。
酒井 そうです。宮本恒靖さんのFIFAマスターの話を聞いて、そこで初めて、海外留学してMBAを取るというプランが浮かんできた。MBAを取った後に何をするかまでは考えていなかったんですけど(笑)、とにかく自分には武器がなかったから、武器を持たないとやっていけないと思ったんです。そこでMBAについて調べたり、いろんな人に話を聞いていって、MLS(メジャーリーグサッカー)やFCバルセロナで働いていた中村武彦さんを紹介していただきました。
──中村さんは、僕も先日インタビューさせていただきました(インタビューはこちら)。スポーツマネジメントの業界ではスペシャリストですよね。
酒井 中村さんも青学の体育会サッカー部出身なので、ぜひ話を聞きたいと言ってFC青山の先輩につないでもらって。それで中村さんが紹介してくれたのが、レアル・マドリード大学院のMBAコースだったんです。
──なるほど。そこで「FC青山」のつながりがまた生きた。中村さんは確か、レアル・マドリードMBAで講師もされていましたよね。
酒井 そうなんです。すごくいい機会をいただいて、これが僕にとって転機になりました。
──ここまでのお話を聞いて思ったんですけど、酒井さんはキャリアの節目のたびに、いろいろな方をうまく頼って、上手に道を広げてこられたように思います。人に可愛がられる才能があるというか。
酒井 いや、自分の中では偶然、ちょうど頼れる人がまわりにいた、という感じなんですけどね。ある意味、うまく拾えた縁だと思ってます。あと、サッカーがつないでくれた縁というのもありますし。学生時代にFC青山に誘われてから、そこでずっとプレーしてきたんで。それだけは不思議と、辞めようと思わなかったですね。
──そこは参考になる気がします。人脈が豊かな人って、せっせと人脈を作ろう、作ろうとしているタイプじゃないですよね。むしろごく自然に、好きな人たちと楽しいお付き合いを続けていらっしゃる方が多い。酒井さんの場合は結果として、メーカーと広告代理店で働き、スポーツもサッカーにゴルフに……いろんなジャンルのビジネスを経験することになりました。
酒井 今振り返ればそう思えるんですけど、当時は必死でしたよ。どの会社でも、やれと言われたことを必死でやっていました。だからダメだったんですけどね。もっと頭を使って、戦略的に考えながら仕事をしていれば、違うキャリアがあったんじゃないかと思います。ただ、それはやっぱり今だからわかることなんですけどね(笑)。
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By 坂本 聡