日本人初のプロサッカー選手として本場ドイツで活躍し、現在は横浜FCの会長を務める奥寺康彦氏が登場し、自身のサッカーキャリアを振り返った。
1977年、25歳の時に古河電工サッカー部からブンデスリーガのケルンに移籍し、日本人初のプロサッカー選手となった奥寺氏。その後ヘルタ・ベルリン、ブレーメンでもプレーし、正確なキックから“東洋のコンピュータ”の異名も取った。彼はどのような経緯でドイツに移籍することになったのだろうか。
「当時の日本代表監督だった二宮寛さんが、ケルンの監督だったヘネス・バイスバイラーとすごく仲が良くて、日本代表で当時の西ドイツに行った時も、グラウンドの手配やゲームの相手などをしてくれて。しかも、今だったら絶対にできないんだけど、西ドイツ合宿に行った代表メンバー20人を5人ずつ4つのグループに分けて、ブンデスリーガのクラブのプレシーズンキャンプに参加させてもらったの。それでケルンのキャンプに参加したんだけど、ある日、紅白戦をやる時に二宮さんが『奥寺、今日はケルンのトップチームに入れ』って」
紅白戦への参加だったが、実際はこれがケルンへの入団テストだった。
「突然言われたからうれしくて、左サイドのFWとしてプレーした。(通用しそうな感じは)なかったとは言えない。サテライトチームの選手とやっても引けは取らなかったからね。トップチームに入ったらどんどんいいパスが来るし、テストだと言われてないから伸び伸びできたんだよね。けっこういいプレーができた。そして帰国する2、3日前に、二宮さんから『バイスバイラーがお前に話があるそうだから、ケルンのクラブハウスに行こう』って言われて、行ってみたら『バイスバイラーがお前を欲しがっている。このチームでやらないかと言っているけど、どうする?』って」
監督からの直々のオファーだったが、奥寺氏はすぐに決断できなかったという。
「確かに(ブンデスリーガは)憧れだったけど、ここでやれるレベルじゃないと思っていたから、すごくびっくりしたし、即決はできなかった。結婚していて奥さんがいて、所属チームもあった。『帰って相談してから連絡します』と言うしかなかった」
ケルンに加入する場合は古河電工からの移籍という形になるが、古河電工は快く奥寺氏を送り出してくれた。
「チームは二宮さんから事情を聞いていたから、サーッと動いてくれて、社長も『古河電工としては出してもいい』と。『こんなチャンスはないんだから、行ったほうがいい』と言ってくれたよね」
古河電工サッカー部は名門とはいえ、当時は全員が社員選手。それがいきなり、世界最高峰のリーグでプロ契約することになり、収入面も激変したという。
「(給料は)全然違う。(古河電工は)みんな社員で、俺は高卒だったし、確か手取りで10万円いってなかったんじゃないかな。それが(ケルンでは)10倍ぐらいになった。基本給が。勝利給は1勝ごとに2000マルク(当時のレートで約24万円)。それだけ評価してくれていたからうれしかったよね」
移籍時に3年契約を結んだこともあり、ケルンでは3シーズンプレー。その後、契約を2年延長して4シーズン目に臨んだが、恩師のバイスバイラーがアメリカのチームに移籍してしまい、新監督の下では構想外の苦汁をなめることになる。
「新しい監督が来たら使われなくなっちゃった。当時、外国籍選手は2人しかピッチに立てないから2人しかいなかったんだけど、もう1人獲得されちゃって。2カ月ぐらい頑張ったんだけどチャンスをもらえなかったから、2部のヘルタ・ベルリンに移籍することになった」
ヘルタ・ベルリンではレギュラーとして活躍したが、残念ながらチームは2部で3位に終わり、昇格を逃してしまう。しかし、この時に2部で優勝したブレーメンが彼に目をつけた。
「ブレーメンが優勝して1部に上がって、オットー・レーハーゲル監督が声を掛けてくれた。僕としてはケルンで不運があったけど、バイスバイラーやレーハーゲルに出会えたのが大きかったね」
「スピードがあって左足のキックが強かった」という奥寺氏は、ケルン時代は主に左ウイングとしてプレーしていたが、ヘルタ・ベルリンでは右サイドバックでプレーしたという。監督から「お前以外にやれそうなやつがいない」と言われたそうだが、ここで奥寺氏から意外な事実が語られた。
「俺は一応、右利きだから。左足のキックが強かったんだけど、右利きだから右足も蹴れる。シュートは左足のほうが強く蹴れるんだけどね(笑)。だから右サイドバックをやった。初めてのポジションだったから最初はちょっと戸惑ったけど、面白かったよ」
一方、ブレーメンでは様々なポジションでプレーした。
「ブレーメンの時は、1年目は右サイドバック、2年目はいろいろなポジションをやった。ポリバレントね。『今日はストッパーやってくれ』、『今日はセンターフォワードやってくれ』って。GK以外は全部やったよ。『車範根(フランクフルトやレバークーゼンでプレー)をマークしろ、(カール・ハインツ)ルンメニゲ(バイエルンでプレー)をマークしろ』って、いろいろ言われたよ」
北海道コンサドーレ札幌の野々村芳和社長がMCを務める『Jリーグラボ』は、毎月第2日曜日の21時から放送される。日本のサッカー水準向上を目的に、毎回ゲストを招いて様々な角度から日本サッカーを分析していく。次回は4月8日(日)21時から放送される予定となっている。
By サッカーキング編集部
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