3月3日に記者会見を行ったサンフレッチェ広島の久保允誉代表取締役会長 [写真]=中野香代(紫熊倶楽部)
紛糾し続ける広島の新スタジアム建設問題。そのバックボーンにはいったい何があるのだろうか。
『サッカーキング』では、今回の新スタジアム建設問題に関する歴史的な背景を知ることで理解を深め、今後の方向性を明確にしていくために、広島在住でサンフレッチェ広島オフィシャルマガジン『紫熊倶楽部』で編集長を務める中野和也氏に、「広島スタジアム問題のなぜ」というテーマで全5回の連載企画を依頼することにした。
第3回ではサンフレッチェ広島の久保允誉代表取締役会長が抱き続けてきた専用スタジアム建設への思いを綴った。行政からの“三顧の礼”を受けてクラブ再建を託された男が、進退をかけて新スタジアム建設を提案した背景にはいかなるものがあったのだろうか。
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久保允誉という経営者は、「闘いをも厭わない」という志を、先代から色濃く引き継いでいるのだろう。
家電販売業界の売上高で全国3位というエディオンの礎の一つは、1947年に広島で設立された第一産業である。創業者の久保道正は家業の刀剣商に見切りをつけ、「これからは電気の世の中になる」と確信し、原爆で焼け野原になっていた紙屋町付近にバラックを建て、電化製品の卸売を始めた。1952年には大量生産・大量販売の時代を予見し、小売業へと転身。当時、横行していた「表示している定価からお客さんとの駆け引きで値引きしていく」商法ではなく「最初から低価格を表示し、提供する」やり方を採用。外商のセールス活動やテレビを店舗にズラリと並べて一気に放送を流すプロモーション活動など、アイディアを発露して会社の売上を促進させた。
だが、そういう新興勢力に対しては必ず「出る杭は打て」という力が働いてくる。1957年、広島中の電気店が一同に会し、「第一産業に商品を出荷するな」と電機メーカーに要求を突きつけた。その要求をメーカー側ものみ、第一産業に対して商品は何も入ってこなくなったのだ。
広島商工会議所の専務理事が状況を心配し、「久保さん、電気店の組合(全国ラジオ商協同組合連合会)に入れば、問題は解決だろう」と斡旋したこともあった。だが、創業者はその言葉をギリギリの想いで振り切り、自分の道を貫徹しようと心に決めた。
この状況がマスメディアを賑わせたことで公正取引委員会が動き出し、「第一産業への出荷停止を解除せよ」という勧告が為されることになる。
この時の状況を、久保道正自身の著書である「蓮の花は泥水にしか咲かない」から引用してみよう。
「出荷停止を受けたのは確かに苦しいことではありましたが、自分が苦しい時には相手はもっと苦しい、という教訓を得たことも大きかったと思います。これは後で分かったことですが、私が品物が入らなくて困っている時、相手の電気屋さんたちは、品物はどんどん入るが誰も買ってくれない、という状態に置かれていたのだそうです。『第一産業は一所懸命安く売ろうとしているのに、お前らは高く売ろうと騒いでいるのか』といって、お客様から責められていたわけで、そのほうが私などよりももっと苦しかったといいます」
このエピソードと今回の久保允誉サンフレッチェ広島代表取締役会長の姿勢が、どうにもダブって見えて仕方がない。3月3日に久保会長が行った会見は、サポーターからは大きな支持を集めて喝采を浴びたが、一方では強い批判や非難を浴びた。
「一方的だ」。「上から目線だ」。中には「県や市からの補助金は使わない」と明言しているにもかかわらず、「そんな言い方をするのなら、自分で造れ」と言う人もいた。その言葉どおり、久保会長はエディオンとして30億円の出資を明言し、「自分たちの力で造ります」と断言しているというのに、だ。
久保允誉という経営者が経済界で注目を浴びたのは、その野心に溢れる合従連衡の結果として、家電業界再編の中心的存在となったことだ。1992年に経営を引き継ぐと、2002年には東海地方を基盤とする株式会社エイデンとの事業統合を果たして株式会社エディオンを設立。ミドリ電化や石丸電気を傘下に置くなどの戦略を経て、事業規模をヤマダ電機、ビックカメラに次ぐ業界3位まで発展させた。「広島のダイイチ」として生まれた会社が、久保允誉会長の手によって“全国のエディオン”へと成長したことは疑いようがない。
1987年、父の久保道正とともに『財団法人久保スポーツ振興基金』を設立し、広島県内のスポーツ振興を後押しするなど、スポーツそのものには強い関心を寄せていたことも事実。ただ、もともとは野球少年だったこともあり、大のカープファンではあったが、プロサッカーにはそれほど関わりを持っていなかったことも事実である。
1998年、累積赤字が10億円を超えて経営が行き詰まったサンフレッチェ広島のクラブ経営を引き継いでほしいという要請が行政や財界から寄せられた時、「私にはそんな力はない」と久保允誉は固辞している。「サッカーのことは分からない」という気持ちもあっただろう。家電業界再編の波が近づいているという時代感覚もあったはずだ。だが、そんな個人の想いは、広島という故郷への思慕が許さない。
ある日、橋口収広島商工会議所会頭から電話があり、朝食会への誘いを受けた。何げなしに行ったその場所には、橋口会頭だけでなく、マツダのジェームズ・ミラー社長や藤田雄山広島県知事、平岡敬広島市長(役職はいずれも当時)が待っていた。
「県・市・商工会議所、マツダも含めて財界も全力でサポートする。だから、サンフレッチェ広島の社長就任を引き受けてほしい」
サンフレッチェ広島というクラブの火を消してはいけない――。そんな広島人たちの熱意に、個人の逡巡などは通用しなかった。
「久保さん、サッカークラブなんて、儲かるビジネスではないんだよ」
クラブの先代社長である信藤整氏が語ったように、Jクラブは決して利益を生みやすい体質ではない。収入とチームの成績は必ずしもリンクせず、一方で人件費はなかなか歯止めが利かない。投資しなければ強くなれないが、投資が必ず強化や収入に結びつくかは未知数だ。だが新社長は、就任までの慎重さとは全く違う姿勢で、クラブ経営に取り組んだ。
それまで広島はJ1クラブで唯一、公式サイトをもっていなかった。サポーターやフロントスタッフは必要性を訴えていたのだが、財政難を理由に設置は見送られいた。だが、新社長は就任2カ月で公式サイトを立ち上げた。さらに一度は閉鎖に追い込まれたオフィシャルショップも再開させ、アウェーバスツアーも敢行。それまでの社長がほとんど行っていなかったアウェーゲームへの帯同も実行し、常に現場で監督や選手たちを励まし続けた。同時にフロントスタッフの泊まり込み研修も実施し、それまで不明瞭だったクラブ理念の明文化も行った。それはまさしく風神の疾さ。広島の経営の苦しさは続いていたが、少なくともクラブに「芯棒」ができたことは間違いない。
強化の上でも、2006年にはフロントの誰もが反対したミハイロ・ペトロヴィッチ監督の採用を決め、2007年には降格直後に敗将=ペトロヴィッチの契約続行を決断。2011年オフには名将という評価を得た男を減資の影響もあって手放した後、全く監督経験のない森保一を新指揮官に据えて初のJ1年間優勝を果たす。信頼できる人材を現場に置いて意見を具申させ、納得すれば「責任は自分がと取る」と腹を決める。決断の速さ、徹底した現場主義、メリハリの利いた予算配分。広島が今のような成長を果たすことができた背景に、久保允誉会長という希有な経営者がいたことは、疑いのない事実だ。
その久保会長が「ライフワーク」と言い続けてきた事業がある。それが「サッカースタジアムの実現」である。
「サッカースタジアムはJリーグのクラブを経営する上では不可欠だと思うんですよ。それは(私の)信念だと言っていい」
これは1999年末、社長就任2年目のシーズンを終えた直後の発言である。
この年の平均観客動員は9376人。久保社長就任前の1997年は6533人、1998年は8339人という数字だから、右肩上がりのトレンドに乗っていた。だが、久保社長(当時)は首を振った。
「雨が降らなければ、1万人を超えたという実感がある。いいカードを組んでいても雨のために動員が伸び悩むことが多い。天候によって3倍もの動員が違う場合も考えられるんです。当然、『雨が降っても動員に影響がない状態』を考えねばならない。となると屋根付きスタジアムが必要になる。しかもそれは、臨場感の違うサッカースタジアムでなくてはならない。例えば仙台は全席を屋根で覆う素晴らしいスタジアムがあるから、J2(当時)であっても1万人を超えるお客様がやってくるわけです。クラブ経営を安定化させ、常に優勝を狙えるチーム作りを志向するには、どうしても屋根付きサッカースタジアムを実現させないといけない」
この時点で久保会長は「旧市民球場跡地」と明言してはいない。もちろん、それはまだ紙屋町に「広島市民球場」が存在していたから当然なのだが、今から16年前に「サッカースタジアムが経営安定のためには必須」という考え方を経営トップとして示していたことは事実だ。
その想いは、実は広島財界の有力者たちも共通した想いを持っていた。
2002年、有澤弌保広島経済同友会代表幹事(当時)は、こんな言葉を紡いでいる。
「サンフレッチェ広島が地域に定着するため、一番にやらなければならないのは、サッカースタジアムの建設です。陸上競技場ではグラウンドとスタンドの一体感に欠けてしまうし、選手の表情も伝わらないし、応援の声が選手に届いていないような雰囲気もある。何を普及させるにしても舞台装置が必要ですが、サッカーの場合はそれがスタジアムでしょう」
当時の広島商工会議所会頭だった宇田誠氏は、静岡県の日本平スタジアム(現IAIスタジアム日本平)を例に出し「サッカーのためのスタジアムはいいですね。広島のスタジアムも、せめて屋根を付けるなど、見る側の立場に立って考えてもらいたい」と発言。同時に、広島広域公園のアクセスの悪さや坂道の多さを指摘した。
政界からも明確な主張が聞こえたことがある。2002年、平野博昭広島市議会議長(当時)は自らのホームページで、広島スタジアムの改修を主軸としたサッカースタジアムの建設を提言している。
平野議長はこの年、韓国まで出掛けてワールドカップを観戦。彼の地でサッカースタジアム体験を積み、さらに「サンフレッチェの広島への貢献」「地域を挙げたサンフレッチェへの支援」「サッカーを生涯スポーツとして楽しめるような地域作り」を考える中で、サッカースタジアムの必要性を実感した。特別にサッカーが好きなわけではないという平野議長は「広島には野球にもラグビーにも専用球場があるのに、サッカーのそれはない。サンフレッチェというプロクラブがありながら、どうしてサッカースタジアムの議論が起きてこないのか、それ自体がおかしなこと」と指摘していた。
「スポーツとは潤いであり、市民を元気づけることができる。青少年の教育についても、大きな役割を果たしてくれる。スポーツによって広島は元気になり、安心して暮らせる街となる。ヨーロッパではクラブスポーツの育成は当然のように行われており、スタジアムという場所の提供は行政の仕事だと私は思いますね」
実は2002年から2003年にかけては、サッカースタジアム建設問題が議論されていた時期でもある。特に2003年、秋葉忠利氏がサッカースタジアム建設を公約(本人は後に「建設を後押しするという意味」と語っている)として再選を果たすと、「スタジアム推進プロジェクト」が関係9団体(県・市・商工会議所・青年会場所・県体協・市スポーツ協会・県サッカー協会・サンフレッチェ・サンフレッチェ後援会)によって発足。事務局長にはサンフレッチェのJ2落ちの責任を取って総監督を辞任した今西和男氏が就任した。収容人員2万人の屋根付きサッカースタジアム建設に向けて、初めて具体的に動き出したのが、この年だったのだ。
この時、具体的な候補地となったのは、広島大学東千田キャンパス跡地、広島スタジアム(広島県総合グランドメインスタジアム)改修、広島港五日市地区、広島広域公園第一球技場改修、広島市民球場跡地。だが、広大跡地は国有地であり、買い取り価格も莫大になることから断念。広島スタジアム改修は陸上競技関係者の猛反発や近くにある広島西飛行場の存在による航空法の絡みなどからボツに。五日市案は地盤沈下の怖れ等から難しいと判断され、第一球技場改修はもっともコスト安と評価されたものの、建設からわずか10年という時間での改修は「二重投資になる」という事情で具体的な青写真まで描かれながらも頓挫。さらに広島市民球場跡地は「閉鎖された空間が新たに出現し、大規模施設によって広島平和記念公園と広島市中央公園が分断される計画であるため望ましくない」とやはり否定された。
議論は停滞し、財政的な問題によってスタジアム建設の熱が冷めたこともあってプロジェクトは稼働しなくなった。2007年、今西事務局長が退任し、サッカースタジアム建設構想はストップしてしまった。
この時期、平野元議長のこの発言が実に印象深い。
「スタジアムが必要だという声が、サポーターの方から聞こえてこない。意思表示が少ない。黙っていたら、本当に何も変わらない。まずは声を上げること。県民・市民の声があれば、行政は動くんです。問題点はある。だけど、声を上げて、ぶつけてみて、そこで初めて具体的な課題が見えるし、解決策も見えてくる」
今は故人となられてしまった宇田元会頭も当時、こんな言葉で情熱を語ってくれていた。
「ワールドカップ決勝を横浜で見ました。素晴らしかったですが、これがサッカースタジアムであれば、もっと臨場感を感じることができたはずです。サッカースタジアムでサッカーを見た後にビッグアーチ(現エディオンスタジアム広島)で見ると、ピッチがあまりに遠すぎる。ワールドカップで日本代表が証明したように、サッカーでの勝利にはサポーターの声援が本当に重要です。でも、ピッチからスタンドまでの距離が遠いと、選手たちにサポーターの想いが伝わりにくい。カープのように本当の意味でのホームスタジアムが、サンフレッチェには存在しないんです。強くなればスタジアムもできるという議論もある。だけど、器があってこそ選手の想いが強くなり、心が躍ってハッスルできることもある。例えば岡山が素晴らしいサッカースタジアムをつくってサンフレッチェを誘致する可能性はゼロとは言えない(2002年当時は岡山にJクラブはなかった)でしょう。サンフレッチェは広島県民の宝です。だからこそ、サッカースタジアムなんですよ。その気持ちを伝えるためにも、サンフレッチェの後援会員の数を増やし、スタジアムへの稼働率を高めて、機運を上げていきたい」
平野元議長も宇田元会長も、「サポーターの機運の盛り上がり」をスタジアム実現の大きなポイントとして、重要視していた。それは2012年、40万筆を超える署名を集め、スタジアム建設要望書を提出したことでクリアしたと言っていいだろう。確かに2002年~2003年にかけて、サポーターのスタジアムに向けての盛り上がりは、周囲を揺り動かすほどの迫力ではなかったが、今は違う。
久保会長は当時からずっと、スタジアム建設の可能性を追い求めていた。最初からすべて「旧市民球場跡地」ありきだったわけではない。まず、屋根付きサッカースタジアムを建設する。それが大前提だ。過去に旧市民球場跡地に対して劇団四季の劇場を作ろうという動きが出た時、会長は「あの場所は広島のレガシー。広島ならではのモノが存在するべきだ」と反対の意向を示したことを覚えている。ただ、その時も「サッカースタジアムをそこに造るべきだ」とまでは言葉にしていなかった。
「例えば資金調達。サッカースタジアム建設のための無期限債を発行し、広島の企業に買っていただくことで集めていく案はどうか。行政には費用を出してもらうのではなく、保証をしていただくだけでいい。そういう形も、決して不可能ではないのではないか。とにかく資金調達のシステムを作り、現実的な数字をはじいて、行政にはそこに乗っかっていただく。そういう形にしなければいけない。サッカースタジアムはクラブにとって、次のステージに向かうための大切な事業。そこに向けて、全員の意識を高めないといけない」
2004年冬に、久保会長が語っていた専用スタジアムへの想いである。記者会見で語った資金調達スキームと似たような考え方を、久保允誉という経営者は12年前の時点ですでに模索していたわけだ。
正直、サンフレッチェが将来、100億レベルの利益を挙げるほどの存在になるのかと言われると、それは難しい。それでも久保会長は、先日の記者会見やその後の主張からも分かるように、強い言葉でスタジアム建設に向けての不退転の決意が感じられる。その決意が初めて表現されたのが、昨年12月の優勝祝賀会での席上だった。
「チャンピオンシップの決勝で勝利した後、私は感極まりました。ただその後、帰りの車の中で、こう考えたんです。『まだまだこれからだ。もっと夢を見たい。もっと大きな夢をもって、サンフレッチェを輝かせたい。だからこそ、なんとかサッカースタジアムを実現したい』と。『三度、優勝したら考える』と(松井一實広島市長に)言っていただいた記憶もありますし(笑)、私自身もエディオンとしても、また個人として、口も出すがお金を出すという姿勢で、できるだけの努力をして旗を振っていきたい」
これほどの強い想いの裏には、何があるのか。前述したように、サンフレッチェが巨大な利益を発生するようになるとは思えない。では、なぜだろう。その答えが1999年末に行った社長就任2年目のインタビューにあったように思う。
「私は自分の財産を残したいとか、そういうことに執着はしていない。それよりも自分が働いて得た利益を地域に還元したいという気持ちの方が強い。先代(久保道正氏)は、私財を投じて『久保スポーツ財団』を作り、広島のスポーツ振興のために尽力しました。この財団の存在が広島スポーツの底上げにつながったことは、様々なところから評価されています。私も先代のように地域のために尽くしたい。そのためにやるべきことは、サンフレッチェを本当の意味での市民クラブとして自立させること。子どもの頃からサンフレッチェに触れ、魅力を感じて、大人になっても親になっても、サンフレッチェのサポーターであり続ける。そんなクラブになれば、市民からの投資を受け、市民の応援によって成り立つこともできる。ただ、そのためにはまず、経営的な自立が必要。そのための絶対的な条件が、スタジアムなんです」
サンフレッチェ広島というクラブに関して、そしてスタジアム問題に関して、経営者・久保允誉は「無私」である。だからこそ、いつのまにか「宇品優位」が進められ、明確な根拠なきままに、資金スキームも議論されないままに、広島のスタジアム問題が決まってしまうことに大きな危機感を覚えていたことは、間違いない。
3月3日午後3時、久保允誉会長は記者の前に立った。そこで明確に「旧市民球場跡地での建設であれば30億円を投資する準備がある。県、市からの補助金(税金)は使わない」「宇品では2年で債務超過に陥ってしまう。だから、(宇品への)移転はしない」と言い切ったのだ。
文=中野和也(紫熊倶楽部)
第0回 サンフレッチェの提案内容とは
第1回 広島ビッグアーチが長らく抱え続けてきた問題点
第2回 広島における都市計画失敗の歴史
第4回 旧広島市民球場跡地の利用法を巡る議論
第5回 新スタジアム建設のために考えるべきこと
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By 中野和也