至高の左足キックを持つレフティーが、古巣・FC東京への復帰を決断した。昨冬、オランダのフィテッセへ完全移籍した太田宏介が、再び“青赤”のユニフォームに袖を通すことになったのだ。昨年9月、10月に行われたFIFAワールドカップ ロシア アジア最終予選で日本代表に選ばれ、所属クラブでも出場機会を増やしていた彼は、なぜ長年の夢だったヨーロッパ挑戦に区切りをつけて日本へ舞い戻ってくることにしたのだろうか。そこには深淵たる“東京愛”、そして新たに発見した夢の存在があった。
インタビュー・文=馬場康平
――まず、FC東京復帰を決断した経緯を教えてください。
太田宏介(以下、太田) 昨年の9月、10月頃に(フィテッセで)試合に出場できなかった時にも、期限付き移籍の話をもらっていたんです。ただ、その時点では帰ることは考えていなかった。まずはフィテッセでという思いが強かったし、チームが「ノー」と言ったので、僕には選択の余地がなかったのも確かでした。その後、11月からコンスタントに試合に出られるようになって、ゴールをアシストしたりして順調に年内の全日程を終えることはできた。東京はその間もずっと気に掛けてくれていて、12月に入って期限付き移籍が難しいことを踏まえて完全移籍の方向で話をしてくれた。もちろんフィテッセの意向もあるので自分の意志では何も決めることはできなかったけど、それでもこの1カ月間はいろいろなことをずっと考えてきた。向こうでの充実感はもちろんあったし、ヨーロッパで成功することは自分の夢でもあったので。この一年間、オランダでプレーしてきて感じたことを精査して、すべてを考えた時に、東京に戻って優勝したいという思いが次第に強くなっていった。自分のことを必要としてくれたことだけでなく、このオフはこれまで以上に積極的な補強にも動いている。本当に「今シーズン、優勝するんだ」というクラブの強い意志を感じました。
――昨年の秋以降、FC東京からはどんなアクションがあったのでしょうか。
太田 GMの立石(敬之)さんはフィテッセに移籍してからも、いつも僕のことを気に掛けてくれていました。試合に出ていない時に連絡をくれたり、試合に出始めた後もずっと心配してくれていた。わざわざオランダにまで会いに来てくれたし、東京復帰に向けて熱心に働き掛けてくれた。それでもフィテッセは僕を絶対に手放さない意向を示していたし、(同じポジションに)補強もしないことも約束してくれた。本当に難しい決断だったけど、お互いのために長引かせるわけにはいかないと思って、早めにフィテッセに自分の意志を伝えました。結果的に正式に移籍が決まって、今はホッとしています。
――かねてからの夢でもあった海外挑戦を一年で終えることになりました。
太田 そこに対しての後悔は少しもないです。フィテッセからさらにステップアップすることが理想だったけど、夢の形が少しずつ変わっていった。東京を一年間離れてみて、改めて自分にとって特別なチームなんだと思えたんです。昨シーズン、そのクラブが苦しんでいる姿を外から見ていて心が痛かった。9月、10月に日本代表に招集された時、モリゲ(森重真人)やマル(丸山祐市)からも話を聞いていて、彼らは冗談交じりに「東京に戻ってきなよ」と言ってくれていました。
――そして、大きな決断に至りました。
太田 状況が変化していく中で、「やっぱ東京でしょ」と思えたんです。そのタイミングでもう一度声を掛けてもらったことが大きかった。青赤のユニフォームを着て、素晴らしい仲間たちとボールを追い掛けたい――その思いが自分の偽りのない本音でした。
――決断するにあたって、誰かに相談しましたか?
太田 詳しいことは東京の選手には相談しませんでした。他のクラブからもオファーがあったし、毎日状況が変わる中で詳細は話さず、ほぼ自分一人で決めました。この1カ月間、サッカーには集中できていたけど、精神的には相当きつかった。選択肢がいくつかある中で、どこも自分を必要だと言ってくれた。幸せな悩みではあったけれど、本当にきつかったです。最終的にはフィテッセのキャンプに参加せず、年明けに荷物を整理して日本に帰ってくることにしました。
――他のJ1クラブから破格のオファーも届いたそうですね。
太田 相当、悩みました。心は東京にありましたが、プロとしては年齢を考えれば、それだけ高い評価をしてくれたことは本当に光栄でした。もちろんプロである以上、愛や情ではなく、お金が価値だという人もいます。でも、自分はそれを捨てきれなかった。大きなお金を手にするよりも、このクラブでプレーすることに価値を見いだしたんです。
――オランダを離れることに後悔がないのは、向こうでそれだけ充実した毎日を過ごせたからですか?
太田 プロ1、2年目を除けば、常に試合にも出場できてきましたけど、今シーズンは試合に出場できない時期も過ごしました。しかも、誰かに相談することも、打破することも難しい海外で。ポジションを奪い返すことができたのは、誰よりも練習を頑張ったから。週2日のオフはクラブハウスが開いていないので、近所の公園をランニングしたりもしました。そういう部分は誇れるところです。気持ちもフレッシュになれたし、あのまま東京にいたら甘えていた。言葉も文化も違う中で、そうしたチャレンジができたことはすごく良かったと思っています。
――改めてフィテッセで学んだことを教えてください。
太田 フィテッセには若手が多くて、彼らはいつもチームの勝利よりも自分のパフォーマンスを気にしていて、そういうギラギラした選手たちの中に身を置いてイチから勝負ができた。昨シーズンの後半戦と今シーズンの前半戦を合わせて26試合に出場できたことも大きかった。難しい時期もあったけど、結果的に全体の8割近くに出ることができて、チームは最後まで慰留してくれた。何も知らない場所で、そうした信頼を勝ち取ることができたのは自信にもなっています。オランダでの生活やフィテッセというクラブ、チーム、チームメイトへの不満は全くないです。本当に充実していたし、日常会話も問題なくなった。フィテッセには本当に感謝しかありません。
――それほど居心地がいい場所を離れる決断は難しかったでしょうね。
太田 ただ、その一方で「チームのために」とか「チームで勝利をつかもう」という一体感のようなものはあまりなかったんです。個人の勝負は楽しかったけど、もう一度、「大好きな仲間と一緒に何かを成し遂げたい」という思いが、いつも頭のどこかにあった。東京の試合結果は必ずチェックしていたし、心から大好きなクラブ。そんな中で(大久保)嘉人さんを川崎フロンターレから獲得したり、大きな補強も進んでいると聞いて、「優勝するなら今シーズン」だと思った。その一員に自分も入りたかったし、それを自分の新しい夢にしたいと考えたんです。だからフィテッセとの長期契約が残っている中で、東京が完全移籍での獲得に動いてくれたことには本当に感謝しています。移籍交渉の細部は話せないけど、本気で僕の獲得に動いてくれたし、それほど大きな評価をしてくれたことに全力で応えたいと思っています。
――今年で30歳の節目を迎えます。自身のキャリアについてはどう考えていますか?
太田 嘉人さんは31歳で川崎に移籍して、そこから公式戦で100ゴールを挙げる大活躍をした。本当にいい手本が目の前にいるので、自分もそういうキャリアを描きたい。今年は超強力な攻撃陣がそろっているので、左サイドからの攻撃を活性化させてバンバン点を取ってもらいたい。それにセットプレーも含めて魅せますよ、太田宏介が。モリゲたちと一緒にプレーできることもメチャクチャうれしい。移籍が決まって一番最初にモリゲと(東)慶悟に報告したんですけど、彼らが本当に喜んでくれた。モリゲは昨年、日本代表でスタメンを取りながら、Jリーグではなかなか結果を出せなかったので、相当苦しかったと思うんです。だから今年はお互いが刺激し合える一年にしたいですね。
――新シーズンは篠田善之監督と一緒に戦うことになります。
太田 代理人を通じてですが、シノさんもすごく歓迎してくれていると聞いています。監督になってからのことは分かりませんが、コーチ時代から誰にも甘えを許さない指導者でした。ぬるさを許さないからこそ、東京にとってはピッタリの指導者だと思っています。
――今シーズンは大型補強が進み、前線には豪華なメンバーがそろいますね。
太田 嘉人さんのような選手はチームにとっても大きな存在になると思います。メンタル面で与える影響も大きいですしね。あと、(前田)遼一さんは去年眠っていたので(笑)、今年はオレのクロスから点を取ってもらいたいですね。
――今回の東京復帰に際して、改めて伝えておきたいことはありますか?
太田 自分の夢が変わっていった。それが正直な気持ちですね。昨年の夏にオランダへ渡った時は、2016―17シーズンで活躍してドイツに行きたいという思いがありました。プロサッカー選手として決して先が長いわけではないキャリアを考えた時に、自分が本当にやりたいこと、やり残していることを真剣に考えたんです。今回の復帰で「夢を諦めた」と思う人がいるかもしれないけど、決してそうではないし、ましてや自分はそういう性格じゃない。純粋に東京で優勝したいという新しい夢が見つかったからこその決断です。フィテッセが新しい選手を獲得したいから僕を放出したという報道があったけど、クラブとはしっかり話し合いを重ねる中で「ここに居続けてほしい」と言ってもらえた。戦力として見てくれて残留する道もあったけど、覚悟を決めて東京に復帰する道を選んだ。今回の決断に至ったのは、シンプルで真っすぐな思いから。だからこそ、僕は東京で絶対に優勝したいと強く思っています。
By 馬場康平