私はどこにでもいる、平凡なサラリーマンだ。
この原稿に頭を悩ませつつ、キッチンに立つ妻に声をかけた。「『日常にある、非日常』っていい言葉だよね」。妻が面倒くさそうに答える。
「何言ってるか聞こえません」
驚くほどに忖度を感じさせないその返事。隣の部屋で眠る娘たちに気を遣い、限りなくボリュームを落としたその声と想いは届かない。いや、そもそも聞こえてすらいない。哀れ。これが私の日常。
そんな惨めな男が奇跡的に巡り会った趣味。それがJ1に所属する名古屋グランパスを応援することだ。
それにしても、贔屓のクラブを持つとせわしない。
試合がある日は、スタジアムに着けば仲間で集い、お酒を飲み、その日の試合に想いを馳せる。試合に勝てば帰宅の足取りは軽く、負ければノムさんばりのボヤキとともに負けた試合に唾を吐く。
試合がなくともJリーグのある生活は彩りにあふれる。
月曜から金曜まで毎日頑張れるのは週末に試合があるからだし、頑張らなくても考えることは前週の試合のこと。試合へ行くために妻のご機嫌ポイントを稼ぐには、毎日頑張る“しか”ない。
時には仲間と飲みにも行く。しかし彼らが普段何をしているのか、実はよく分かっていない。でもそんなことは気にしない。私たちはJリーグという共通の趣味でつながり、たわいもない会話で盛り上がる。例えば宴会の最中にこんなことがあった。成績不振の責任を取るべく、シーズン途中で監督が退任するというニュースが流れたのだ。楽しかった宴は一変、お通夜に早変わり。それでも、今度は傷を舐め合うように仲間と悲しみを乗り越える。共通の“好き”をきっかけに育まれてきた友情は、世間体など超越した世界でつながり合う。
その“好き”が集まる場所が、他でもないスタジアムだ。
我らが名古屋グランパスのこの4年間は、まさに激動だった。
遡ること4年。J2への降格が決まったあの日、スタジアムにあったのは悲しみの涙とやり場のない怒り。翌年、天国と地獄の狭間で何度も揺れ惑い、心臓が止まりそうな張り詰めた試合が終わりを告げた時、そこには一年分のうれし涙があった。J1復帰初年度の最終節、残留ラインギリギリの我らに用意されたのは、皮肉にも降格したあの日と同じ場所であり、同じ相手だった。「またダメなのか」。残留を諦めかけた我らを救ったのは、あろうことか他会場の試合結果だ。つながらない電波にイラつく私を救ったのは、隣にいた見知らぬ男。奇跡的につながった彼の携帯を覗き込み、自身がつかんだお手柄だと言わんばかりに「残留! 残留決まった!!」と大声で叫んだあの日の私は、誰がどう見ても情報泥棒だった。そして昨年、不甲斐ないシーズンを終えたクラブには容赦のないブーイングが向けられた。勝敗だけでは語れない、スタジアムに集う者たちの想いが、そこに鳴り響いた。
やっぱり、書き出したら止まらない。
性別も年齢も価値観もバラバラな者たちが、たった一つの共通項である“愛すべきクラブ”でつながり、スタジアムの中では戦友になる。私たちは選手たちが生み出すドラマに熱狂し、スタジアムには見えない物語が脈々と紡がれていく。
シーズンが終わると、出会いと別れの季節がやってくる。
オフシーズンの醍醐味はストーブリーグ(移籍市場)だ。我らがクラブを選ぶ選手たちへの愛は深まり、去る選手たちには涙する。時に未練がましく引きずるが、どうかそれは許してほしい。それは、誰もが思春期に経験した恋愛のようなものだからだ。毎時間訪れる出会いと別れは、無力な私たちにとっての希望と絶望だ。携帯とにらめっこするその姿は、吉報を信じて待つ告白後のあの日の私か。いや、ただ仕事をサボっている中年のおっさんか。
この時期に飲みに行こうものなら、サッカー雑誌を片手に来季の妄想トークに花が咲き、酒が進めば他クラブを斜め上から批評する。1年を通して唯一、希望だけに彩られた一瞬だ。逃すものか。
そんなオフシーズンの様子を憂い、先日、妻がこう言った。「毎年、我が家の平和な時期は12月から2月までの3カ月だけだ」と。私は笑顔でこう返す。「ごめん、何て言ったか聞こえなかった」
これが私にとっての「日常にある、非日常」だ。妻よ、伝わったでしょうか。どこにでもある平凡なサラリーマン人生。でもJリーグがあれば夫の脳内はいつもバラ色なのです。冒頭の問いかけが妻に聞こえていたとしても、何を届けたかったかなんて分かるまい。伝えたかったことはただ一つ。「こんな日常で良かった」
さて、今年もJリーグが、我々を待っている。
文=みぎ
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