その男の涙を僕は、たった一度しか見ていない。いや、本当は二度、見ているのだが、それは目の前ではなくカメラ越しだった。2016年10月29日、サンフレッチェ広島一筋でプレーし、クラブMF史上最多となるリーグ戦通算65点(J1、J2合計)を記録したレジェンド・森﨑浩司の引退セレモニー。この時、つーっとほほを流れたカメラ越しに見た森﨑和幸の涙は、僕にとっては二度目だった。
最初に見た彼の涙は2012年11月27日。サンフレッチェ広島が20年振りの初優勝を果たした、その3日後のことだ。念願、いや願うことすらおこがましいと思っていたリーグ戦優勝を果たした高揚感を残したまま、森﨑和幸はインタビュールームに現れた。
これまで見たことのなかったほどの笑顔。言葉をゆっくりと紡ぐ姿は、成し遂げた者だけが持つ余裕に満ちていた。
「自分がこのチームを二度も、降格させてしまった」
2002年、そして2007年。いずれも主力として試合に出ながら、チームをJ1に残留させることができなかった。その時の悔いが、このハレの日にもついてくる。
「僕は病気(慢性疲労症候群)になってしまって、試合に出ることも、普通の生活すらもできなくなった。何度もサッカーをやめようと、やめなきゃいけないと考えた。カップ戦では3度、決勝に進出しても、すべて準優勝どまり。自分がいるから優勝できない。そんなことも思ってしまっていた。だからこそ、今回の優勝は本当に信じられなかった」
2時間にわたって優勝の感激を口にする。広島ユースで育ち、クラブ史上初の新人王に輝いた屈指のテクニシャン。その上手さや選手としての凄みは、一緒にプレーしないとわからない。佐藤寿人も髙萩洋次郎も、柏木陽介や李忠成、西川周作や槙野智章もそう言って絶賛した「ドクトル・カズ」(ミハイロ・ペトロヴィッチ)。森保一監督が「ピッチ上の監督」と言い切り、練習後は常に彼を呼んで綿密な打ち合わせを行うほどの絶対的な存在。まぎれもなく、広島史上最高のMFと言っていい森﨑和幸が歓喜を噛みしめている。優勝の重みを、取材している側も感じていた。
「最後に、支えてくれた家族に対して、言葉をお願いします」
「実は、妻が7月に長女を出産した時に『もしかしたら、優勝できるんじゃない?』って言ったんです。しかもホームでの優勝も予言していた。きっと第6感があるんですよ」
笑って、のろけて。楽しい時間はそのまま終わると思った。
「2010年、カズの病気が再発して、もうサッカーができなくなった時にさ、奥さんに引退するって言っていたんだよね。でも、奥さんが止めてくれた。やめなくて、本当に良かったね」
何気なく、僕はこんな言葉を口にした。
いつも冷静で、どんな時も表情を崩さない森﨑和幸が、その時までずっと笑っていたレジェンドが、崩れた。
「それは……、もう……、心の底からそう思います。あの時の彼女が……、僕に対して……、とにかく、いつもどおりに……、接してくれて……」
天井を見上げて、手で顔を覆った。それでも、こぼれ落ちるものを止めることはできない。数分間、彼は言葉を発せられなくなった。それまで軽やかにシャッターを切り続けたカメラマンが、指を止めた。音は、何も、聞こえなくなった。
男は、震える声で、言葉を発した。
「いいことが起きる人の方が……、少ないのかもしれない。頑張ったら、きっと、いいことがあるよなんて……、簡単には……言えない。だから妻には……、本当に……、感謝しています。諦めない……気持ちを……教わりました……」
またも天井を向いた。嗚咽。もう、あふれ出すものを止めることは、できなかった。
「彼女に会えて、よかったね」
陳腐なことしか、言えなかった。
「はい」
「きっと彼女と出会うように、神様が考えてくれたんだね」
「……うん」
もう、話すことができなくなった。インタビューは、それで終わった。
シンプルに考えれば、サッカーとはGK以外は手を使わずに、丸いボールを11人対11人で追いかけてゴールネットの中に流し込むスポーツである。その行為の何がうれしいのか。何が楽しいのか。論理的に言えと言われても、答えは出ない。しかし、一つだけ言えるのは、このシンプル極まりないスポーツに人生のすべてを賭ける人がいる、ということだ。単純なルールだからこそ、底が見えないほどに深い。理論や仮説が山のように生まれ、精密に設計することも可能なのに、ただの偶然の前に設計図が砕け散ることもある理不尽さは、人生の構図とも似ている。そんなシンプルかつ複雑なスポーツに自身の人生を投げ打ち、家族のために、応援してくれる人々のために、身体と頭脳と心を切り刻んで闘い続ける人たちがいる。
たとえば森﨑和幸は病気に苦しんでいる時、愛妻にこう言った。
「サッカーを辞めるか、俺が死ぬか」
Jリーグとは、そういう場所なのである。そして、戦っているのは選手やクラブばかりではない。
2007年12月8日、広島が京都との入れ替え戦に勝てず、J2に降格が決まった時、ある女性サポーターは泣きながら、何度も何度もこう言った。
「ごめんなさい、ごめんなさい。勝たせてあげられなくて、ごめんなさい」
自分の応援が届かなかったから負けた。そう言いながら、彼女は泣き続けた。
その日、久保允誉社長(現会長)はJ2降格の責任を背負ったミハイロ・ペトロヴィッチ監督に「あなたを信頼している。一緒に戦ってほしい」と続投を要請した。そのことを知ったサポーターから罵声を投げかけられ続けても、メディアからの猛批判にあっても、その決断を変えなかった。この前代未聞の決断がその後の優勝に直結したのは、よく知られることである。2008年9月24日、J1復帰を果たしたその日、久保会長はサポーターから「あの時は言い過ぎた。悪かった」と声をかけられた。会長は「いえいえ、気にしていません。みなさんの応援があったからJ1に復帰できた。ありがとう」と返したという。
2009年、森﨑和幸が病気から半年ぶりに復帰した時、快晴の日本平で紫のサポーターは歌い続けた。
「俺たちの和幸、俺たちの誇り」
何度も何度も歌い続けられたこの歌が、病気の辛さに苦しみ続けた森﨑和の心の支えになった。その後に何回も症状に苦しんでも最後の最後は、この歌によって救われた。
2018年開幕戦、前年の苦しい残留劇もあって不安の中で迎えたホームスタジアムでの勝利に、多くのクラブスタッフが涙を落とした。2020年、新型コロナウイルスの感染拡大でクラブ存亡の危機に立たされている時、「今こそ自分たちにできることはないか」と若い社員たちが知恵を振り絞り、声もあげた。「こういう時だからこそ」とスポンサーとして名乗りをあげてくれた地元企業もあった。
これらは筆者の日常であるサンフレッチェ広島に詰まった歴史の、ほんの一部である。もちろん歴史は、広島だけにあるのではない。Jリーグの56クラブすべてに、サッカーというシンプルなスポーツの裏に隠されたドラマは存在する。選手、指導者、フロントスタッフ、経営者、関連業者、そしてサポーター。それぞれがそれぞれの立場で紡ぎ出す物語、そしてその裏側を支えている闘いの日々は、時にドロドロの様相を見せながら、それでもなお、美しい。
Jリーグは夢でもあるが、その裏側にある壮絶な物語が支える「リアル」でもある。そのリアリティこそ、Jリーグがここまで歴史を積み重ねることができた、最大の要因ではないか。1995年以来、約1000試合の広島戦を取材し続けた地方在住記者の、想いである。
文=中野和也
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By 中野和也