いつでも手を叩き、サポーターの声に感謝を示していた中村憲剛 [写真]=J.LEAGUE
YouTubeの引退会見をぼんやりと眺めながら、ふと中村憲剛の言葉を思い出していた。
「僕、変わることを恐れていないんですよ。まずは受け入れることが大事。それを拒んでしまうと『これしかできない』という選手になっちゃう。どんな世界でも変わり続けることのできる人が長く生き残っていけるのかなと」
それまでとは違った環境にも迷わず飛び込んでいける。いまも昔も、そしてこれからも憲剛はそういう人であり続けるのだと思う。だから引退の報を聞いて、ひどく落ち込んでしまったけれど「なんで?」とは思わなかった。
また『中村史上最高』を更新ですよ――。
ここ数年の決まり文句だ。30歳を超えてもなお、まさに変わり続けてきたことの証である。ただ、変わらないものが一つだけあった。
『三感力』だ。
感謝、感激、感動である。プロ入りする際に実父から授かった言葉を大事に、大事に守ってきた。ある日、憲剛の会話が概ね3つの言葉から成り立っていることに気がついた。
ありがたい。
うれしい。
すごい。
憲剛ほど感情をストレートに口にできる人を知らない。不動の地位や名声を得た人ほど薄れるものかと思っていたけれど、憲剛は違った。他クラブの若い選手が「やっぱり憲剛さんはすごい」と話していたことを伝えると「マジっすか? うれしいっすね」と感激する。
長いリハビリを乗り越え、ようやくピッチに立った清水エスパルス戦でゴールを決めた翌朝には「夢だったらとうしようと思ったけれど、夢じゃなかった」と。やっぱり俺(運を)持っていると言わないあたりが憲剛らしい。誕生日に決めた決勝ゴールにしても「等々力に神様がいるとしか思えない」と話すのだ。
「いまだに恐怖心があるんですよ」
いつだったか、ボソッと話してくれたことがある。自分が何者でもなくなることへの危機感があるのだと。だから、いつでも三感力を研ぎすまし、変わり続けることを受け入れてきたのかもしれない。
「自分ひとりじゃ、何もできないから……」
本気でそう思っている。そもそもサッカーは監督や味方はもとより、審判団や対戦相手がいなければ試合ができないと。そんな当たり前のことを、決して当たり前とは思わない。凡庸な人にはなかなかできないことだろう。
「ムダなことって、ないと思うんですよ」
そんな言葉も強く耳に残っている。果たしてその心は――と問いかけると、実にシンプルな答えが返ってきた。だって長い人生、何が役に立つかなんて、わからないじゃないですかと。もう、他愛のない雑談ですらも。
もしかしたら、何かのヒントになるかもしれない。だから、ひとまずやってみる。万事、そういうスタンスなのだ。
「もちろん、試してみてダメだったものもいっぱいありますよ。ダメだった――でも、いいと思うんです。やらないよりは」
そうして何者でもなかった自分の殻を少しずつ、だが確実に破ってきた。おそらくは引退後の新しい人生でも。取材者という立場でありながら、引き際について一度も質問したことなかった。情けないけれど、意識的に避けてきた。いつまでもピッチで躍動する姿を見ていたかったからだ。ただ一度だけ、スパイクを脱ぐ日の憲剛を想像したことがある。
何かの拍子でイタリアの強豪ローマの偉大なバンディエラだったフランチェスコ・トッティの感動的なラストゲームの話になったときだ。確か3年前のことである。ふと憲剛が「いまは想像もつかないけれど、自分のときはどうなるのかな」と。その瞬間、思わずドキッとしたのを、昨日のことのように覚えている。
取材を終えて、帰りの電車に揺られながら、「その日」のことにあれこれと想像をめぐらせていたら、もう……。いらぬことをするもんじゃない――と、ひどく後悔したものだ。きっと同じことをやらかして「しまった」と思った人はたくさんいるんじゃなかろうか。
あの人がいなければ、いまの自分はいなかった――。いったい、この言葉を何度聞かされてきたことか。憲剛という人を知るにつれ、誰からも愛される人というのは誰よりも他者に感謝する人なのではないかと思うようになった。
君がいなければ、自分など何者でもない。
もちろん、君を(パスの)受け手に、自分を(パスの)出し手に置き換えても意味が通る。受け手をジュニーニョや小林悠と書けば、もっとわかりやすいだろうか。憲剛が偉大なパスの名手たり得た秘密だと思う。
どれだけ多くの人々が憲剛のプレーに、人となりに感激し、感動し、感謝してきたか知れない。幸い、ピッチ上における鮮やかな立ち回りを拝むチャンスがまだ、ある。先に引退を表明した心遣いによって。
まだ、泣くのは早いですからね。
そう言って、いたずらっぽく笑う憲剛の姿が目に浮かぶ。だから「ありがとう」の言葉は、その日が来るまで大事に取っておきたい。いやいや、取っておく必要なんかないでしょ――。きっと憲剛なら、そう言うはずだ。
文=北條聡
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