ヴェルディ川崎、横浜FM、日本代表でプレーした中澤佑二 [写真]=アフロ/アフロスポーツ
フットボーラーのキャリアには、必ずドラマがある。そして、そんなドラマをレジェンドたちが振り返る番組『サッカー・ジャーニー』が、12月24日にスカパー!で放送される。元日本代表DF中澤佑二氏がMC、中村俊輔と稲本潤一がゲストとして登場し、サッカー人生を巡る旅に出るスペシャルな番組だ。
その放送を記念し、この記事では中澤佑二氏に独占インタビューを敢行。彼自身の選手キャリアを深く伺った。引退から約3年が経過した今、彼の口から語られるキャリアの真実とは?
インタビュー・文=藤井雅彦
■サッカーとの出会いからブラジル留学まで――Jリーグ開幕で見つけた夢
中澤佑二がサッカーと出会ったのは、小学校6年生で11歳のときだ。
通っていた小学校にはサッカークラブが存在しなかった。他校から赴任してきた先生が少年団を立ち上げるアクションを起こさなければ、サッカーは体育の授業と放課後の遊びのままだったかもしれない。
「厳しい先生でしたし、その延長線上で中学校でもサッカー部に入らなければいけませんでした。自分からやっているのではなく、やらされているサッカーでした」
当初はこんなに長い付き合いになるとは全く想像していなかった。
本気になったのはJリーグ開幕のニュースだった。
開幕前年の1992年、中澤はテレビのニュースを通して日本に初めてプロサッカーリーグが誕生することを知る。目指すべき場所、すなわち明確な目標が見つかった瞬間である。
そのため真剣にサッカーと向き合い始めたのは中学3年生の終わりで、すでに15歳になっていた。
高校3年間はサッカーに明け暮れた。始業前の朝練に始まり、放課後に全体練習を行い、さらに居残り練習に打ち込む。プロサッカー選手を目指すのならば1分1秒たりとも無駄にできないという気持ちで、楽しむ余裕などなかった。
だが、花がすぐに開いたわけではない。憧れの全国高校サッカー選手権には一度も出場できず、全国はおろか埼玉県内でも無名の存在に過ぎなかった。
選手権の予選敗退でサッカー部を引退したのが高校3年生の9月。卒業後にはブラジル留学することを決心していたものの、それまでの約半年間をいかにして過ごすか。
資金繰りも兼ねてスーパーマーケットでアルバイトを始めた。身長185センチの男がバックヤードから商品を品出しし、値札を張りながら順番に並べていく。時給は750円だった。
お金を稼ぐ大変さを知れたという意味で貴重な体験だったが、目指している場所へ向かっている手応えは得られなかった。アルバイトを1カ月で辞めたのは、続かなかったのではなく“続けなかった”から。
そして、高校卒業後のブラジル留学が人生において大きな転機となる。そこは自身と同じようにプロサッカー選手を目指す人間の集まりで、野心や情熱は自分と比べものにならなかった。
「全員の最低ラインがプロサッカー選手で、遊びでやっている人間は一人もいませんでした。日本では自分以上にモチベーション高くやっている人間はいないと思っていましたが、ブラジルでは普通か、普通よりも下。全員が生活や将来を懸けて必死の形相でプレーしている環境は、いま振り返ると自分にとって大きな刺激になりました」
もちろん一筋縄にはいかない。ピッチ内外で厳しさを味わい、最初の3カ月は試練の連続だった。
練習でパスをもらえないのは序の口。そもそも練習用のユニフォームを貸してもらえなかった。ロッカーで管理していた私物を盗まれたこともある。
苦しかったが、逃げるという選択肢はなかった。すべてはプロサッカー選手になるため。だから中澤は困難と向き合った。
「6カ月が過ぎた頃、少しずつポルトガル語を理解できるようになって、言い返せるようになりました。それと同時に練習態度です。本気の姿勢が伝わったのか、パスをもらえるようになってきました。でも自分が一番下手くそなのは変わりません。2部チームでしたけど、チームメイトはみんな能力が高くて、見たことのない技のオンパレードに戸惑いました(苦笑)。でも必死に食らいついて、誰よりも練習していたと思います」
■ヴェルディ加入、F・マリノス移籍――サッカー観を変えた恩師との出会い
ブラジル留学から帰国し、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の練習生の立場からプロ契約を勝ち取った逸話は広く知られている。
JR武蔵野線と南武線を乗り継いだ先にあるヴェルディグラウンドでプロ選手に揉まれ、夕方からは高校生の部活に混ざって一心不乱にボールを蹴った。ようやくつかんだチャンスを逃すわけにはいかなかった。
こうして念願のプロ契約を勝ち取ってデビューした1999年にJリーグ新人王に輝き、2000年にはシドニー五輪に出場する。空中戦の強さとワイルドな容姿が相まった“ボンバーヘッド”というニックネームとともに、瞬く間に全国区のプレーヤーとなった。
しかし2002年日韓ワールドカップは最終選考で本大会メンバーから漏れてしまう。このシーズンから横浜F・マリノスに移籍したのは、より高いレベルで自分を磨き、W杯の舞台に立つためだった。
4年に一度のチャンスを逃し、悔しくないわけがない。ただ、同僚の中村俊輔が同じように落選した様子を近くで見ていた。
「俊輔は日本代表として自分よりもたくさんの試合に出場し、結果も出していました。誰もがこの落選を想像していなくて、日本中が驚きました。それにチームを代表して記者会見したのも俊輔で。俊輔自身が一番つらいはずだから、自分が落ち込んでいてはいけないと思いました」
その翌年、中澤に人生の転機となる出会いが訪れる。
かつて1998年フランスW杯に臨む日本代表を率いた岡田武史が横浜F・マリノスの監督に就任したのである。
当時、技術的に粗削りだった中澤はミスをしないように無難なプレーが多くなっていた。失うものは何もない練習生でも、チャンスを生かそうとガムシャラなルーキーでもない。新人王や五輪代表、あるいは日本代表といった肩書きを増やすたびにプレーが縮こまっていく自分に対し、心のどこかで悶々としていた。
変わるヒントを与えてくれたのが岡田監督だ。
「岡田さんはサッカーに対する考え方を変えてくれた人です。当時の自分はミスをしないプレーばかり選択していましたが、ある日の練習でのミスを『ナイスチャレンジだ』と褒めてくれました。この一言で失敗を恐れず、前を向けるようになりました。チャレンジを繰り返すことで技術は伸びる。技術が伸びればアイデアも湧いてくるようになり、またチャレンジできるようになっていく。そういった好循環に導いてくれたのが岡田さんです」
信頼する恩師との出会いをきっかけにさらなる成長を遂げた中澤は、横浜F・マリノスの2003年、2004年連覇に大きく貢献。2004年にはJリーグ最優秀選手(MVP)の栄誉も手にした。
以降、押しも押されもせぬ日本を代表するDFとして長きにわたって活躍。J1リーグ連続出場記録「199試合」、J1リーグ連続フルタイム出場 「178試合」はいずれもフィールドプレーヤーとしての最長記録だ。
40歳になったシーズンも第一線でプレーし続け、2018年限りで現役を引退するまで、常に全力で走り抜いた。
■世界最高の舞台で受けた衝撃――W杯が中澤に与えた影響
現役生活20年間で、W杯に2回出場した。
前述したように2002年日韓W杯は惜しくも落選となったが、2006年ドイツW杯と2010年南アフリカW杯で夢の舞台に立った。
2006年は1分け2敗でグループリーグ敗退となったものの、2010年はベスト16進出に大きく貢献。いずれの大会も中心選手の一人として全試合にフルタイム出場を果たしている。
忘れられない転機となったのはドイツW杯のブラジル戦だ。玉田圭司のゴールで先制に成功するも、以降は圧倒的な力の差を見せつけられて1-4で逆転負けしたあの試合である。
「Jリーグである程度活躍して、アジアカップでも日本を優勝させることができて、世界が相手でも互角以上に戦える自信がありました。W杯で結果を出すために努力してきた自負もありました。でも実際は全く違いました。ブラジルと対戦した時の衝撃は忘れられません。自分がやってきたことは世界のトップ相手にかすりもしなかったです。努力が全然足りなかったし、もしかしたら見当違いの努力だったのかもしれないと思ってしまうほどでした」
ドリブルも、パスも、シュートも、すべてが段違いだった。届くと思ったスライディングは簡単にかわされ、マークしていたはずの相手はいつの間にか視界から消える。サッカー王国の実力は伊達ではなかった。
それでも失意の2006年は、一定の成果を収める2010年への一歩目となった。
ドイツW杯を戦い終えた中澤は自身のフィジカルコンディションとメンタルを整えることを最優先させ、翌年の2007年から再び日の丸のユニフォームに袖を通して戦いの場へ。世界へのアプローチを再スタートさせるきっかけがブラジル戦での敗戦だった。
こうした紆余曲折のサッカー人生を終え、現在は第2のキャリアをスタートさせている。視野を広げ、貪欲な姿勢でチャレンジしていく。その姿は若かりし日のボンバーヘッドを彷彿とさせる。
では中澤佑二にとってサッカーとは。
「サッカーとは“出会い”です。人生は出会いの連続で、僕の場合はすべてサッカーのおかげだと思います。自分とサッカーを結び付けてくれた顧問の先生と出会わなければ、もしかしたら野球やバスケットボールをやっていたかもしれません。サッカーをやっていたからJリーグの存在を知り、プロになるという夢を持つことができました。その出会い一つひとつが僕の人生を大きく変えてくれました」
放送日時:12月24日(金)22:00〜23:30
出演者:中澤佑二(MC)、西岡明彦(進行)、中村俊輔、稲本潤一(ゲスト)
放送チャンネル:スカパー! スポーツライブ+ 他
By 藤井雅彦