グアルディオラは2008年のバルサ就任後、3年間でリーグ3連覇、CL優勝2回。4年目を迎える頃には退任が予想されていた
[ワールドサッカーキング No.201(増刊:2011年12月25日号)掲載]
2008年、フランク・ライカールトの後を継いでベンチに座ったのは、彼がわずか37歳の時だった。宿敵レアル・マドリードの後塵を拝し、どん底にあったバルセロナは、そこから夢のような4年間を過ごすことになる。
ジョゼップ・グアルディオラはチームにどんな魔法をかけたのか? 選手やコーチングスタッフの証言、過去のエピソードを通じて、モダンフットボールを強力に推し進めた名指揮官の素顔に迫る。
文=グレアム・ハンター(FourFourTwo)
翻訳=影山佑
フットボール史における最高傑作
5-1と10-6。バルセロナはマンチェスター・ユナイテッド、アーセナルとこの数年で計6度対戦し、それぞれのクラブをこんな合計スコアで一蹴している。ユナイテッドは勝者のメンタリティを、アーセナルは美しいフットボールを称えられるチームだが、バルセロナはその両方を備えていた。それも、これ以上ないほど完璧な形で──。2010-11シーズンのチャンピオンズリーグ決勝、彼らがユナイテッドを3-1と破った試合を見れば、このチームがファンタジーの極限にまで近づいた、フットボール史における最高傑作と言われているのも納得できる。
リオネル・メッシはペレやマラドーナを越えつつあり、シャビはスペインフットボール史上最も優れた司令塔になった。アンドレス・イニエスタは恐ろしいほどのスキルと、重要な場面でゴールを生み出す才覚を持っていた。ジェラール・ピケ、エリック・アビダル、ビクトル・バルデス、ダニエウ・アウヴェスといった選手の評価も、試合を重ねるごとに上方修正された。「ラ・マシア」と呼ばれるアカデミーからは、セルヒオ・ブスケッツやペドロ・ロドリゲスといった有望株が続々と育っている。2011年の終わりにクラブ・ワールドカップで負傷したダビド・ビジャの存在も、忘れるわけにはいかない。スペイン代表の最多ゴール記録を持つこのストライカーは、バルサに加わった昨シーズン、独特なスタイルへの適応に苦しんだ。それでもシーズン23ゴールを挙げ、CL決勝でもチームの3点目を決めてみせた。
激流のようにあふれる称賛の声。そのなかでただ一人、過小評価されたままの男がいる。ジョゼップ・グアルディオラ監督その人だ。寡黙で内向的なこのカタルーニャ人は、フットボール界に一つの奇跡を起こした。世界が恋する魅力的なフットボールを具現化して、混乱の淵に沈んでいたチームを常勝集団に変えたのだ。
ただ勝つだけでは満足しない
グアルディオラが2008年夏に指揮を引き継ぐ直前、バルセロニスタのフラストレーションは爆発寸前だった。CLではベスト4で敗退。ラ・リーガでは宿敵レアル・マドリードに18ポイントもの大差をつけられ、連覇を許していた。優勝決定直後のクラシコでは、キックオフ前に花道を作って優勝チームを出迎えるという屈辱を味わい、その試合にも1-4で惨敗した。選手たちには気力も規律もなく、フランク・ライカールト監督はムチを振るう意欲さえ失っているように見えた。
それがこの変わりようだ。すべてをグアルディオラの功績にすることはできないとはいえ、彼がいなければ「バルサ号」は今も舵のないまま漂流していたに違いない。
「チームの雰囲気が一変していた」。シャビは新監督就任時の鮮烈な印象を、今も覚えている。スペイン代表としてユーロ2008に優勝したあと、彼は他のメンバーより少し遅れてチームに合流した。「規律が徹底され、コンディションの管理が厳しく求められるようになった。イニエスタに『この列車に飛び乗らないと置いてかれるぞ』と言ったのを覚えてるよ。それまでは規律が緩み放題で、体重が多少増えようが、集合時間に遅れようが問題にされなかった。それが一気に変わったんだ。ペップは鷹のように、すべてを頂点から見下ろしていた」
グアルディオラから新しく守備の要に指名されたピケは言う。「ペップはただ指示を出すだけでなく、その理由を詳しく説明してくれる。それが僕たちを進歩させるんだ」
トップチームの監督に就任したとき、グアルディオラは「単独インタビューを受けない」と明言した。そのため、彼の現役時代を知らない取材者にとって、グアルディオラは謎めいた存在になった。グアルディオラがバルサやスペイン代表の中心選手だったのは1992年から20世紀末までだから、スペイン国外では「グアルディオラ監督」の姿しか知らない者も多いだろう。そんな彼が数少ない例外としたのが、2度進出したCL決勝前の公式インタビューだった。我々はラッキーなことに2度とも、彼と向き合って話を聞くことができた。それはかなり印象深い体験だった。
監督室の手前の部屋には、信頼の厚いアシスタントコーチのティト・ビラノバが、番犬のように戸口のほうを向いて座っている。対戦相手を詳細に分析することで名高いグアルディオラの部屋には、膨大な数のDVDと本、雑誌が壁際に積み上げられていた。デスクの上には愛する家族の写真。バルサの監督という激務のなかで、家族と過ごす時間は減っているようだ。
グアルディオラの受け答えは友好的だったが、進んでインタビューを受けてはいない。それは暗黙の了解だった。なにしろ彼は外国のメディアどころか、旧知の記者や、クラブのスポンサーである地元テレビ局からの取材依頼さえ断り続けていた。それでも、心に火を点けるようなテーマに話が及ぶと、その口調や語法は力強いものになる。例えば、「負けないためのプレー」ではなく「勝つためのプレー」が大事だと語るときだ。2009年のCL決勝を前にしたインタビューで、彼はそのことに触れている。「CLの決勝ともなれば、どのチームも敗北の恐怖に支配され、慎重にプレーしがちになる」と。しかし彼は、イニエスタ、D・アウヴェス、アビダル、ラファエル・マルケスなどの主力を欠きながら、勝ちにいくと約束した。そして、自らが率いるバルサのプレーを「大胆不敵」と表現した。
彼はただ勝つだけでは満足しない。勝ち方が重要なのだ。就任以来、グアルディオラは「3度のリーグ優勝と2度のCL制覇」という優れた成果と、「ファンを魅了する質の高いフットボール」という、相反するはずの二つを両立させてきた。彼を監督に据えたジョアン・ラポルタ前会長が「生まれ変わるならペップになりたい」と語ったのも、それほど不思議ではない。
さらに、グアルディオラはフットボール界だけでなく、広く一般社会の思想や政治にも関心を持ってきた。だから、彼を駆り立てるのは自らの哲学ばかりではない。昨今の経済危機に苦しむファンのために戦おうという思いも強い。「ファンのためだと思えば、すべての努力や計画、集中、規律が意味あるものになる。我々の戦いは、苦境の中でもチケットを買い、有料放送の視聴料を払ってくれているファンへの敬意の表れだ」
ヨハン・クライフの申し子
監督就任が発表された2008年8月、グアルディオラは集まったファンに向かってこうスピーチした。「どのタイトルを取るとは約束できないが、我々は挑戦を続ける。決して諦めない。シートベルトを締めておいてください。このアトラクションは、きっと楽しいものになるから」
振り返れば予言めいた言葉だ。しかし、未来を見通す者はしばしば冷遇される。グアルディオラのバルセロナをめぐる長い旅もまた、栄冠と同じぐらい、苦しみに満ちていた。
グアルディオラはカタルーニャ地方の農村、サントペドルで生まれた。彼ののちのキャリアを考えると出来すぎた話に聞こえるが、サントペドルとは“黄金の場所”という意味だ。車で1時間ほどの距離にあるカンプ・ノウには、まずボールボーイとしてデビューした。1985年のリーグ優勝や、その1年後のチャンピオンズカップ準々決勝(バルサはPK戦の末にイェーテボリを破り、決勝進出を決めた)の写真には、興奮してピッチを走り回るペップ少年の姿が写り込んでいる。
初めて選手としてスカウトされたのは11歳のときだった。彼は生家を離れ、カンプ・ノウに隣接した石造りの寮(ラ・マシア)に入るのをためらったという。彼の母親によれば、「毎朝目覚めると、寮の窓からカンプ・ノウのスタンドが見える」ことが決め手になって、グアルディオラは入団を決意したという。
しかし、すぐに不吉な論争が始まる。のちにシャビ、イニエスタ、セスク・ファブレガス、メッシも巻き込まれた論争──すなわち、「体が小さすぎるのではないか」というものだ。
古株のクラブ役員、カルロス・ナバルは当時のペップ少年を見て「小柄だが、神のごとくプレーする子だ」と感じていた。「彼には他の選手には見えないものが見えていた。次に起こることをすべて予測していた。ところが周囲の者はこう言うんだ。『そんな選手がいるはずない。11歳なんだぞ。フットボールに奇跡などない』と」
グアルディオラの潜在能力を信じ、トップチームに昇格させたのはヨハン・クライフだ。グアルディオラによれば、そこにはミケランジェロが描いた『アダムの創造』の絵画のように、神とアダムが手を触れ合わせ、稲妻を生みだすのにも似た何かがあったという。現役生活の晩年、グアルディオラは当時のことをこう振り返っている。「私は20歳でバルサのレギュラーになった。それはクライフが監督だったからであり、彼の信奉するプレーができたからだ。もし私が今20歳でバルサにいたら、プロ契約どころか、3部リーグでアマチュアとしてプレーしていただろう。スキルの問題じゃない。フットボールがハイペースになり、フィジカルを重視する方向に変わったからだ。今、4バックの前でプレーする選手は、パトリック・ヴィエラのようにボール奪取能力に長けたタックラーでなければならない。パスが出せるなんていうのは、ほんのオマケみたいなものだ」
現役時代のグアルディオラは、現在のシャビほど高いポジションは取らなかった。言ってみればアメリカンフットボールのクォーターバックだった。しかしクライフが好んだ3-4-3システムに適応し、グアルディオラはほとんど伝説的なピボーテになった。守ればピンチの芽を未然に摘み取り、攻めれば対戦相手の嫌がるスペースを見つけ出す。バックラインからボールを受けると、自在にパスを繰り出して「ドリームチーム」の攻撃を組み立てた。
パスの能力は誰にも真似できない武器だった。ショートパスを重ねる現在のバルサのようなスタイルではなく、もう少し距離の長いパスを得意とした。敵としても味方としてもプレーしたことのあるマルク・オーフェルマルスによれば、グアルディオラは「唯一無二の存在」だったという。「彼は誰よりも早くプレーを見極めて、その状況を最も生かすやり方でボールを操った」
ポジションで言えば、現在の守備専任のMF、すなわちブスケッツやマイケル・キャリックと重なる。一方で本人も認めるとおり、フランク・ランパードやスティーヴン・ジェラードのような突進力やスタミナは備えていなかった。彼はクライフの哲学──自分が走るのではなく、ボールを走らせる──を実践していた。さらに重要なのは、自分が何をしているか、そしてチームメートが何をすべきか(あるいはすべきでないか)を理解していた。クライフの後を継いで監督となったボビー・ロブソンは、グアルディオラの知性が気に入っていたと話す。「人間としてもフットボール選手としても、ペップは非常に頭がいい。戦術理解度はワールドクラスだ」
統率力も抜群だった。アトレティコ・マドリードのレジェンドであるキコ(グアルディオラとともに1992年のバルセロナ五輪で金メダルを勝ち取った)は、以前こうコメントしていた。「ペップは生まれながらのリーダーなんだ。新生児室で他の赤ん坊に『お前はこのベッド、お前はあのベッド』と指示するペップ坊やが目に浮かぶよ」
波乱万丈の現役生活
選手としてのグアルディオラは、クライフという理解者のもとで成功を手にした。しかしバルサを離れると、評価を勝ち取るための不毛な戦いが待っていた。
グアルディオラは2001年にバルセロナを離れている。それはシャビに道を譲るためでもあり、ルイ・ファン・ハールが率いたチームに幻滅したせいでもあった。高額契約の外国人選手がチームにどっと流入し、自身のケガは長引いていた。グアルディオラは次第に内省的になり、思い悩むようになった。自分がバルサの哲学を表現する存在であり続けられるのか……。
結局、彼はバルサとの契約を更新せず、ファンやメディアにはこうコメントした。「これは4日前の敗戦から出した結論ではなく、長く真剣に考えたうえでの決定だ。私は異なる国、異なるプレースタイルを経験し、異なる言語を学びたい」。一方で、父親のバレンティに話したことは、より本音に近いかもしれない。「このクラブには、チームが負けると食事も喉を通らなくなるような選手を保持する資格はなくなった」
彼がバルサを離れたとき、地元メディアは「どこからもオファーは来ていない」と騒いだ。これは当時のバルサ首脳陣がグアルディオラ放出を正当化するために、記者に流した話だったという。実際はグアルディオラに興味を持つクラブは多く、なかでもユヴェントス、アーセナル、マンチェスター・ユナイテッドは実際にアプローチしてきた。しかし、どのクラブとの交渉もうまく進まず、最終的にセリエAの弱小クラブ、ブレッシャへと移籍する。そして予想もしなかったトラブルに見舞われたのは、彼がイタリアへ渡って数カ月後のことだった。
2001年11月、試合後のドーピング検査で陽性反応が出たとして、グアルディオラは禁止薬物のナンドロロンを使用したという嫌疑をかけられた。勝訴は難しいと見られたが、グアルディオラは7年間の法廷闘争の末に、自らの汚名を返上した。当時、彼は友人たちに「全財産を失おうとも、潔白を証明するまで戦う」と語っていたそうだ。
その一件を除けば、彼はイタリア語には不自由しなかったし、イタリアの生活にもすぐになじんだ。所属したブレッシャや、レンタルで加入したローマとの関係も悪くなかった。しかし、フットボールの違いにはストレスを募らせた。あるスペイン紙のコラムに、彼はこう書いている。「イタリアでプレーしていた頃は、『パスゲームは忘れろ』とよく言われた。スペースが少ないからと。私には理解できなかった。ピッチのサイズは同じなのに」
セリエAで2年間の戦いを終える頃、グアルディオラにはバルサのスポーツダイレクターというオファーを引き受けている。と言っても、それは現実のものではなかった。バルサ会長選に立候補したルイス・バサットが当選したら、その役職が与えられるという話だった。このとき会長選に当選したのはジョアン・ラポルタ。33歳のグアルディオラは故郷に戻る代わりに、カタールのアル・アハリに渡った。そこは異文化への興味と、穏やかな生活への願いを満たしてくれる地だった。
グアルディオラはカタールでペースの遅いフットボールを楽しみ、空いた時間にはたっぷりとゴルフをやりながら、英語を猛勉強した。練習場ではアル・アハリの指揮官だった元ブラジル代表のペペ・マシアを質問攻めにした。彼の情熱はすでに、コーチとしての将来に向けられていた。フットボール界から離れるには、本人いわく、「あのボールをあまりに愛しすぎていた」からだ。
2005年12月には、友人でもあるフアン・マヌエル・リージョが指揮するドラドス・シナロア(メキシコ)と契約を結んだ。リージョは「フットボールのビジョンを発展させるうえで、リーダー的な役割を果たしてきた監督」だとグアルディオラは言う。そして2006年5月にメキシコを離れると、マドリードで監督ライセンスを取り、11月には正式に現役引退を発表した。グアルディオラは35歳になっていた。
冷徹な意思と温かいハート
2007年、グアルディオラはバルセロナのBチームで、初めて指導者の職に就いた。クラブのスポーツダイレクターであり、「ドリームチーム」時代のチームメートでもあるチキ・ベギリスタインが、首脳陣に強く推薦してくれた結果だった。
当時、グアルディオラはこう語っている。「指導者として何の実績も持たない私に、こんな機会を与えてくれたことを感謝したい。私は勝たなければならない。成功すれば認められ、ダメならクビになる。それがベンチの掟だ。選手には、このクラブの価値を伝える一方で、一定の自由も与えたい。ただし私は、ボスが全権を持つべきだと信じている。そしてボスは私だ」
ライカールトは一度頂点を極めたあと、高いモチベーションを維持できなくなっていた。チームは緩み、そのまま再浮上することはないように思えた。そんななか、グアルディオラはバルサBを4部から3部へ昇格させる。首脳陣は指揮官の手腕を認め、その戦術や人心掌握術、何よりチームに植えつけたビジョンを評価した。シーズンを通してバルサBを取材した地元のジャーナリストは、グアルディオラのやり方を「団結」という言葉で表現している。「とにかくチームワークを重んじる。食事はチーム全員が一緒に食べるし、いい結果を出したらペップのおごりだ。逆に遅刻や退場、あるいは以前なら見過ごされていた小さな違反にも罰金を科して、規律を整え直した」
グアルディオラをトップチームに上げる――。そのプランに反対意見がなかったわけではない。バルサBでしか監督経験のない37歳の監督に、トップチームを任せていいのか。実績を重視する者は、当時チェルシーを解任されてフリーだったジョゼ・モウリーニョを推していた。グアルディオラ就任は、一種の応急処置であり、リスクを伴う賭けでもあった。
そして、バルサは賭けに勝った。ライカールトの座を引き継いだグアルディオラは、規律重視の姿勢を打ち出してチームを掌握する。「私が37歳だから君たちに甘くするだろうなどと考えているなら、大間違いだ。私のプライドと野心はとてつもなく大きい。君たちにはしっかり働いてもらう」
それまで、バルサの選手たちにとって練習開始とは「練習場に集まっていればいい」時刻のことだった。しかしグアルディオラは、着替えを済ませてスパイクのヒモを結んでおくべき時刻だとした。1秒でも遅れれば、容赦なく罰金が科された。まるで独裁者のように思えるが、グアルディオラの説明としては合っていない。彼にふさわしい言葉は「説明屋」だ。彼はしばしば選手の動きを止め、細部を修正させたり、コンセプトを確認し直したりした。しかしピケも証言するとおり、「怒り出したら誰にも止められない」一面も持っている。就任当初はアビダルが激しく叱責され、「僕は大人だ。そんな言われ方をされる筋合いはない」と反発するシーンもあった。そのアビダルが、2011年5月のCL決勝のあとにトロフィーを受け取る役目を任されたのは、グアルディオラのチームが歩んできた道のりの縮図にも思える。
グアルディオラという監督は、冷徹な意思と温かいハートの両方を備えている。彼が就任した2008年の夏、クラブはリオネル・メッシの北京五輪出場を認めるかどうか、アルゼンチン協会やFIFA、IOCと争っていた。最終的に、ラポルタ会長はスポーツ仲裁裁判所で勝訴する。バルサはアルゼンチンの五輪代表からメッシを即座に呼び戻し、CL予備予選のヴィスワ・クラクフ戦に出場させる権利を得た。
しかし、自身も金メダリストであるグアルディオラは、その意味するものの大きさを知っていた。判決を聞くと、彼はラポルタとベギリスタインに異を唱え、クラブの反発を押し切ってメッシの五輪出場を許可した。そして結果的に、五輪で金メダルを手にしたメッシから永遠の忠誠心を得た。ただし、もしバルサがCL予選で敗れたり、メッシが五輪でケガしていたら、グアルディオラの運命はずいぶんと違うものになっていただろう。賢明だったのか、単に幸運だったのか。いずれにせよグアルディオラは、世界最高の選手を就任早々に味方につけた。
グアルディオラと一緒に仕事をした者たちの大半は、称賛を惜しまない。彼の手でバルサBから引き上げられたブスケッツは言う。「ペップはバルサBの頃と何も変わっていない。飽くことなく学び、何時間もビデオを見て、細部まで周到に準備する。僕たち選手から最大限のものを引き出し、対戦相手へに備える。あれは指導者としての知識と、選手としての経験の賜物だ」
アシスタントコーチであり、幼なじみでもあるティト・ビラノバは、グアルディオラの成功の理由を「自信が感染すること」だと表現した。「彼の勝利への意志は、勝てるという信念と、どうすれば勝てるかを説明する能力に裏打ちされている」。クラブのあるスタッフはこう証言する。「ペップはこのクラブを異常なほど愛している。熱心に仕事に取り組みすぎている。時々は肩の力を抜いてほしい。でないと燃え尽きてしまう」
実際、彼がそれほど長く今の地位に留まらないだろうと予想する声もあった。グアルディオラはさまざまな理由をつけては、バルサが提示する複数年契約を拒み続け、1年ごとに契約を更新していた。クライフは昨シーズンのCL優勝を花道に勇退するだろうと予言していた。確かに、この先もバルサの指揮を執り続けて、これまで以上の成果を残せるかどうかは微妙なところだ。しかしウェンブリーでのCL優勝によって、彼の活力と仕事への情熱は戻ってきたらしい。優勝セレモニーのあと、選手たちに「ここでは終わらない」と語っている。
それでは、どこで終わるのだろうか? おそらく我々は、カンプ・ノウに君臨するグアルディオラをもう1年は見ることができるだろう。しかし彼は、自分がチームに植えつけた考え方、プレーの方法は、監督が交代しても生き続けると信じている。だからいずれ、現役時代と同じように「ホーム」を離れ、異なる言語や文化を味わうためにイングランドかイタリアに渡るに違いない。そして最後はバルサに、今度は会長として帰還するのではないだろうか。
それまでの間はシートベルトをしっかりと締め、アトラクションの残りを楽しむことにしよう。
※この記事は、『ワールドサッカーキング』 No.201(増刊:2011年12月25日号)に掲載された記事を再編集したものです。