[サッカーキング No.008(2019年12月号)掲載]
マンチェスター・シティに移籍した当初は批判の的だった。それが今では、クラブとイングランド代表を牽引するヒーローだ。ラヒーム・スターリングはどのようにして、人々の心と世間の風向きを変えたのだろうか?
インタビュー・文=クリス・フラナガン
翻訳=加藤富美
写真=ニック・イーグル、ゲッティ イメージズ
協力=コロッサル・スポーツ・マネジメント
マンチェスター・シティのトレーニングセンターを訪れたのは、ある秋の日の夕方だった。広い屋内練習場をパーテーションで区切った一方では、アカデミー生の練習が行われている。そしてもう一方では、ラヒーム・スターリングがカメラマンを前にポーズをとっていた。
子供たちは、すぐそばにいるスター選手の存在に気づいていない。ちょうどそのとき、パス練習で逸れたボールがこちらに転がってきた。拾いにきた8歳の少年が、目の前にたたずむ人物に驚く。「ウソでしょ?」
その後、――偶然だとは思うが――たくさんのボールが飛びこんできた。追いかけてきた子供たちの表情が、一瞬にして笑顔に変わった。
しかし、スターリングはこのクラブで常に憧れの対象だったわけではない。状況が変わり始めたのは、ここ1、2年のことだ。彼は18-19シーズン、史上初となる国内3冠に大きく貢献し、クラブの歴史を塗り替える原動力となった。
我々がスターリングを最後に取材してから3年が経つ。最初は重い口調だったが、少しずつ口数が増えていったのを覚えている。この日のインタビューも同じだった。調子がいいからといって勢いよく話すことはしない。メディアの辛辣な言葉に苦しんできた彼のキャリアを考えれば当然だ。聞き手との信頼関係の構築を求めているのは明らかだった。3年前と違うのは、彼がピッチ内外で発言力を増しつつあるということだ。目の前には、不条理に立ち向かいながら、世界トップクラスのフットボーラーに成長しようとする青年の姿があった。
「C・ロナウドとはプロセスが似ている」
「不条理に立ち向かう姿勢」こそが、今回の取材テーマでもあった。それを話す前に、スターリングがこれまでに挙げたゴール数を紹介しておこう。彼は13-14シーズンからの4シーズンで合計44ゴールを挙げている。そして、17-18シーズンには23ゴール、翌18-19シーズンはその数字が31に跳ね上がった。今シーズンもリーグ戦第10節を終えて7ゴールを記録。最高の状態が続いているのは間違いない。
「19歳、20歳の頃は苦労したよ。僕は常に変化を求めていた。変化には年齢や経験といったいろんな要素が必要だけど、どれだけ自分を信頼できるか、どれだけ練習に集中できるかも重要だった。明日の自分が今日よりもベターであること。それだけを考えていた」
彼の成長には“母の一言”も大きく関わっている。ここ数年、彼女は息子にたった一つの、だが的を射た質問を投げ続けた。「どうして、もっとペナルティエリアに入らないの?」
スターリングはシティの得点王からも多くのことを学んでいる。セルヒオ・アグエロだ。
「彼がゴールを決めたとき、こう思うんだ。なんてクールなんだ! あんな決め方もあるのか、って」
最近では、スターリングとある選手の20代前半のブレイクとが比較されるようになった。ジェイミー・キャラガーは言う。「マンチェスター・ユナイテッド時代のクリスティアーノ・ロナウドのようだ」。スターリングは「まだそのレベルには達していない」と否定するが、2人のキャリアパスにいくつかの共通点があることは認めている。
「年齢を重ねるにつれて、フットボールで一番大切なものが見えてきた。若い頃は、自分の技を世間や監督に見せることに必死だった。ドリブルで見る者を魅了しようとして、ゴールのことを忘れてしまうんだ。ゴールが最優先ではなくなってしまう」
一呼吸置いて続ける。
「クリスティアーノはユース世代で一番ゴールを決めていた選手だと思う。でもプロになって、テクニックを見せることを一番に考えるようになったんだろうね……。時間が過ぎ、周囲は『もっと点を取らないといけない』と言うようになった。そこで『そうだ、ゴールだ』と目覚める。そして、点を取るための努力を始める。そんなプロセスじゃないかな。僕と似ている。でも、彼はフットボール史上最高の選手の一人だからね。比べるなんてとんでもない」
スターリングは昨シーズンの「31」というゴール数を超えなければいけないと言う。それが自分の生き方なんだ、と。
「何かをやり遂げたら、次はもっといい結果を出す。常にチャレンジすることが大事なんだ。パフォーマンスで評価される世界だからね。もちろん、評価がすべてじゃない。でも、僕がゴールを決めれば決めるほど、クラブが優勝する可能性は高まる」
C・ロナウドは年を追うごとに純粋なストライカーのポジションに身を置くようになった。スターリングもそんな未来を描いているのだろうか?
「ボックスの中でプレーするのは楽しいよ。将来、センターフォワードとしてプレーしているかもしれないね」
15歳の少年に訪れた人生の大きな転機
1999年、まだ5歳だったスターリングはジャマイカからロンドン北東部にあるウェンブリー・スタジアムの近所に移り住んだ。スタジアムはその数カ月後に閉鎖され、のちに取り壊されたが、少年は新設された聖地でプレーすることを夢見るようになる。
「キングズベリーでサンデー・リーグのチームに入った頃のことはよく覚えている。ナイキのスパイクを買ってもらった。 練習と、毎週末の試合と、2、3カ月に一度のトーナメント。頭の中はフットボールでいっぱいだった」
QPRのアカデミーに加入した2003年、ロナウジーニョやリオネル・メッシに憧れた少年は9歳になり、身近なところにヒーローを見つける。トッテナムからレンタルで加入したアデル・ターラブトだ。スターリングが興奮気味に話す。
「彼は左ウイングだった。ボールを使ったものすごいテクニックを見せてもらったよ!」。今はベンフィカでプレーする30歳のターラブトは、少年の心に鮮烈な印象を残したようだ。
2006年5月、QPRに激震が走った。ユースに所属する15歳の少年、カイヤン・プリンスがロンドン北部のエッジウエアで刺殺された。今シーズンからQPRの本拠地は『カイヤン・プリンス・ファウンデーション・スタジアム』と改称されている。
「個人的にカイヤンを知っていたわけじゃないけど、ファンタスティックな選手だったと聞いている。あのような亡くなり方をしたのは悲劇だ」
スターリングもロンドンでの生活で何度か危険な状況に遭遇している。「一触即発といった危険な場面があった。ロンドンではめずらしくない。若い子は縄張り意識が強くて、他の場所からやってきた子とすぐに小競り合いを始めてしまう。そして、理由もなくエスカレートしていくんだ。ロンドンではそんな面倒な状況が何度もあった」
15歳になった彼は、人生の大きな転機を迎える。2010年2月、ビッグクラブから声がかかった。リヴァプールだ。それはスターリングにとって、ロンドンの“危険地帯”から脱出できるまたとない機会でもあった。
「それまでの人生で最高の出来事だった。ロンドンを抜け出して、ホストファミリーと暮らすことになった。僕の部屋も用意してもらった。神様から新しい人生をプレゼントされたような気分だった」
それから2シーズンのうちに、スターリングは公式戦出場を果たす。17歳107日でのプロデビューはリヴァプール史上3番目に若い。彼がトップチームに昇格してから3シーズン目に、リヴァプールは悲願であるプレミアリーグ初優勝のチャンスを手に入れた。しかし、結果は皆さんの知るとおりだ(チェルシー戦でスティーヴン・ジェラードの“スリップ”からデンバ・バのゴールを許し、0-2で敗戦)。
「優勝まであと一歩だった。将来チャンスがあると分かっていても、すぐに気持ちを整理することはできなかった」
彼がリヴァプールでタイトルを目指す日々は、その後まもなく終わりを告げる。契約更新の交渉がまとまらなかったことから、活動の場をシティに移すことにした。これには、ファンやフットボール界から批判の声が殺到した。
その声は彼の自尊心を傷つけ、ピッチでのパフォーマンスに影響を与えた。そして結果を残せない彼に対する批判の声は、さらに大きくなった。すべてが悪循環に陥っていた。スターリングは「予想より厳しい状況だった」と振り返る。
「当時のイングランド人選手では史上最高額の移籍金でシティにやってきたんだ。周囲が放っておくわけがない。外野の声がない状況でシティに来ることができていたら、全く違う結果を出せたと思う。20歳だった僕は、この世で最も辛辣と思える批判を受けていた。訳が分からず、ただ傷ついたよ」
周囲からの批判は自身に対する不信感を生み、間違った方向へと導いた。
「能力というより、フットボールに対する姿勢を間違えていた。自分を完全に信じることができなかったんだ。試合でうまくいかなかったときは耳を塞ぎたい気分だった。まるで脳内に再生装置があるみたいに悪口が聞こえてくるんだ。ファーストタッチで失敗したり、DFを抜けなかったりすると、もうそこで気持ちが切れてしまう。でも今は違うよ。前半がイマイチでも『後半は決めてやる』という気持ちで臨めるようになった」
SNSを見る回数を減らしたことも、功を奏したようだ。
「あの頃は、ついエゴサーチをしてしまっていたんだ。やめたら調子が良くなった。批判の文字が目に入ってこなければ怖くない。それに最近は、批判もフットボールの一部だと考えられるようになった。僕がコントロールできるのは、ピッチ上でのプレーだけだ。批判が間違っているということを、プレーで証明すればいいと思っている」
“悪評”を覆す決定的な出来事
17-18シーズンの初めに、ある噂が流れた。それはシティがスターリングと引き換えに、当時アーセナルにいたアレクシス・サンチェスにオファーを出したというものだった。しかしスターリングは、フットボール・ディレクターのアイトール・ベギリスタインから「報道は事実ではない。クラブがお前を手放すことはない」と聞かされたという。シティは後日、スターリングの名前を持ち出したのはアーセナル側だったと公表した。そして、シティ側はその申し出を即座に断ったということも。
その瞬間から、スターリングは過去を振り返るのをやめた。
プレミアリーグのタイトルを懸けた戦いが始まると、彼はゴールを量産し始める。終わってみれば、シティはプレミアリーグ史上初となる勝ち点100に到達し、スターリングは自身初となる優勝メダルを手にしていた。「あれほどうれしい瞬間はなかった。子供の頃からの夢だったプレミア優勝を成し遂げたんだから」
連覇を果たした翌年は、ユルゲン・クロップ率いるリヴァプールとの一騎打ちとなった。
「楽しくて仕方がなかった。だって、1つのチームが突っ走るリーグなんておもしろくないでしょ? もちろん、勝利はうれしいけど、ライバルがいるからこそおもしろいんだ。正直なところ、昨シーズンはもうダメなんじゃないかと思った時期もあった。でも首位の座を取り戻すために全員で頑張った」
周囲はスターリングの価値を認めようとしていた。世間が彼について耳にしたこと、いや、どちらかと言えば目にしたことは、メディアを通した姿だった。富をひけらかす派手好きな若者。そんなイメージばかりが先行していた。しかし、目の前に座る彼は違う。インタビュー中、傲慢な態度は一切見られなかった。
「話をする前に、相手がどんな人なのかを理解しようとよく観察する。子供の頃からそうだった。でも、聞いたことをそのまま鵜呑みにする人もいるよね?」
メディアがしつこく報じる“派手好き”のイメージを指しているに違いない。
「僕も人から聞いた話をそのまま信じることがある。実際に会う前に、その人に対する判断を下してしまうことだってある。自然なことなのかもしれない。でも、それは間違いだ」
スターリングに対する“悪評”を覆す決定的な出来事は、2019年2月のチェルシー戦後に起きた。この試合で人種差別的な野次を浴びた彼は、試合後の記者会見で「人種差別を助長する」国内紙の姿勢を勇気を持って非難した。ピッチ上での素晴らしいパフォーマンスだけでなく、社会にはびこる問題について率直に語る彼の姿勢は、世間から称賛された。
「自分のことだけじゃなく、社会のために発言することで、たくさんの人が応援してくれるようになった」
今回は人種問題について多くを語ろうとはしなかったが、どんな話題でも自信を持って話せるようになったという。
「誰だって他人を怒らせたくないよね? 雑音を増やしたくないと思うんだ。だから言葉を飲み込んで、そのままにしておく。でも、譲れないことがあるなら、どんな立場であっても声を上げるべきだ」
“ヘイテッド・ワン”から“ハングリー・ワン”へ
スターリングの成長のペースは速い。 いつかはメッシのレベルに到達するのではないか? そんな期待の声も聞こえてくるが、メッシは特別だと彼は言う。
「15年間、僕が毎年60ゴールを取ることができたら、その話をしよう。今の時点でメッシと比較するのは行きすぎだ。自分に価値がないと言っているわけじゃない。僕はまだ成長の途中で、ゴール数を増やそうと努力している。彼の名前を持ち出すのは早いよ」
彼のここ数年の調子を考えれば、バルセロナやレアル・マドリードへの移籍が取り沙汰されたとしても不思議ではない。しかし、現時点で移籍は考えていないようだ。
「今はシティという恵まれた場所で努力を続けたい。誰もが人に愛されたいと思うはずだ。ここには毎試合、僕の名前を歌ってくれるファンがいる。これほど幸せなことはない。だから、この場所で多くのタイトルを取りたい」
スターリングは“イングランドの栄光”も夢見ている。2019年7月に行われたクリケット・ワールドカップの決勝戦から刺激を受けたという。イングランドがニュージーランドを下して、初優勝を飾った試合だ。
「彼らを称える声を聞くと、僕もうれしくなる。イングランド代表がW杯を制するなんて素晴らしいことだよ!」
スリー・ライオンズは2022年のカタールW杯で優勝を目指す前に、母国でユーロを戦う。準決勝2試合と決勝の舞台はウェンブリー。彼が昔住んだ家から目と鼻の先にあるスタジアムだ。子供の頃、イングランド代表としてそこに立つことを予想していただろうか?
「とんでもない」と首を横に振ってから、ニヤリと笑う。「地元ウェンブリーの決勝戦で僕がピッチに立っている? この世の終わりだ!……いや、冗談だよ(笑)。僕たちは、4位に終わった前回のW杯から攻撃面でさらに進化している。信念を持って前に進むことが必要だ。そうすれば、どこにだって負けないチームになる」
スターリングはピッチ外でも「反差別キャンペーン」の象徴になりつつある。そんな彼がイングランドにトロフィーをもたらしたら、その名前に「サー」という称号がつくのも夢ではないかもしれない。
「サー・ラヒーム・スターリングか……。うん、悪くないね。帰宅したとき、『サー・ラヒーム・スターリングのお帰りだぞ!』って妻に言うのも悪くない」。いや、これも冗談だ。そう言って、スターリングは大笑いした。
その日が訪れるのは、まだ先のことかもしれない。しかし、かつては自らを“ヘイテッド・ワン”(嫌われ者)と呼んでいた彼を思えば、ほんの少しの可能性が大きな実をつけるのではないか、と期待してしまう。今の彼は“ハングリー・ワン”だ。
もうすぐ19時。午後の練習を終えた彼は、帰宅の途につく時間だ。
「今日はジャマイカ料理かな? 腹がペコペコだ」と表情を崩す。「頭をひねっていいことを言おうとしたけど、もう燃料切れだ」
短い時間ではあったが、スターリングのここ数年の縮図を見た気がする。少しずつ自信をつけ、少しずつ発言力を増し、自分自身を恐れずに表現できる存在になっていた。
何度かインタビューしただけで、ラヒーム・スターリングのすべてを理解したと考えるのは思い上がりだ。しかし、彼はいつも我々に偽りのない姿を見せてくれている。それは我々の「彼を理解したい」という姿勢を理解し、応えてようとしてくれているからだろう。彼はいいヤツだ。そして今までも、そうだったに違いない。
※この記事はサッカーキング No.008(2019年12月号)に掲載された記事を再編集したものです。
By サッカーキング編集部
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