[サッカーキング No.009(2020年1月号)掲載]
昨シーズン、ジョゼップ・グアルディオラとユルゲン・クロップは
プレミアリーグを舞台に史上最高レベルの優勝争いを演じた。
しかし、「最も優秀な監督」という栄誉を得たのは、そのどちらでもなかった。
クリス・ワイルダーが持つ何が、彼を“ 最優秀” たらしめたのか。
文=エド・ホーキンス
翻訳=加藤富美
写真=ゲッティ イメージズ
シェフィールドの空は重く、今にも泣き出しそうな鉛色だった。トレーニング施設に隣接する駐車場を歩きながらクリス・ワイルダーの話を聞いていた私の前を、ランボルギーニが颯爽と走り去る。「おい!」。指揮官は声を張り上げた。「さっそくスーパースターの仲間入りか!?」
シェフィールド・ユナイテッドがリーズをかわしてチャンピオンシップ(イングランド2部)の2位に滑り込み、プレミアリーグへの昇格を決めたのはつい数日前のことだ。彼らは、スーパーカーで走り去るスター選手が少しもめずらしくない世界へ足を踏み入れたのだ。
指揮官はトレーニングウェアのファスナーを首元まで上げると、目を細めて車の行方を追った。その表情は、下部リーグから階段を駆け上がってきた感慨に満ちているようにも見えた。ハリファクス・タウンの監督として、パブで選手にビールをおごりつつクラブの破綻を打ち明けた夜から10年以上の月日が流れた。あるいは、「あのスポーツカーの持ち主は誰だ?」と当たりをつけているのかもしれない。彼がそれをよく思わない人間だとしても意外性はない。全くもってイングランド出身の監督らしい考え方だからだ。
「ステレオタイプ」と呼んでもいいかもしれない。読者もよく知っているはずだ。イングランド人の指導者で成功した人物を思い浮かべてほしい。皆とにかく声が大きい。そして、規律を重んじるモチベーターだ。選手には「110パーセントの努力」を要求し、ケガをしていても「チームのために」出場を命じる。昇格ボーナスをスーパーカーにつぎ込んだ選手が、「身のほど知らずが!」という言葉をぶつけられても、何ら不思議はない。
眉間にシワを寄せ、そっと人差し指を動かし、悲しそうに唇を結んで戦術に思いを巡らす──そんな“考える人”ジョゼップ・グアルディオラの対極と言っていいかもしれない。発電機のごとく、または催眠術師のように、全身で選手を奮い立たせるユルゲン・クロップとも違う。そんな名将2人を差し置いて、ワイルダーはイングランドのリーグ監督協会(LMA)から昨シーズンの年間最優秀監督賞を受賞した。彼はグアルディオラやクロップが実現していない実績と記録の持ち主でもある。9部、5部、4部、3部、2部とステージを上げ、2016年以降はマンチェスター・シティの累計勝ち点数に次ぐポイントをシェフィールド・Uで挙げてきた。もちろん、戦う舞台は異なっていたが。
2、30年前だったら、ワイルダーほどの実力者はイングランドの代表監督を任されても不思議ではなかった。しかし、「昔とは状況が違うね。代表監督の地位に魅力は感じない。今後も大した変化はないだろう。全くもってどうでもいい」と彼は言う。ワイルダーのキャリアを見ると、すべての天才が必ずしも輝かしい経歴を持っているわけではないと感じる。しかしだからこそ、彼の言葉には重みがある。
シェフィールド生まれ、現在52歳。記者を見つめる眼光は、場違いなスポーツカーを見たときと同じように鋭い。すべての質問に対し、「狙いは何だ。ここで何をしている」とでも言いたげな表情を浮かべる。ワイルダーは手強い。彼がルールを定めているとしたら、「デタラメなヤツにつき合う時間はない」ということだろう。その姿勢を理解することが、この男のことを知る第一歩だ。チャンピオンシップで下から数えて3分の1に入る運営予算しかないシェフィールド・Uを、たった3年間でリーグ1(イングランド3部)からプレミアリーグへと押し上げた秘密を探る出発点でもある。
誰もが驚く決断がキャリアの大きな転機に
2013年の秋に時間を戻そう。空は今日よりもっと暗かった。ワイルダーはオックスフォード・ユナイテッドの練習場にある、プレハブ造りのオフィスにいた。隣にいるのはスウォンジー、サンダーランドそしてウェールズ代表でDFを務めたアシスタントコーチのアンディ・メルヴィルだ。メルヴィルは監督にファンの姿が写った地元紙の三面記事を見せた。表情はその日の空の色よりも、ずっと暗い。
「わざわざ載せるか」。ワイルダーは肩をすくめる。その両肩には、重荷がのしかかっていた。クラブの雲行きは常に怪しい。そして予算はなかった。
彼は指導者としてのキャリアで初めてとも言える危機を迎えていた。何より、理解できないことがあった。どうも選手たちが、自分ほどチームの成績を気にしていないようなのだ。彼が過去に率いたアルフレトン・タウン(27週間のうちに4つのトロフィーを獲得した)やハリファクス(当時イングランド5部で、2006年の昇格プレーオフのファイナルに進出した)では問題になりえなかったことだ。彼はときにビールで気を紛らわしたが、悪循環が止まることはなかった。仲間もなく、孤独だった。たとえクラブを2度目の昇格に導いたとしても、契約延長はないだろう。ワイルダーはそう考えていた。養うべき家庭はあったが、試合に勝てるとは思えなかった。
オックスフォードでワイルダーは結果を残していた。2010年にはウェンブリーで行われた5部リーグのプレーオフ・ファイナルでヨーク・シティを相手に勝利を収めた。サポーターは紙でできたワイルダーのお面をかぶって応援したという。しかし、鉄鋼業の盛んなシェフィールド出身の強面の大将を、ファンが心から理解することはついになかった。
話を元に戻そう。新聞の三面記事だ。ケガ人、少ない予算、そして昇格への期待がファンのいらだちを増幅させていた──そしてワイルダーは“秘策”に至る。
彼は選手たちに、対抗心を植えつけた。対戦相手だけに向けられたものではない。フロントと戦おう。ときにはサポーターと戦おう。俺たちの力を見せてやろうじゃないか。するとどうだろう。12月にチームはリーグ2(イングランド4部)の首位に立った。そして、運命の2014年1月26日が訪れる。トーキー・ユナイテッドを1-0で破ったオックスフォードは、まだプレーオフ圏内にいた。そこでワイルダーは、その後のキャリアを決定づける勝負に出た。オックスフォードの監督を辞任し、同じ4部に所属するノーサンプトン・タウンの指揮官を引き受けたのだ。
その時点でノーサンプトンは最下位にいた。残留圏内からは勝ち点5も離れていた。昇格争いをしているクラブから降格に片足を突っ込んだチームへ。給料の支払いが滞っていたわけでもなかったから、指揮官が下したこの決断には誰もが首をかしげた。ノーサンプトンは9月から降格圏内に沈んだままで、ワイルダーが監督に就任した1月27日の時点で26試合を戦い、たったの5勝しか挙げていなかった。しかし、指揮官はノーサンプトンを残留に導けると信じて疑わなかったと言う。
「大変な時期だった」。彼はシェフィールド・Uの居心地のいいオフィスで椅子の背もたれに寄りかかると、そうつぶやいた。雨雲は去り、日が差すのも時間の問題といった空模様だ。「毎日が戦いだった。仕事で結果が出ないことを家庭に持ち込んでしまって、家族とうまくいかなくなった。そしてそれがまた、仕事に影響を与える。まさに悪循環だ。(ノーサンプトン行きを)性急に決めてしまった理由はそこにあるかもしれない。あれからかなりの時間が過ぎたが、当時のことは今もよく思い出す」
オックスフォードでの日々はワイルダーの学習曲線を急上昇させた。その経験は彼の血となり、肉となっている。
その後ワイルダーは指揮官としての階段を駆け上がったが、オックスフォードは3部の中位を定位置とするクラブになった。「彼はクラブで仕事をやり遂げなかった」と、ワイルダーを批判するオックスフォードファンは多い。「タラレバは世の常だ」と、指揮官は口にした。ノーサンプトンでの彼の仕事ぶりを考えれば、オックスフォードにいればさらなる成果をあげていたのでは、という声が上がっても不思議ではない。しかし、指揮官にとってオックスフォードの環境は理想的とは言えなかったようだ。
ノーサンプトンはワイルダーのもとで生き返り、残留を果たした。オックスフォードとの対戦では勝利を収めている。そのオックスフォードはシーズン最終日にプレーオフ圏内から滑り落ちた。ノーサンプトンは翌14-15シーズンを12位と危なげない順位で終え、15-16シーズンは堅調なスタートを切り昇格に向けて明るい展望が開けていた。
指揮官がクラブの会長から電話を受けたのはその頃だ。デイヴィット・カルドーサは、言いにくそうに「ちょっと話があるんだが……」と切り出したという。
2015年11月、英国の歳入関税庁は、税金の未納が続いていたノーサンプトンに対して清算命令を発行した。破産宣告まで24時間しか猶予がない状況だった。カルドーサはその後、ホームスタジアムのシックスフィールズ・スタジアムに新しいスタンドを建設するために自治体から借り入れた1000万ポンド(約14億円)の違法性を疑われ、逮捕されている。
ワイルダーは断固とした態度でこの問題に取り組んだ。「尊敬に値しないヤツやペテン師に用はない」。クラブに給料を払う余裕はなく、選手たちはPFA(イングランドサッカー選手協会)から支払いを受けていた。ほかのスタッフは4カ月もタダ働きをしていた。指揮官はここで、選手を追い込むことでチームを団結させる。「選手にこう言ったんだ。タオルを投げてもいい。だがそれは、お前たちのキャリアを傷つけることにもなる、と」
そこで一人の男がサポートに立ち上がる。オックスフォードの前会長、ケルヴィン・トーマスだ。彼はノーサンプトンを危機から救うべく、共同事業体を組成した。ワイルダーは仲介者として関係者に電話をかけ、健全な財務計画の詳細を説明し、取り引きをまとめ……文字どおり奔走した。そして同時に、ノーサンプトンをリーグ優勝に導いた。
ワイルダーが世界有数の指導者になった理由
ワイルダーとトーマスの長年のつき合いを知る人々は、彼らの間でシェフィールド・Uの話題は絶えなかったと口にする。ワイルダーはいつか生まれ故郷のクラブを指揮すべきだ。トーマスはそう繰り返し話していたという。
「デマだな」とワイルダーは笑った。「『いつまでノーサンプトンにいるかは分からないぞ』という姿勢を示して彼に用心させるために、こちらから話を持ち出したんだ(笑)。冗談はさておき、シェフィールド・Uでの仕事にそこまで思い入れはなかった。もちろん、指導者としてどこまで上に行けるかを確かめたい気持ちはあったがね」
しかし、彼の潜在意識には、地元への帰還願望が常に存在していたようだ。「忘れられない思い出だ」。彼はかすかに頬を赤らめると、14歳の頃の記憶を口にした。「会議室で待っていたらノックが聞こえ、シェフィールド・Uの担当者が入ってきた。すると父親が、『息子はおたくには入りませんよ』と言うんだ。耳を疑ったね。子供の頃からシェフィールドのファンだったから、本当にがっかりした」
彼は首を横に振り、その声はだんだんと小さくなった。しかし、気を取り直したかのように続けた。「でも、選手としてのキャリアやプレーの上達のことを考えれば、正しい選択だった。後悔はしていない」。私がインタビュー中にワイルダーの言葉を疑ったのは、これが初めてだった。
「正しい選択」と彼が自分を納得させたのは、父親が息子のために選んだサウサンプトンのプログラムが理由だった。当時父親は西ロンドンのカジノに勤めていた。「ギャンブラー以外の何者でもなかった」とはワイルダーの言葉だ。父親がシフトに入っていたある夜、“当時イングランド代表のキャプテンだったはずの”ケヴィン・キーガンが店に現れる。父親はキーガンに尋ねた。「フットボールをやっている息子がいるんですが、シェフィールド・Uとサウサンプトンのどちらがいいですか?」と。かつてサウサンプトンでプレーしたキーガンの答えは明らかだった。
16歳になったワイルダーはサウサンプトンのユースに加入する。しかし、地元から離れフットボールに打ち込むのは、肉体的にも精神的にもタフな経験だったようだ。「クラブはホームシックを乗り越えさせることで選手を鍛えようとしていた。父親にその意図があったかは分からない」
ワイルダーは理由を見つけては地元に戻った。「大好きなんだ」と彼は微笑む。
「今も変わらない。活気があって、骨太な、ワーキングクラスの街だ。人の種類が違うんだ。シェフィールド・ウェンズデイのファンについても同じことが言える」
彼に地元への愛着が芽生えたのは、地元を離れたがゆえだった。10歳になる頃、ワイルダー一家はロンドンに居を移した。彼はまるで故郷への裏切りを恥じるかのように、自分のアクセントについて説明した。ロンドンから来た記者にとっては、純粋なシェフィールドなまりに聞こえるが、彼の定義では違うようだ。「鼻に抜けるようなアクセントのせいで、ここ出身の人間だと信じてもらえないこともある。なかなか抜けないものだね」
シェフィールド・Uの練習場にあるコーチングスタッフの部屋の壁には、1枚の紙がピン止めされている。「誰もが何かと戦っている。だから優しくしよう」
私が彼に尋ねたかったのはまさにそこだ。どの指揮官も日々、様々な問題に直面している。他人はそれを物理的に目にすることはできず、理解もできない。大切なことは、選手たちもまた同じ状況にあるということだ。
ワイルダーは、そのことを理解している。彼が世界有数の監督と肩を並べるようになったのも、それが理由だ。選手たちが“ベストの自分”を出せるよう、奮い立たせることができるのだ。若者たちが互いのために戦い、涙を流し、精魂尽き果てるまで頑張れるよう、集団として結束させることができる。そして特筆すべきは、彼はその能力を読書や研修で身につけたのではないということだ。彼はその方法に関心を示すことすらしない。“当たり前のこと”だからだ。「指導者の仕事の80パーセントはそれだ」と彼は言う。「自然に身についている私は、ラッキーだね」
全くの謙遜だ。難題を当たり前のこととして片づけるのが、“イングランド北部出身の指揮官”にふさわしい。彼はチームを活性化し、そっと愛を注入する。それは、「ステレオタイプ」で片づけられる能力ではない。若者を鼓舞し、心地よくプレーさせる彼の哲学は、実はアメリカ西海岸でも見ることができる。
評論家が見落としているワイルダーの能力
1960年代、カリフォルニアにスポーツ指導者のための研修所が開設された。そこでは、アスリートに敬意を払い、励まし、温かく包み込むための方法が教えられた。心理学者アブラハム・マズローが提唱した「欲求の階層」の考え方、仏教の経典、ネイティブ・インディアンのイロコイ族に特有の共同居住空間の概念が教材に使われた。これは基本的に、「すべてを集団で行う」方法を示したものだ。チームの結束を図り、他人と共存する。ワイルダーはそんなチーム・ビルディングの手法を生まれながらに体得している。特別な学びは必要ないのだ。
スポーツに関する名著がある。『Out of Their League』。1960年代にセントルイス・カージナルスで7シーズンプレーしたアメリカンフットボールの名選手、デイヴ・メッグヨシーの回想録だ。そこには、当時の監督が採用した野蛮な指導法が描かれている。「監督のほとんどは選手を“タフな男”にするための指導をしていたが、行きすぎるのが常だった」
ワイルダーはこの本を読んだわけではないが、そうした指導に意味がないことを知っている。誰もがワイルダーのような姿勢を身につけているわけではない。フットボールの監督が頻繁に解任され、簡単にその座を追われるのは、必要なセオリーを身につけていないからだ。
ワイルダー自身もこれに同意するが、自己評価は厳しい。「私はいい教師かもしれないが、優れた戦術家ではない」。しかし、プレミアリーグへの昇格を果たしたシェフィールド・Uが採用した(センターバックがオーバーラップする)3-4-1-2のことを思うとき、多くの人は彼のコメントを鵜呑みにしないだろう。
人心掌握に秀でたワイルダーは、彼自身やチームが過小評価されることについても想定済みなのかもしれない。今シーズンのプレミアリーグ開幕前、ラジオ番組『talkSPORT』でコメンテーターを務めるエイドリアン・ダーラムは、ワイルダーとシェフィールド・Uを見くびる発言をした。プレミアリーグで爪痕を残せるはずもなく、昨シーズン38試合で28敗を喫して降格したハダースフィールドの下を行くかもしれない、と。まさに「ステレオタイプ」な見解だ。ワイルダーは思わず笑ったという。評論家は、“モチベーションという戦術”を考慮していないのだ。
モチベーションが彼のルールの1つ目だとしたら、2つ目と3つ目のルールは“忠誠”と“リスペクト”だ。選手に対してそれらを示せば、自分に返ってくる。彼は指導者としてのスタートを切ったアルフレトン(当時9部)時代からそれを実践し続けている。アルフレトンからハルに移籍しプレミアリーグでプレーしたライアン・フランスは、ワイルダーのマネジメントスキルについて「どのレベルで受けた指導よりも素晴らしかった」と話す。シェフィールド・Uでスポーツ・ジャーナリストを務めるダニー・ホールがワイルダーに捧げた著書『He’s One Of Our Own』(俺たちの誇り)の中では、フランスは「選手に何を言えばいいかを監督は知っている。そしてそれは、一人ひとり全く違うことが多い」と述べている。
年齢を重ねるにつれ、丸くなった。自身について、彼はそう感じている。オックスフォード時代は公私ともにシビアな日々が続いていた。結局、妻とは別れ、仲たがいしたままクラブからも去った。月日は過ぎ、彼は2017年にフランチェスカという女性と再婚する。結婚式は移籍期限当日だった。15時に挙式が迫るなか、彼は13時まで選手の契約作業に勤しんだ。彼が今落ち着いて仕事に精を出せるのは、妻のおかげだという。しかし、気のいいおじさんになるつもりはない。
「相手に切り込んでいくことを恐れてはいけない。選手のためになるから言っているんだ。個人的な批判ではない。持てる力をすべて出してほしいから厳しい言葉をかける。それがポイントだ」
選手がそのことを理解してくれていれば、そこから学びが始まる。
「何かをごまかそうとしたら、選手も黙っちゃいない。指導者が信念を持たなければ、反対にやり込められるだけだ。選手は真摯に向き合ってほしいと思っている。その期待に応えれば、私のことを信じてくれる。試合後に言いすぎてしまうこともあるが、火曜の朝に『悪かったな』と声をかければ信頼が失われることはない」
さらに続ける。「こっちの言いたいことを言い続けるのは問題だ。選手にも言いたいことを言わせたほうがいい。ほとんどの時間は、選手と指導者は“友人”であるべきだ。家族やゴルフ、車について話し合える関係がいいね……」
ワイルダーはそこで話を止め、オフィスにいたアシスタントのアラン・ナイルに声をかけた。「おい! あのfuckin’ランボルギーニを買ったヤツは誰だ!?」
※この記事はサッカーキング No.009(2020年1月号)に掲載された記事を再編集したものです。
By サッカーキング編集部
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