11年12月からアトレティコ・マドリードを指揮するシメオネ[写真]=Getty Images
[サッカーキング No.009(2020年1月号)掲載]
今年2月、アルゼンチン出身の指揮官はアトレティコ・マドリードとの契約を2022年まで延長した。
在任8年間でもたらしたタイトルは7つ。それでもなお、この場所にこだわるのには理由がある。
文=アンドリュー・マレー
翻訳=加藤富美
写真=ゲッティ イメージズ
リーベル・プレートの指揮官を務めていたディエゴ・シメオネは、キャプテンのアリエル・オルテガの息が酒臭いことに気づいた。2008年6月22日、午前11時のことだ。24時間後にはアルゼンチン1部後期リーグの最終戦が行われる。スタジアムが満員になることは間違いない。対戦相手バンフィエルドのレジェンド、ハビエル・サンギネッティがホームで戦う最後の試合だ。そしてリーベルのサポーターにとっては、オルテガがトロフィーを掲げる瞬間を目にする試合になる。
リーベルはすでに優勝を決めていた。“El Burrito ”(小さなロバ)の愛称で親しまれるキャプテンは、07-08シーズンを締めくくる大事な場面で中心人物になるはずだった。
シメオネは考えた。キャプテンであり、クラブの象徴でもある選手が前日練習に酔っぱらって姿を現すことを認めるわけにはいかない。最終節がもはや意味のないものであったとしても、そのような状態でピッチに立つことは許されない。指揮官はオルテガに声をかけた。
「私は君に背番号10を与え、リーダーの役割を任せてきた。君はチームのことを考える必要がある。鏡で自分を見てみろ。明日はベンチだ」
「チョロ、それはないよ!」
オルテガは監督のニックネームで呼び止めた。「考え直してくれ。明日話をしよう。試合に出してくれよ」
「いや、それはできない。試合後にピッチでトロフィーを受け取ってくれ。でも、試合中はベンチだ」
「頼むからプレーさせてくれ」
「その状態では無理だ。他の選手に示しがつかない。諦めろ」
「プレーできないならスタジアムには行かない」
「分かった。チームには話しておく」
スピリットを取り戻し戦える集団に変えた
それから3年後の2011年12月25日、シメオネは意気揚々とブエノスアイレスにあるエセイサ国際空港の搭乗口に向かっていた。「選手としてアトレティコ・マドリードを去ったとき、涙が止まらなかった。クラブを離れたくなかった。でも将来、監督になって戻るためには、契約が切れる前に円満に退団するしかなかった。指導者としての復帰はうまくいくと確信していた」
しかし、シメオネの成功を信じるものは少なかった。その頃のチームにはリーダーシップが欠如し、攻守は噛み合わず、13位に沈んでいた。そこでカンフル剤として投入されたのがシメオネだ。現役時代は圧倒的な統率力で95-96シーズンのリーグ戦とカップ戦の2冠に貢献している。何事も決して諦めないMFの姿勢は、チームにアドレナリンを注入し続けた。
シメオネはすぐに仕事に取りかかった。ビセンテ・カルデロンで行われた新監督お披露目のトレーニングには7000人のファンが見学に訪れた。チャントを歌う彼らに手を振ると、センターサークルに選手を呼び寄せて円陣を組んだ。「努力してもらうぞ」
相手チームよりも速く、より長い時間走り続ける。シメオネ戦術の基礎作りにおいて欠かせない人物がフィットネス・コーチのオスカル・オルテガだ。「プロフェ」(教授)のニックネームで呼ばれた彼は、シメオネの行く先々で体力面の指導を任されている。当時61歳の鬼コーチが課すトレーニングの厳しさは今も語り草で、吐かずにそれをやり遂げられる選手はわずかだったという。
チームはクリーンシートを6試合続けたが、その要因は肺活量の向上だけではない。指揮官は最初の数週間で、選手たちの強みを再確認した。
「優れた指導者になるには、チームの弱点を見えにくくし、長所を前面に打ち出すことが必要だ。選手は自分の成長を感じられずに、イラつく時期もある。指導する側は個々の弱点に対応しながら、長所を伸ばして気持ち良くプレーさせてあげることも必要だ」
シメオネを駆り立てるのは常に闘争心だ。そのスイッチを切ることはできない。
一度、彼とマドリードから北西に16キロ離れたマハダオンダにあるレストラン『デ・マリア』を訪れたことがある。彼が現役だった頃からのお気に入りの場所で、店からはアトレティコの練習場が見下ろせる。シメオネは食事をしながら、それが選手であるかのようにグラスの位置を何度も移動させた。チームの戦術変更が頭に浮かんだと言う。
映画を見ているときは、スクリーンの上にピッチが現れる。「1日24時間じゃない。25時間、アトレティコのことを考えている」
アトレティコはシメオネ体制で7つのタイトルを獲得した。1年目にヨーロッパリーグとUEFAスーパーカップで優勝すると、その後はコパ・デル・レイで戴冠を果たし、13-14シーズンには18年ぶりにラ・リーガを制した。スーペルコパ・デ・エスパーニャでも優勝し、2018年には再びELとUEFAスーパーカップでトロフィーを掲げた。
当然のことながら、選手たちはハゲタカのようなビッグクラブに狙われた。しかし、シメオネはそれをむしろ肯定的に捉えている。新しい血の注入を約束するものだからだ。「チーム内の競争が強さを生み出す」と彼は言う。
「すべては指導する側の責任だ。チームに4年いる選手も、私の話を聞き続けるような環境を作らなければならない。そのためには、私の指導を全く知らない、まっさらな状態の選手が必要だ。そうでなければ、チームはたるんでしまう」
自前の選手を育てることにおいて、シメオネはアレックス・ファーガソンに匹敵する腕前を披露している。その筆頭がコケだ。子供の頃からアトレティコ一筋だった彼をヨーロッパ有数のMFに成長させた。そのコケはかつてこんなことを話していた。
「チョロのプレーをスタンドで見ていた日のことを今でも思い出す。彼のもとでプレーする日が来るなんて夢にも思わなかった。彼は努力の人だよ。チームには才能ある選手がそろっていたけれど、勝者になるためにはハードワークが必要だった。監督はそんな可能性を秘めたチームを変えてくれた。彼に恩返しをするために、僕たちはすべての試合でいいプレーをしたいと思っている」
誰もが認める天性のリーダー資質
現在は空き地が目立つ、ブエノスアイレス・パレルモ地区のコスタリカ通り4876番地。1970年代にここを通り過ぎた人で、シメオネに気づいた者はいない。そこにはボールを蹴る普通の少年の姿があった。フットボールは彼の生活そのもの。それは今も昔も変わらない。
「小さい頃から、他人とは違うところがあった」
そう語るのは、自らもフットボール選手だった父親のカルロスだ。「ディエゴは毎日ボールを蹴っては祖母の植木鉢を壊していた。業を煮やした祖母が、ある日ボールを隠したんだ。彼はどうしたかって? 古いストッキングに紙を詰めて、ボール代わりに蹴っていたよ」
学校にいる間もお手製のボールを机の脚に結んで、教師に見つからないように蹴っていたという。そんな“フットボール教”の信者とも言える7歳の少年は、他の生徒たちとは一線を画す資質を持っていたようだ。当時の音楽教師、ブルーノ・アマツィーノが懐かしそうに語る。
「1、2年生で楽団を作って、ディエゴを指揮者にしたんだ。楽器も弾けないヤツが指揮者なんておかしいだろ、とみんなが口にした。でも演奏は大成功だった。ディエゴは生まれながらのリーダーだ。ピアノ、太鼓、タンバリン……と“団員”たちに次々に指示を出した。誰もが従ったよ」。彼は今でも、シメオネが太いズボンをはいて、オーケストラを前に指揮棒を振っている写真を額に入れて大切に飾っている。
シメオネのやる気、才能、そして勝利への執念は、その後まもなく地元クラブのベレス・サルスフィエルドの知るところとなる。“チョロ”のニックネームで呼ばれるようになったのもこの頃からだ。彼は、1960年代にボカ・ジュニオルスで活躍した伝説のDFカルメロ・シメオネ(名前つながりではない)を彷彿とさせる精神、野望、そしてエネルギーを秘めていた。ニックネームを引き継いだのも当然と言える。
アルゼンチン代表を率いて、1986年のメキシコ・ワールドカップを制したカルロス・ビラルドは、フットボールで目的を果たすための手段は、それがどんなものであってもすべて正当化されると考えていた。その信念を受け継いだシメオネは、挑発行為もフットボールの一部だと考えている。1994年のバルセロナ対アトレティコ戦でロマーリオがシメオネの頭をたたきレッドカードで退場となったあと、こんなことを言っている。「ずっとロマーリオに張りついていた。煩わしかったことだろう。手を出して当然だ」
彼を指導した監督は、ピッチに選手のリスペクトを集める監督がもう一人いるようなものだ、と口をそろえる。
「シメオネが11人いれば、1敗もせずに世界を制することが可能だった」と話すのは、1994年にアトレティコの監督を務めたフランシスコ・マツラナだ。「ある日、私はチームに戦術を説明したが、ほとんどが理解しようとしなかった。するとチョロが立ち上がって『いい加減にしろ。これが分からないなら外でボールを蹴ってろ』と言ったんだ。それから選手たちは集中して私の話を聞き、試合でも指示したとおりのプレーをしてくれたよ。そんな選手がチームにいるのは、すべての監督の夢だろう」
“プパス”を勝者に変えたメンタリティ
2005年に古巣のラシン・クラブに戻ったシメオネは、自身のキャリアが終わりに近づいているのを感じていた。しかし、スパイクを脱ぐ勇気を持てずにいた。
決断したのは、2006年2月17日。前日にラシンの選手としてベッドに入ったシメオネは、指揮官として朝を迎えた。
「誰かに強制されたわけじゃない。自分のできることと、できないことを悟ったんだ。私は試合の流れを読むことができる。だから引き受けた」
ラシンの左サイドバックを務めていたカルロス・アラーノが当時を振り返る。「勇気ある選択だ。あんな状態のチームを引き受ける人がほかにいたとは思えない」
ラシンは開幕から5試合で勝ち点1と、目も当てられない状態だった。シメオネが指揮を執るようになってからも3連敗を喫している。しかも、合計で0得点8失点というひどい成績だ。35歳の新米監督はアシスタントコーチのネルソン・ビバスとともに、答えを求めて練習場にあるテーブルの周りを毎日何時間も歩き回ったという。
そこで彼らは起死回生の奇策に出る。残り7試合となったとき、選手たちをホテルに宿泊させ、自宅に帰ることを禁じたのだ。アラーノは言う。
「チョロのやり方は、『危機的な状況にあることを理解しよう』というものだった。自分たちは大丈夫と信じるよりも、危機を感じて何らかの策を立てたほうがいいからね。人間は危機から最も多くのことを学べると思う」
その後チームは4連勝を挙げ、最終的に残留を果たした。しかしフロントの対応は、新たにレイナルド・メルロを招聘するという冷たいものだった。
一方で、シメオネの指導者としての資質を認めた人物もいる。ある晩、電話が鳴った。相手はコパ・リベルタドーレスを3度制したエストゥディアンテスの会長だ。「明日にでも練習場で会えないか」。話はあっという間にまとまった。
シメオネは、フアン・セバスティアン・ベロンを中心としたチーム作りを進めた。2人はラツィオとアルゼンチン代表で一緒にプレーした気心の知れた仲だ。エストゥディアンテスはクラブタイ記録の10連勝を挙げ、23年ぶりのリーグ制覇を遂げた。
アルゼンチンで最も評価の高い指導者となったシメオネは、2007年12月にリーベルの監督に就任する。しかし、栄光は長くは続かなかった──。
その後は2010年にサン・ロレンソを降格危機から救い、イタリアのカターニアでも残留を果たし、2011年6月には古巣のラシンに戻った。その半年後のクリスマスの日、彼はマドリードに向け飛び立った。「ついにこの時がきた」
母国を去る彼は、父親にそう話したという。これを逃せばチャンスは二度と来ない。シメオネは運命の力を感じていた。5年間で6つのクラブを渡り歩き、経験を積んだ。スタッフに仕事を任せることも学んだし、選手たちのモチベーションを上げる方法も学んだ。試合前には3人の子供たちの話を1人2分ずつ聞き、“普通の人間としての感覚”を失わないようにしていた。すべてはこの日のために。
当時、アトレティコの選手たちは“プパス”(大一番で必ず敗れることからつけられた、“ジンクスに呪われた者”の意)と呼ばれていた。精神的に追い詰められていた彼らに、シメオネは言い続けた。「お前たちは必ず勝てる」
その言葉どおり、EL決勝でアスレティック・ビルバオを3-0で破る。監督に“優勝記念品”を届けると約束していたラダメル・ファルカオは、ピッチを突っ切って自らのユニフォームを届けた。
1年後にサンティアゴ・ベルナベウで行われたコパ・デル・レイの決勝ではレアル・マドリードを下し、14年間続いていたダービーの連敗記録に終わりを告げる。コケは「彼のもとで、僕たちは生まれ変わった。何年も続いた不運を払拭することができた」と話している。「僕たちは長い間“プパス”と呼ばれていた。でも、監督がそのメンタリティを変えてくれた。今は毎試合、勝利を確信してピッチに立っている」
雄弁なシメオネがミーティングで話す内容はバラエティに富んでいるという。選手のモチベーションを高めるために、移動の機内にゲスト・スピーカーを招いたこともある。
「勝利と敗北は紙一重です。でも戦うことを止めないでください」と彼女は言う。名前はアイリーン・ヴィラ。23年前に爆弾テロで両足を失った。あまりの重傷に、彼女の父親は医師に「死なせてやってくれ」と頼んだという。彼女は絶望からはい上がり、パラアルペンスキーヤーとして活躍した。「人生において、落ち込むことは少なくありません。それでも立ち上がり、ホコリを払い、成功に向け困難に立ち向かう方法を学ばなければなりません。人生は毎日が戦いなのです」
アトレティコがその日の試合で勝利したのは言うまでもない。
シメオネの後悔とこれからへの決意
2008年6月にオルテガの最終戦出場を禁じてからわずか4カ月後、シメオネはリーベルを去ることになった。彼はキャプテンの逸脱行為(飲酒運転でガソリンスタンドに突っ込んだこともあった)を許すことなく、2部のインデペンディエンテ・リバダビアへレンタルに出した。オルテガにとってそれは、キャリアの終焉を意味していた。リーベルもメディアも、この判断に納得しなかった。
ほかの選手たちも覇気のない戦いを続け、12試合連続未勝利という不名誉なクラブ記録を作ってしまった。前期リーグ終了まで残り5試合。非難の声が高まるなか、シメオネはリーベルで最後となる記者会見に臨んだ。「不思議な気分だ。ありがとう。また会おう」
結局、オルテガの扱いが自身の職を奪う形になったとも言えるが、今振り返っても彼は別の方向に舵を切ることはできなかったように思う。リーベルとアトレティコでシメオネのアシスタントコーチを務めているネルソン・ビバスは言う。
「あとから『ああすれば良かった』と言うのは簡単だ。でも、個人よりも集団が大切というのがシメオネの考え方だった。彼が後悔しているとしたら、シーズン終了前にクラブを去ったことだろう。本当に残念そうだったよ」
シメオネは途中で任務を放り出した自分を許せなかった。それがキャリアで唯一、リーグを最下位で終えるという不名誉な記録につながるものであったとしても。彼は二度と中途半端に仕事を投げ出さないと心に決めた。
15-16シーズン終了後、シメオネの“移籍”は確実と思われていた。アーセナルはアーセン・ヴェンゲルの後任候補としての可能性を探っていたし、マンチェスター・ユナイテッドやインテルからも打診があった。パリ・サンジェルマンとの話が進んでいたら、彼の銀行口座に並ぶ数字はよりゴージャスなものになっていたかもしれない。しかしシメオネは、11年前に自らと交わした約束を守った。そう、彼はアトレティコでの仕事をまだ終えていない。チャンピオンズリーグを制するまでここを去ることはないだろう。
彼のアトレティコに対する帰属意識はとても強い。スペイン語ではそれを“エセンシア”と呼ぶ。
「選手たちとは生まれてからずっと一緒にいるような気がしている。運命共同体だ。誰もがこのクラブを愛している。このクラブの空気は温く、家族のようだ。それこそが“エセンシア”だ」
この意味が分からなければ、ディエゴ・シメオネの中で燃える炎は理解できないのかもしれない。彼は現在の世界で最高の指揮官の一人だ。そして、この10年を振り返っても彼と肩を並べる名将は数えるほどしかいない。
※この記事はサッカーキング No.009(2020年1月号)に掲載された記事を再編集したものです。
By サッカーキング編集部
サッカー総合情報サイト