趣味が高じてカメラマンの仕事を始めた時、最初の“仕事場”がエミレーツ・スタジアムだった。とくにアーセナルファンでない自分にとっても、思い出深い場所だ。しかし不思議なことに、それまでは一度もこのスタジアムを目にしたことがなかった。もう40年近くもロンドンに住んでいて、幾度となく付近を通っているはずなのだが……。
実際に行ってみて初めて分かった。最寄りのホロウェイ・ロード駅からスタジアムまでは300メートルほどだが、そこには6万人を収容できる施設の気配がまるで感じられない。辺りに並ぶのは聞いたこともない個人商店や、小さなカフェ、ケバブ屋などだ。都市開発が進んだ中心部には珍しい、懐かしいロンドンがここには残っている。ところが、冷たい雨と古いパブがよく似合う下町の風景を抜け、角を曲がって歩くこと50メートル、いきなり巨大なスタジアムが目に飛び込んでくる。周囲に視界をさえぎるものがない、のどかな田舎町とは違う。これがロンドンのスタジアムだ。
古い街並みと最新鋭のスタジアム。この2つが奇妙にミックスされた街が、マッチデーになるとさらに別の顔を見せる。ダフ屋、警察の騎馬隊、ホットドッグやグッズの屋台。少しずつサポーターの波が押し寄せ、やがてパブから人があふれ出す。全身にタトゥーが入ったビール腹の大男もいれば、きちんとしたスーツと帽子を身につけた老紳士もいる。階級も性別も、そして肌の色もさまざまだ。カリブ系にアフリカ系、アジア系、中東系……世界中にルーツを持つ人々が、アーセナルを見るために集まってくる。“古いロンドン”の街並みの中に、今や多民族都市となった“新しいロンドン”が鮮やかに現れる。
少年時代、友人たちはみんなリヴァプールやユナイテッドのファンで、アーセナルと言えばガラの悪い連中のクラブと決まっていた(当時はチェルシーファンなんてほとんどいなかった)。しかし、多種多様な人々が混ざり合う今のアーセナルファンに、そんな荒々しさはない。キックオフ直前まで誰も席につかないし、勝負が決まれば試合が終わる前にさっさと帰ってしまったりする。試合中にカメラを構えていても、選手の声とボールを蹴る音しか聞こえないほど静かな時がよくある。他のクラブと比べると、かなり“お行儀のいい”ファンだと思う。それでも、レフェリーや相手チームに向けられる罵声は相当に汚い。ピッチサイドにいると、日本語にはどうやっても訳せないほどの汚い罵言雑言があちこちから聞こえてくる。そして、対戦相手がどこであれ、チェルシーとトッテナムを馬鹿にするチャントだけは忘れずに歌う。
この街には本当にいろいろな人がいる。いたるところに公園があり、くもり空の下ではいつも、誰かがボールを蹴っている。人種もルーツも関係ない。とにかく芝生とボールが大好きで、その2つがあればハッピーなのだ。そんなロンドンが好きな人なら、きっとアーセナルも気に入るだろう。もちろん、あなたがチェルシーやトッテナムのファンでなければ、の話だが。
■プロフィール
早川明生(はやかわ・あきお)
1975年8月24日、名古屋市生まれ。3歳で渡英し、ロンドンで育つ。日本で法政大学を卒業、3年間の社会人経験の後、再びイギリスへ。現在は梱包材を製造・販売する「サンセツUK」の社長を務めるかたわら、副業のスポーツカメラマンとしても精力的に活動する。国際スポーツ記者協会(AIPS)会員。