左からサラー、ウィリアン、ロッベン、ペドロ、マタ、チェフ、ミケル [写真]=Getty Images
チェルシーは20日、バルセロナからスペイン代表FWペドロ・ロドリゲスを獲得したことを発表した。同日付のイギリス紙『デイリー・メール』は、これまでチェルシーが他のクラブ行きが濃厚でありながら、土壇場で獲得してきた選手を紹介している。
チェルシーへの移籍が決まったペドロは、直前までマンチェスター・Uへの移籍が間近だと報じられていた。しかし、最終的にはライバルチームが獲得寸前だった選手をチェルシーがかすめ取ったのは、これが初めてのことではない。
今回はジョゼ・モウリーニョ監督が個人的な介入を行ない、マンチェスター・Uのルイ・ファン・ハール監督が獲得しようとしていたペドロを移籍金2110万ポンド(約40億6000万円)でかっさらっていった。
同紙はチェルシーがどのようにしてライバルを負かしたのか、6選手のケースを調べている。すると“ハイジャック”の方法は、オーナーのロマン・アブラモヴィッチ氏のロシア・コネクションから、リヴァプールのもたつきに便乗したものまで様々あることがわかった。
まず一人目はウィリアンだ。2013年8月、チェルシーはロシアのアンジ・マハチカラからトッテナムへの移籍が寸前だったウィリアンをハイジャックした。トッテナムはウィリアン獲得競争でリヴァプールに勝ち、ウィリアンはすでにトッテナムの練習場でメディカルチェックを受けていた。トッテナムは移籍金3000万ポンド(約57億8000万円)で獲得したと信じていた。
しかし、チェルシーのオーナーのアブラモヴィッチ氏が、同じロシア人のアンジのオーナー、スエリマン・ケリモフ氏に直接電話をかけ、土壇場でのチェルシー入りとなった。
2005年、当時18歳のジョン・オビ・ミケルは所属先だったノルウェーのリン・オスロを退団する書類にサイン。マンチェスター・Uはミケルの代理人を無視して選手と直接交渉し、同選手の獲得を公式サイトで発表していた。これに対してチェルシーは、既にミケル本人および代理人と移籍合意済みであると主張。移籍は騒動に発展し、ミケルは急きょ開かれた記者会見にマンチェスター・Uのユニフォームを着て出席することになった。しかし、マンチェスター・Uへの移籍が実現するはずだった2006年1月、ミケルはクラブに現れなかった。
その後、ミケルはインタビューに応え、代理人が同席しなかったため、マンチェスター・Uとの契約書にサインをするようプレッシャーをかけられたと主張。また、本心ではチェルシーに加入したかったという思いを明かした。その後、ミケルはチェルシーとの契約にサインし、チェルシーはリン・オスロとマンチェスター・Uに補償金を支払っている。
チェルシーはフアン・マタもかっさらっていった。2011年、アーセナルはフアン・マタ獲得のために、バレンシアに対してクラブ史上最高額となる1800万ポンド(約34億7000万円)のオファーを出していた。しかし、バレンシアがこれを拒否し、更に高額の移籍金を要求。アーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督は、この状況に時間をかけ考慮していたが、その間にチェルシーが素早く動いてマタを略奪していった。チェルシーがオファーした金額は2350万ポンド(約45億3000万円)で、5年契約を結ぶことに成功している。
バーゼルに所属していたモハメド・サラーは、イングランドの複数のクラブから関心を寄せられ、リヴァプールへの移籍が濃厚になっていた。しかし、両クラブの交渉が長引くと、そこにチェルシーが乗り込み、あっという間に話をまとめた。
リヴァプールのCEOイアン・エアー氏は、「勝つこともあれば負けることもある」と言ったとされているが、サラーの代理人、ザシャ・エンパハー氏は「リヴァプールは決断が遅かったから、獲得に失敗した」と語っている。
「リヴァプールとの交渉はフェアなものだったが、長かった。2カ月半というのは長すぎる。バーゼルとリヴァプールは合意できなかったんだ。そこにチェルシーがバーゼルに連絡してきた。サラーは満足しているし、チャンスを掴んだ。金銭的な問題ではない」
2003年、アリエン・ロッベンはロンドンでマンチェスター・Uのサー・アレックス・ファーガソン監督に会っていた。しかし、PSVはマンチェスター・Uの500万ポンド(約9億6000万円)のオファーは安すぎると判断。ハリー・フォン・ライー会長は、ファーガソン監督に「その移籍金では、ロッベンのサインが入ったユニフォームが買えるだけだ。私の手持ちのカードを明かすことはできないが、その金額はお笑い種だ」と突き返したという。
そして、切り札を持っていたのはチェルシーだった。オーナーのアブラモヴィッチ氏は直ちに1210万ポンド(約23億3000万円)のオファーを出し、ロッベンを獲得。同シーズン、チェルシーはプレミアリーグ2連覇を果たした。
ペトル・チェフは最終的にはアーセナルに加入した。しかし、それ以前にアーセナルに加入する可能性もあったのである。2002年にヴェンゲル監督はチェフをスパルタ・プラハから獲得するチャンスを逃した。イギリスでの労働許可証を取ることができなかったからである。チェフはフランスのレンヌに移籍。2004年、アーセナルは2年前の失敗を取り返そうとしたが、その際はチェルシーがチェフの獲得に成功した。