クロップ監督(当時)に抱きつくシャヒン [写真]=DFL via Getty Images
トルコ代表MFヌリ・シャヒンがドルトムントとの“真実の愛”やレアル・マドリード移籍の裏側を明かした。
シャヒンは14日、アスリートの生の声を届けるメディア『プレイヤーズ・トリビューン(The Player’s Tribune)』に寄稿。ツイッターに「シーズンが始まる前に、1つのストーリーを共有したい」と投稿し、『Echte Liebe』(ドイツ語で、真実の愛の意。ドルトムントのモットー。)というタイトルの文章を紹介した。
「僕はフットボールオタク。1994年のワールドカップで決めた、ゲオルゲ・ハジのあのゴールを見て、恋に落ちてしまった。あのシュートが入った瞬間、2段ベッドの上にいた弟とともに叫んだ。少し前、父親に頼んで買ってもらったテレビで、できる限りのフットボールを見た。ロマーリオとベベットが縦横無尽に走る姿はとても美しいものだった。それから気付いた。ああこれが僕のスポーツなんだ、と」
「僕が育ったところは、ドルトムントファンとシャルケファンで二分された町だった。ドルトムントが僕たちの家のドアを叩いてくれたことを毎日感謝している。7歳のころ、ドルトムントの下部組織でプレーしないかと誘ってくれた。ドルトムントがブンデスリーガ2連覇を達成した年と同じ年だった」
「黄色と黒のユニフォームを着ることだけが僕の望みだった」
「ここクラブには特別な伝統があって、ユースの選手がいくつかの試合でボールボーイを担当できる。僕にも順番が回ってきたが、それはただの試合ではなかった。それはドルトムントとレアル・マドリードのチャンピオンズリーグだった。当時、チャンピオンズリーグ王者だったレアル・マドリードは“銀河系軍団”で、フィーゴ、ジダン、ロナウド、カシージャス、ロベルト・カルロス、他にも大勢のビッグネームが僕たちのスタジアムに来た」
「その夜に彼らが着た美しい白のユニフォームを覚えている。圧倒的で美しいフットボールだった。後半のどこかで、『いつかドルトムントでプレーするだろう。でも何が何でもレアル・マドリードでもプレーする』と考えていた」
「クラブは基本的に試合後、ピッチに入ることを禁止していた、特にボールボーイには。でもその夜はそんなことは関係なかった。友達に『終わったら行くよ。あのユニフォームを見て、自分の手で触るんだ。ロナウドに会わなくちゃ。』」
「僕はその通りにした。とても素晴らしかった。この感覚を忘れないと誓った」
「それから2年して、ドルトムントでブンデスリーガデビューを飾った。その頃はまだ16歳で、リーグの歴史で一番若いデビューだった。最初のホームゲームは最大のライバルであるシャルケ戦だった。ジグナル・イドゥナ・パルクは試合を見るには恐ろしい場所だけど、シャルケ戦はとんでもない。頭からつま先まで黄色に染まった25000人が南スタンド埋め付くし、黄色の壁を作る。ここのサポーターは世界一だ。どこのサポーターをそう言うけど、まずはドルトムントに来て欲しい。そうすれば気付くはずだ。僕にとってはモナリザのような、偉大な芸術のようですらある」
「その日、ピッチへ入って最初に見たものはその壁だった。今でも黄色の壁を最初に見る。ピッチから見ると、壁の終わりが見えない。それはただ、見渡す限りの黄色だった」
「僕たちはその試合に負けた。でもそれは重要ではなかった。夢の中にいた。黄色の壁の前で、ドルトムントのためにプレーすることができた。それから6年プレーし、ドルトムントは僕の魂に溶け込んでいった。シーズンを重ねる毎にチームへの愛が深くなっていき、それは僕の人生になった。妻と自分はとても幸せで、家以上の存在となったこの町で新しい家庭を築くことにわくわくしていた」
「2011年にブンデスリーガを制覇したあと、代理人からテキストメッセージが来た」
『やあヌリ、レアル・マドリードが君を欲しいって言ってるよ』
「すこしおかしくもある。子供のころに想像したことが一通のテキストで起こるなんて」
「移籍の噂で自分の名前を聞いたことは何度かあったけど、レアル・マドリードは一回もなかった。そして急にこうなった。白いユニ、ベルナベウ、歴史…。何年も前に自分に誓ったことを思い出した。心のどこかは『NO』と言っていた。ドルトムントは数えきれないものを与えてくれたのに、どうして離れることができる? 考えすぎて眠れない日もあった。何時間も家族や妻と話した。ドルトムントの監督、ユルゲン・クロップとも話さなくてはならなかった。この会話は一生忘れることができないだろう」
『ヌリ、君が選ぶんだ。でも知っておいて欲しい。もし君が離れるとしても、私は常に君の味方だ。一生友達だよ』
「僕は『もし残ったら、レアル・マドリードでの生活を考えてしまう、体はここにあっても、心はそこにない…。そんな風には生きれない』と伝えた。人生は一回きりで、後悔はしたくない、と言った」
「ユルゲンは理解してくれて、心の声に従うようにと言ってくれた」
「そこから何時間かして、決断を公表した。妊娠4カ月だった妻と一緒にマドリードに行った。それはどこか人生をやり直すようなものだった。スペイン語は話せたけど、妊婦が異国で生活することは簡単ではなかった。そして初めての練習でケガをしてしまった。スペインでの生活は思ったようには始まらなかった」
By サッカーキング編集部
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