[激闘の記録]「北朝鮮が日本のゴールに迫るたびに『ウォーッ』という大歓声が場内を包んだ」
【朝鮮民主主義人民共和国対日本】
1985年4月30日/金日成競技場(平壌)
文=後藤健生
写真=ゲッティ イメージズ
アジアサッカーキング掲載
■日本人の姿はない完全敵地
僕が初めて平ピョンヤン壌を訪れたのは1985年4月のこと。現在の金キム・ジョンウン正恩委員長の祖父の金キム・イルソン日成国家主席が健在だった頃の話である。
日本代表が、当時まだ一度も出場したことのないワールドカップに挑んだメキシコ大会アジア一次予選。東京での第一戦では原博実のゴールで日本が朝鮮民主主義人民共和国を1-0で破っていたが、北朝鮮は1966年のワールドカップでベスト8に進出した強豪であり、長身の選手が多くパワフルでタフな相手だった。
記者団も選手団と同じ飛行機で中国の北京に向かい、同地の北朝鮮大使館でビザを取得して平壌に入った。宿舎は平壌の都心、大テドンガン同江の河畔にある「平壌ホテル」。廊下のあちら側が選手団の部屋、こちら側が記者団の部屋という、今では考えられないような取材環境である。
試合当日、会場の金日成競技場には朝から多くの観客が詰め掛けて立錐の余地もない満員となり、さらに入りきれなかったファンがゲートを壊して入場しようとして武装した人民軍に止められるという緊迫した場面もあった。
北朝鮮というと「社会の隅々まで統制が行き届いている」という印象が強いが、サッカー場周辺の雰囲気はそれとはかなり異なっていたのだ。スタンドは、ほぼ全員が人民服を着た男性ばかりだった。
金日成競技場は、主席の生誕70年を記念して3年前に完成したばかりのスタジアムで、収容力は公称10万。実際は7万人ほどの規模だ。
ここには日本統治時代から牡モランボン丹峰運動場などと呼ばれる競技場があり、第二次大戦で日本が敗れてソ連軍が朝鮮半島北部に進駐してきた直後に金日成が初めて凱旋演説を行った、北朝鮮の人々にとって政治的な「聖地」でもある。
スタンドに日本人の姿は全くない「完全敵地」。スタンド全面を覆う金属製の大屋根に音が反響するので、北朝鮮が日本のゴールに迫るたびに「ウォーッ」という大歓声が場内を包んだ。
この競技場は、当時まだ珍しかった人工芝のピッチだったが、政治集会などで頻繁にマスゲームが行われるため人工芝は踏み固められて硬くなってしまっていた。そして、後半、空中戦で北朝鮮の選手と接触したMFの木村和司はその硬い人工芝に顔面から落下して意識を失ってしまう。その後もプレーを続けた木村だったが、今でも試合中の記憶は全くないという。
日本が放ったシュートは90分間でわずかに2本。しかし、GKの松井清隆が神がかったセービングを見せて北朝鮮の23本ものシュートをことごとく阻み、スコアレスドローに持ち込むことに成功。日本代表は無事に二次予選進出を決めた。
試合の後、宿舎の平壌ホテルでは慰労の宴会が開かれ、森孝慈監督の命令で記者団も全員が出席したが、負傷した木村は検査のため平壌市内の病院に入院を余儀なくされた。
■30年前の鮮やかな記憶
ところで、海外から北朝鮮を訪れた訪問団には必ず「案内人」が付く。訪問団の行動を監視するのも彼らの大事な任務で、外国人がホテルから勝手に出ていくと案内人がすぐに飛んでくるという仕組みだ。だが、この時はなぜか自由行動が許されており、筆者も平壌市内を一人で歩いて平壌駅や工事現場の様子などを見学することができたし、写真撮影などにも全く制限を受けなかった。
また、記者団に付いていた案内人は国際卓球連盟副会長など北朝鮮スポーツ界のエリートたちで、彼らとは毎晩のように宴会を催して盛り上がり、また政治的な話題も含めてかなり自由な会話もできた。
彼らのボス的な存在が張チャン・ウン雄という人物だった。現在も北朝鮮のIOC委員という要職を務めており、例えば平昌オリンピックへの北朝鮮参加問題などでも交渉の窓口としてたびたび登場する超大物だ。
元バスケットボール選手だったというだけに長身でスーツ姿もビシッと決まっており、流暢な英語も操る張雄氏。北朝鮮の国民は必ず胸に「金日成バッジ」を着けているが、張雄氏は毎日違うデザインのバッジをしてくる。それで、「いくつも持っているんですか?」と尋ねてみたら、「ネクタイの色や柄に合わせてるんです」という。
平壌訪問から13年後の1988年。バンコクでアジア大会があり、サッカーの表彰式にプレゼンターとして張雄氏が現われた。「どうせ覚えてはいないだろうが、挨拶くらいしておこう」
そう思って歩み寄ったところ、張雄氏の方から「ああ、後藤さん、元気ですか」と声を掛けてきた。実に素晴らしい記憶力と気配りのできる人物である。
帰国のために飛び立った朝鮮民航の旧ソ連製アントノフ24型機が「天候不良」を理由に平壌に引き返してしまい、さらに滞在が延長されるなどハプニング続きの北朝鮮遠征だったが、この時の平壌での数日間は30年たった現在も鮮やかな記憶として残っている。
ちなみに、二次予選で香港を破った日本代表は「勝てばワールドカップ初出場」という最終予選に進出したものの、すでにプロ化していた韓国に完敗。この敗戦が、「サッカー・プロ化」=「Jリーグ発足」のきっかけの一つとなった。
By サッカーキング編集部
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