インタビュー=安田勇斗
浦和レッズの1stステージ無敗優勝に貢献したアタッカー、梅崎司が大分トリニータU−18時代を振り返る。ベンチ外からスタメン、そしてまたベンチへと逆戻り。波乱の3年間で彼がつかんだ浮上のきっかけと、今も変わらない信念とは――。
大分U−18のセレクションはよく合格できたと思う
――中学時代はクラブチームでプレーしていたそうですね。
梅崎 はい。キックスFCというクラブで。それほどレベルの高いチームではなく、最後の全日本ユースの県予選でもベスト8止まりでした。
――それはかなり健闘した結果でしょうか?
梅崎 まあ、できたばかりのチームだったのでそうかもしれないですね。小学校時代に所属していた長崎FCというクラブの監督が、僕らが中学に上がる時に立ち上げたチームで、人数もそこまでいなかったので。
――チーム設立から短期間でベスト8進出は快挙とも言えそうですが。
梅崎 そうですね。ただ、僕らは小学校時代に県大会で2位になったりしていたので、中学ではもっと上まで行きたかったですね。ちなみに僕は中学に上がった時、そのまま長崎FCにいたんです。だけど、中1の夏の大会が終わると同時に中3が抜けて、人数が5人ぐらいになってしまい、キックスFCに移りました。余談ですけど、その時の長崎FCでは中村北斗(アビスパ福岡)君と一緒にプレーしていました(笑)。
――小学校、中学校時代のポジションは?
梅崎 小学校時代は最初ウイングが多くて、途中からトップ下。中学の時はそのままトップ下でした。
――中学時代はすでに注目を浴びていたのでしょうか?
梅崎 チーム内ではそこそこやってましたけど全然でした。
――チーム内ではエース?
梅崎 エースの次ぐらいです(笑)。小学校時代は県内で1、2番ぐらいにうまいって言われたこともあり、中学では選抜チームにも入ったりしたんですけど、途中から呼ばれなくなりましたね。
――その理由は?
梅崎 体が小さかったからだと思います。小学生の時はスピードがあって、テクニックもそこそこあって、結構うまくいってたんですけど、中学になってからは周りがどんどん大きくなって。フィジカルでは当然勝てなかったですし、スピードでも抜けなくなりました。
――その後、高校時代は大分トリニータのU−18に加入しました。高校サッカー部など他の選択肢は考えなかったのでしょうか?
梅崎 長崎県出身なので国見高校に行きたい気持ちもあったんですけど、ちょうどクラブユースが台頭してきた時期で、セレクションを開催すると聞いたので受けてみようかなと。とりあえず受けてみてダメだったらその時考えようって感じでした。
――U−18のセレクションはいかがでしたか?
梅崎 今思うとよく合格できたなって思いますね(苦笑)。とにかく無我夢中で手応えはなかったし。後々聞いたらギリギリだったらしいですけど(笑)。
――地元から随分離れていると思いますが、高校から寮生活を始めたのでしょうか?
梅崎 そうですね。通うのに2時間半から3時間ぐらいかかるので寮に入りました。
――U−18に入ってからは小学校時代の輝きを取り戻せましたか?
梅崎 最初は全然ダメでしたね。試合に出られないどころかベンチにも入れませんでした。とにかくレベルの高さに衝撃を受けました(苦笑)。多少自信があってU−18に入ったんですけど、練習に参加してみて「こんなに違うのか」と。
――どんな違いを感じたのでしょうか?
梅崎 すべてです。ボールのスピード、動きのスピード、駆け引き……全く敵いませんでした。
――特にすごいと思った選手はいますか?
梅崎 当時のU−18監督が元韓国代表選手だったファンボ・グァンという方で、彼が連れてきた1つ上のオン・ビョンフンという選手はめちゃめちゃうまかったです。もう神でしたね(笑)。僕が高2の時に韓国に帰ってしまったんですけど、同じ攻撃的なポジションで、一緒に自主練したり、すごく仲良くさせてもらいました。
――チームメートで言えば、今は浦和レッズで同僚の西川周作選手もいましたね。
梅崎 同じ高校の寮にも入ってましたし、当時から普通に仲は良かったですね。西川は僕がベンチにも入れない中、スタメンで試合に出てましたし、昔からバケモノでしたよ(笑)。
――その時はどんな選手でしたか?
梅崎 迫力があって、シュートを止める技術もありましたけど、何よりすごかったのはキック。今もそうですけど、あの時からレーザービームで味方にバンバン、パスを通してましたから。あとFKも蹴ってましたよ。全国大会でゴールも決めてたし、とにかく西川のキックは武器でしたね。
とにかく練習しました、誰よりも
――そんな中、ご自身はいつ頃から出場機会を得たのでしょうか?
梅崎 高1の時から途中出場で出させてもらったりもしましたけど、スタメンで出られるようになったのは高2になってからです。基本は左サイドで、トップ下で出させてもらうこともありました。
――わずか1年足らずで、定位置を確保できた理由やきっかけは?
梅崎 とにかく練習しました、誰よりも。あとU−18のフォーメーションが4−4−2でトップ下がなく、ボランチをやることが多かったんですが、高1の途中に当時のコーチに左サイドにコンバートされて、自分なりにこの世界で生き残るための道を考えました。そこで出した結論が、自分の武器を作ることでした。元々ドリブルは好きだったんですが、どちらかと言うと“こねくり回す”タイプだったので、左サイドからゴールに直結するドリブルを身につけられるよう練習しました。
――「誰よりも練習した」中で特にこだわって取り組んでいたことはありますか?
梅崎 2つあります。1つは左サイドでボールを受けて、縦に仕掛けて左足のクロス。もう1つはカットインしてシュート。この2つをずっと続けていました。
――それは1人で?
梅崎 1年の時は1人が多かったですけど、2年になってからは後輩に手伝ってもらったりしてました。基本的には寮に併設された体育館で、朝か練習後にやってましたね。あと学校から練習場へ、みんなはバスに乗って移動していたんですけど、僕だけ自転車で1時間前に練習場に入ったり、全体練習後に残ったりして自主練したこともありました。
――高2でレギュラーになり、以降は順調にステップアップできたのでしょうか?
梅崎 いや、また高2の途中でベンチにも入れなくなりました(苦笑)。最初はすごく順調だったんです。夏前の韓国遠征でも点を取ったりいい結果を残していたんですが、夏の全国大会で歯車が狂いました。初めての全国大会で緊張したのか、フォーメーションが変わったことで自分の力が出せなかったのか。自分のプレーが全くできませんでした。
――再びベンチ外となり、そこからどう立ち直ったんですか?
梅崎 ひたすら練習しました。それで一度、監督から止められました。
――オーバーワークで?
梅崎 はい。練習しすぎだからって、全体練習にも参加させてもらえない時期がありました(苦笑)。
――そこから伸びるきっかけをつかんだのは?
梅崎 高3になってまたスタメンで出られるようになったんですけど、高2の最初に比べるとそこまでうまくいってなかったんです。大きく変わったのはフィジカルコーチがついてからですね。トレーニングが激しくなって、夏頃からその影響が出始めました。めちゃめちゃスピードがついて自分にまた自信を持てるようになりました。公式戦でも楽しんでプレーできてましたね。
――ちなみにプロを意識し始めたのはいつ頃からですか?
梅崎 U−18に入った時です。やっぱりプロの下部組織ですし、努力すればプロになれるんじゃないかって思ってました。それからすぐレベルの高さを感じて難しいかなと思いましたけど、高3になって進路を決める時期になってまたプロを意識するようになりました。
――トップチーム昇格を知った時のシチュエーションは憶えていますか?
梅崎 練習の後に、当時の立石敬之強化部長(現FC東京GM)に自分1人だけ呼ばれて。突然、「お前、プロになる自信はあるか?」と聞かれ、僕は「はい」って返事して。最初はそれだけでした(笑)。ただ、事前に僕のいないところで、監督、コーチ、僕の母親で三者面談をしていたらしく、大会の結果次第でと言われていたみたいです。プレッシャーをかけないために、僕を呼ばなかったそうですが。
――高校時代を振り返って恩師と呼べる方はいますか?
梅崎 U−18で指導を受けて、その後トップチームの監督としてもお世話になったファンボ・グァン監督ですね。我慢を教えられ、特にメンタルを鍛えてもらいました。それと高3の時の監督で、今セレッソ大阪のヘッドコーチを務めている村田一弘さんにもすごくお世話になりました。村田さんは一つひとつのプレーを丁寧に指導してくださり、説明がとてもわかりやすくサッカーをより理解できるようになりました。この2人がいなかったら今の僕はいないと思います。
――最後にプロサッカー選手を目指す学生プレーヤーにアドバイスをお願いします。
梅崎 まずは気持ちだと思います。どんなにくじけても、どんなに難しい状況に陥ってもあきらめない気持ち、夢への強い意志が大切です。才能があってもリタイアしていく選手、問題を起こして辞めていく選手をたくさん見てきましたので。もう一つは考える力。自分の立ち位置と現状をしっかり捉えて、何が得意で何がダメか、何が必要かを考えてほしい。例えばポジション争いの中で、試合に出ている選手と自分との違い、どうやったら試合に出られるかを常に考え、考え抜いて努力する。その“考え”がないと、努力の成果は全く違うものになってしまいます。
――選手としてその考えが身についたのはいつ頃からですか?
梅崎 小学生の時から少しずつ思い始めて、よく考えるようになったのは中学生の頃からですね。うまくいっていたことがダメになり、より強く意識するようになりました。そこで周りのせいにしてこなかったのは良かったことだと思います。ダメなのは自分、その思いは今も変わらないですよ。稀にですが、天才もいます。浦和レッズで言えば、興梠(慎三)みたいな、僕とは違う道を進んでプロとして活躍する選手も。それでも、悩む時や苦しむ時が必ずあると思いますし、それを乗り越えられるかが大事なことで、その時必要になるのがやっぱり気持ちなんです。