インタビュー=安田勇斗、写真=平柳麻衣
市立船橋高校のキャプテンとして選手権を制覇、明治大学では不動のエースとして確固たる地位を築き、来シーズンから名古屋グランパスで新たなチャレンジに臨む。自他ともに認める「負けず嫌い」を原動力に、スター街道を歩んできた和泉竜司のプロキャリアがついに幕を開ける。
自分のキャリアで一番輝いていた時期かもしれない
――いつ、どんなきっかけでサッカーを始めたんですか?
和泉 小学3年の時です。仲のいい友達がサッカーを始めて、僕も一緒にやるようになりました。
――それまでサッカーには関わってこなかったんですか?
和泉 そうですね。お父さんが野球をやってて、お母さんがソフトボールをやっていたので、親は野球をやることを期待していたみたいです(笑)。お父さんとはよく遊びでキャッチボールやバッティングをしてましたし。
――最初に入ったチームはどんなところでしたか?
和泉 普通のサッカー少年団です。小5の時は県大会で優勝して東海大会には出ましたけど、強豪ではなかったです。
――当時のポジションは?
和泉 メインはFWでしたけど、サイドハーフとかサイドバックとか、いろいろなポジションを経験させてもらいました。監督が三重県の技術委員会の方で、良い指導を受けられたと思います。
――中学時代はどういうチームでプレーしていたんですか?
和泉 最初は名古屋グランパスのU15に行きたくて、セレクションを受けて合格しました。でも通うのが大変で、練習時間にも間に合いそうになかったので、地元のチームに行くことにしたんです。FC四日市という県で一、二を争うチームで、自転車で10分か15分ぐらいで通える場所だったので。
――良い成績を残せましたか?
和泉 優秀な選手が集まるので、毎年いいところまで行ってました。僕らの代で初めて高円宮杯で全国大会にも出たんですけど、全国では良い結果を残せなかったですね。個人としては、小学校の時もそうなんですけどナショナルトレセンに参加しました。
――名古屋U15との対戦もあったんですか?
和泉 東海大会の決勝で戦ってボコボコにやられました(苦笑)。その時のグランパスはすごく強くて。佐藤和樹選手(名古屋グランパス)や水野泰輔選手(FC岐阜)、高原幹選手(流通経済大学)、あと早稲田大学の奥山政幸選手もいましたね。
――高校は地元を離れて市立船橋高等学校に進学しました。
和泉 FC四日市と市船につながりがあったみたいで、FC四日市の2つ上の先輩が1人、1つ上の先輩が3人、市船に行ってたんです。クラブユースに行くことも考えていて、練習参加もしたんですけど、FC四日市の監督や周りのアドバイスもあって市船に行きました。ただ、それまで市船のことはよく知らなかったんです。全国的に有名なことぐらいは知ってましたけど、親からは「3年間試合に出られなくても知らないよ」って言われて、そんなにすごいところなのかと。正直、安易な気持ちで行きましたね(笑)。
――県外のチームに行った理由は?
和泉 自立するために親元を離れたかったんです。その中で市船を選んだ決め手は、FC四日市の監督が推してくれたことですね。その言葉を信じて行きました。
――寮生活はいかがでしたか?
和泉 楽しかったですよ。一軒家みたいなところに寮母さんがいて、1部屋2人で5部屋ありました。練習場にも近くて、寮のルールもあまり厳しくなかったので(笑)。
――名門校である市船の練習はどう感じましたか?
和泉 キツかったです(苦笑)。やっぱり走りこみが大変で。市船の伝統で「イチロクヨン」っていうメニューがあって、ゴールラインから反対側のゴールラインまで16秒で走って、40秒で戻ってくるっていう。まず10本はやるんですけど、みんなが時間内に走れないと終わらないんですよ。多い時は20本ぐらいやってたんじゃないですかね。毎日ではないですけど、1、2年の時は結構多くて、試合のない土日とか、紅白戦の後にやってました。
――中学時代の練習と比べて違いはありましたか?
和泉 FC四日市ではテクニック中心の練習が多くて、ボールタッチ、ドリブル、リフティング、狭い中でのボールの取り合いなんかをよくやってました。市船でも1年の時のコーチが、同じようにテクニックを重視する方で、やることは変わらないし、自分のやってきたことを活かせるなと思いました。でもそれからAチームに上がって、対人の練習やゲームを中心にやるようになって結構変わってきましたね。
――試合に出始めたのはいつから?
和泉 1年の時から途中交代などで出ることはありました。でも、高1と高3ではスピードも体つきも全然違いますし、試合に入れていた感じはなかったですね。
――当時のポジションは?
和泉 トップ下が多くて、サイドハーフをやることもありました。
――高校時代、特に記憶に残っていることは?
和泉 一番は優勝した最後の選手権(第90回全国高校サッカー選手権大会)です。1、2年の時に選手権に出られなかったんですけど、自分たちとしては出られれば優勝できるって思っていたんです。それで3年になってようやく予選を突破して、優勝できて。
――実際、2年生の時のインターハイでは全国制覇を成し遂げていますね。
和泉 そうですね。いい思い出です。あの大会は「打てば入る」ってぐらい調子が良かったので。予選で全然決められなくて、大会前までは悩んでたんですよ。でも初戦で点を取れて、そこから吹っ切れたというか。あの「打てば入る」感覚はなかなかないですし、自分のキャリアで一番輝いていた時期かもしれないですね(笑)。
――そういう経験もあって、自分たちに自信があったからこそ選手権への想いが強かったんですね。
和泉 はい。でも、1年の時はインハイも選手権も出られなかったですし、2年の時は選手権に出られませんでした。で、3年のインハイでは全国大会の初戦で負けてしまって。試合後には朝岡(隆蔵)監督からもいろいろ言われましたし、自分たちもこのままじゃダメだって思って、そこからかなり変われたのは大きかったです。
――具体的にどんな点を変えたんですか?
和泉 一人ひとりが目標を明確にして、それぞれ紙に書きました。それを毎日見るロッカールームに貼ったんです。
――何を書きましたか?
和泉 はっきりは憶えてないんですけど(苦笑)……確かチームを勝たせるプレーをする、とか書いたと思います。キャプテンだったので、ゴールやアシストでチームを引っ張りたいと思っていたので。
――キャプテンに指名された時はどう思いましたか?
和泉 キツいなって(苦笑)。ただ2年でずっと試合に出ていたので、自分かなというのもありました。
――最後の選手権、決勝の四日市中央工業戦では2得点を挙げて2-1の勝利に導きました。大会中の一番の思い出はやはりこの試合ですか?
和泉 そうですね。試合以外でも、決勝の日の朝に、チームのみんながホテルに来てくれたこともよく憶えています。ビデオを持ってきてくれて、試合に出られない3年生の引退試合の映像や、メッセージ映像もあって、3年生はみんな泣きました。いつもはこらえるんですけど、その時は僕も泣いてしまって(苦笑)。その出来事を経て、自分の活躍で優勝もできて、本当にうれしかったですね。
自分がより活きるのはグランパス
――プロ入りもうわさされる中、進路には明治大学を選択しました。その経緯は?
和泉 2年の時から、3年の4月か5月の段階で、複数のチームからオファーが来ないなら大学に行こうと思っていました。高卒でJリーグで活躍するのは難しいですし、複数のチームからオファーが来るぐらいの選手でないと、活躍できないと思っていたので。
――5月の段階ではオファーはなかったんですか?
和泉 練習参加の話はあったと思うんですけど、正式なオファーはなかったですね。その後にはオファーがあったみたいですが、監督には前もって大学進学を伝えていたので詳しくはわからないです。
――明治大に決めた理由、決まったタイミングは?
和泉 8月にセレクションがあったんですけど、僕の中では5月ぐらいに決めていました。明治に決めた理由は直感です(笑)。市船の先輩たちが明治に進学していて、タイトルを狙えるチームでたくさんのプロ選手を輩出しているのは知っていたので、明治を第一志望にしました。正直、高校時代は大学サッカーを見ていなかったので、どんなサッカーかはわかってなかったんですけど(苦笑)。
――進路を悩んだりは?
和泉 全然なかったです。あまりわからないままに第一志望に明治、第二志望に専修、第三志望に中央って監督に伝えて。明治から声をかけてもらって迷わず行くことに決めました。
――大学でも寮生活で、2人部屋から8人部屋になったそうですね。
和泉 先輩がみんな優しくてありがたかったんですけど、その部屋は1年が僕だけでキツかったです。気軽にしゃべる相手がいなくて。当番や掃除もあって、最初は高校の時よりも大変でしたね。
――明治大のサッカーはどう感じましたか?
和泉 守備から入るところなどは市船に似てるなと。明治の球際、運動量、切り替えの“三原則”は、市船も重視している部分ですし、違和感なく入れましたね。周りの選手もうまかったので、最初から自分の能力を活かせるなと感じました。
――試合に出始めたのは?
和泉 最初から出させてもらいました。高校選抜で合流が遅れたんですけど、帰ってすぐにベンチに入れてもらって。次の試合からスタメンで出ていました。
――高校時代は朝岡監督、大学では神川明彦監督と栗田大輔監督に指導を受けました。
和泉 高校ではあまり厳しく言われることがなくて、自分でも甘やかされていたかなと思います。もちろん言われなくても、自分ではこだわりを持ってプレーしてましたけど。その点、大学では神川さんにいろいろ言われましたね(苦笑)。自分に対してここまで言ってくれる人は今までいなかったです。
――かなりギャップを感じたのでは?
和泉 そうですね。でも、言われて落ちこむタイプじゃないですし、負けず嫌いなのでプレーで見返してやろうといつも思っていました。いずれにしても、厳しく言ってくれる神川さんのおかげで成長できましたし、自分自身、よりこだわってプレーできたと思います。
――大学4年間で一番記憶に残っていることは(取材は2015年12月上旬に実施)?
和泉 1年の時の、インカレの福岡大戦ですね。明治は強豪ですし、負けてもだいたい接戦なんですけど、この日は完敗でした。前半で0-4、後半に2点返して2-4で終わったんですけど、チームとしても個人としても何もできませんでした。自分たちが苦手とするロングボールやセットプレーでやられて、市船時代もそんな負け方をしたことがなかったので嫌な記憶として残ってます。
――その敗戦によって変化はありましたか?
和泉 どんな相手でも勝たなきゃいけない、というのは強く感じました。今でも明治の課題だと思うんですけど、特に引いて守る相手でも点を取れるようにならないとタイトルは取れないなと。
――大学時代のポジションは?
和泉 トップ下は2年からで、1年の時はサイドハーフでした。前線に阪野豊史さん(栃木SC)と山村佑樹さん(水戸ホーリーホック)というすごい2トップがいて、トップ下に三田啓貴君(FC東京)、右サイドに岩渕良太君(FC琉球)がいて、自分は右サイドで出ることが多かったですね。それまで右サイドはやったことがなくて、最初は守備の部分が難しかったです。高校と大学ではスピード感が全然違って。右サイドバックの小川大貴さん(ジュビロ磐田)と細かく話し合ったり、指示してもらったりして学んでいきました。
――大学で一番成長した部分はどんなところですか?
和泉 考える力がついたと思います。どうすれば自分が点を取れるか、どうすれば起点になれるかというのを、相手が2枚来たり、激しくきたり、そうした状況に応じて、どう利用するかなどを考えられるようになり、プレーの質も上がってきたと感じてます。
――来シーズンの名古屋グランパス加入が決まっていますが、クラブとのファーストコンタクトは?
和泉 去年のリーグ戦が終わった後です。それから6月に練習参加させていただき、発表自体は夏のユニバーシアードが終わってからでしたけど、自分の中ではその時点で決めていました。
――他のクラブとの接触は?
和泉 1年生の終わりに、あるクラブのキャンプに参加させてもらい、別のもう一つのクラブからもグランパスより前にオファーをいただきました。そのクラブは施設なども見学させていただきました。あと一つ、お話をもらったクラブがあるので、グランパスを入れて4つのクラブからお話をいただきました。
――その中でどういった理由から名古屋を選んだのでしょうか?
和泉 正直に言うと、オファーをもらったもう一つのクラブと迷ってたんです。そのクラブも伝統があって、サッカーのスタイルも確立されていて、魅力を感じていました。ただ、試合を見たり、いろいろな想像をしたりして、自分がより活きるのはグランパスかなと。地元に近いですし、親の近くでプレーしたいという想いもありました。お父さんは小学校、中学校の時はよく試合を見に来てくれたんですが、高校、大学ではほとんど見てもらう機会がなかったので、プロでは見てもらいたいと思ったんです。
――両親に相談したんですか?
和泉 してないです。親も「自分の行く道は自分で決めろ」って感じで。特に相談した人はいないですし、自分で決めました。
――名古屋ではどんなプレーを見せてくれますか?
和泉 得点に絡むプレーを見てほしいですね。ドリブル、パス、シュートはすべて自分のストロングポイントですし、ゴールやアシストという結果にもこだわってプレーしたいです。
――プレーしたいポジションは?
和泉 トップ下が自分には一番合っていると思いますけど、サイドでも持ち味は出せると思いますし、どこでもやれる自信はあります。
――将来的には海外移籍を視野に入れているそうですね。
和泉 2、3年で行きたいです。大卒なので年齢的にも早ければ早いほどいいと思っています。