日本サッカーに捧げた27年 ハーフナー・ディド(清水エスパルス コーチ)

オランダから未知の国、日本へ

 右サイドからフワリとクロスが上がる。細身で長身のストライカーが、クロスに対応するDFの死角に入りながら巧みに体を入れ替え、しっかりと振り切ったヘディングシュートをゴールに突き刺した。

 2012年1月27日、オランダ・エールディヴィジ第19節。PSVのホームで行われたPSVvsフィテッセ戦。前年の12月にヴァンフォーレ甲府からフィテッセへ移籍していた日本代表FWハーフナー・マイクがオランダで決めた初ゴールのシーンだ。

 遠く離れた日本で、マイクの初ゴールをほかの誰よりも、ひょっとすると本人以上に喜んでいた人物がいる。清水エスパルスでコーチを務めるハーフナー・ディド。マイクの父親だ。ディドは、親子をつなぐ不思議な巡り合わせを教えてくれた。

「僕はFCデン・ハーグ(現ADOデン・ハーグ)でプロになったんだけど、初試合がPSVスタジアムのPSV戦だったんだ。同じスタジアムでマイクは初ゴール、僕はプロデビュー。もう、すごく嬉しいよ」

 現在は“ハーフナー・マイクの父”と表現されることが多いが、GKとしてプレーする彼の雄姿を記憶している人も多いだろう。初めて来日したのは、まだ20歳代だった1985年。そこから41歳を迎えた1998年まで現役を続け、その後は指導者として、現在に至るまで常に日本サッカーの現場に立ち続けている。

 日本とディドを結びつけたのは、元日本代表監督のハンス・オフトである。U-23オランダ代表に招集された際のコーチがオフトであり、2人は旧知の仲だった。JSL(日本サッカーリーグ)のマツダでヘッドコーチをしていたオフトから直接電話を受け、選手兼GKコーチとしての来日を要請された。若き守護神はオファーを快諾し、1985年に奥さんと1歳の娘を連れて来日する。だが、ヨーロッパとの違いに現実とのギャップは大きかった。

「練習は土のグラウンド。セービングが痛いんだ。お客さんも少ないし、パスをつないでも全然沸かない。僕が大きいボールを蹴ると、『オーッ!』となる。たぶん野球のホームランと同じ」と、笑い話のように当時の戸惑いを振り返る。マツダとの契約は1年、家は残したまま来日した。だが、もう1年、もう1年と慰留され、来日3年目にはオランダの家を売り払う。

 当時の選手はほとんどがアマチュア。午前中に練習を行い、午後は仕事をこなしていた。日本サッカーが発展するためにはプロリーグの存在が不可欠と考え、オフトと2人でプレー環境の改善を訴え続ける。

「世界レベルにしたかった。オフトさんとたくさん話をして、少しずつ変わって行った。毎日2部練をして」。ディドはいたずらっぽい笑みを浮かべ、「会社はちょっと怒っていたけどね」と付け加えた。実は、後にJリーグ初代チェアマンとなる川淵三郎氏にも経験や知識を伝え、プロ化へのアドバイスを送っていたのだという。

「川淵さんともいっぱい話をした。川淵さんもよくオランダに行って勉強していたんだ。スタジアムのこととか、オーガニゼーションとかね」

 日本サッカーの黎明期、プロリーグ創設という大きな変革を陰ながら推し進めていたのが、オランダからやって来たオフトとディドの2人だった。

監督になって恩返しをしたい

 読売クラブ(現東京ヴェルディ)に移籍後、一度は引退するも、1992年に名古屋グランパスエイトで現役に復帰する。翌1993年、Jリーグがスタート。念願だった日本のプロリーグで、名古屋の守護神として活躍した。その一方で、1993年10月、生涯忘れられないほどの落胆も経験する。オフト率いる日本代表のGKコーチを任され、“ドーハの悲劇”をピッチサイドで目の当たりにした。

「ラモス(瑠偉)、柱谷(哲二)、都並(敏史)……。みんなとワールドカップに行きたかった。ラストチャンスだった。大ショックだよ。1週間くらい、全然寝られなかった」

 特に、ロスタイムに許したイラクの同点ゴールの場面は、「今も月に一度くらい思い出す。頭の中にDVDが入っているみたい」と明かすほど、20年近く経った今でも鮮明に記憶しているという。

 低迷期、Jリーグブーム、ドーハの悲劇と、日本サッカーの激動をつぶさに体感してきたディドは1994年、一つの決断を下す。それが日本国籍の取得だった。日本人として生きる。それは、1987年に広島で生まれていたマイクを含む家族全員の選択だった。

「年に一度はオランダに帰っていたけれど、子どもたちは1週間でホームシックになって、食事も全然食べない。『日本に帰りたい』って言うくらい。子どもたちは完璧に日本人なんだ。帰化の話を聞いた僕の両親は、ちょっと苦い顔をしていたけどね」

 ディドと奥さんは、来日当初から日本を愛していた。奥さんが作る料理は、最初の1カ月でほとんどが日本の料理に変わった。また、予定を立てて時間どおりに行動する日本人のスタイルは、ディドの性格にぴったりだったと振り返る。帰化した翌年には次男ニッキが誕生。ハーフナー一家は「ずっと日本で暮らしていたい」と願っている。

 Jリーグ発足後、名古屋(GKコーチ兼任)、ジュビロ磐田(GKコーチ兼任)、コンサドーレ札幌とチームを渡り歩いた彼は1998年に現役を退き、指導者の道に専念する。横浜F・マリノスGKコーチ時代の2003年、2004年、名古屋でコーチを務めた2010年にはJ1優勝を経験。2005年にはJFA公認S級ライセンスも取得した。

「ゴトビ監督から選手を振り分けて練習を任せてもらったり、清水でもすごくいい勉強をさせてもらっている。札幌、名古屋、サンフレッチェ広島、いつかは監督になって恩返しがしたい。その先は日本代表もね」と夢を語る。

 1985年の来日から27年経った今、日本のサッカーはディドの目にどう映っているのだろうか。その答えは驚くほどポジティブなものだった。
  「若くていい選手がいっぱいいる。あと5、6年経ったら、日本のサッカーは世界のトップ10に入っているよ。2018年のワールドカップは、ベスト4や決勝にだって行けるよ」

 まだマイクが幼い頃、2人でよく公園に出かけ、ボールを蹴っていた。しばらくすると、Jリーガーの姿に気づいた人たちがサインを求めて集まりだす。サインが終わるのを待つマイクは「早くサッカーやろうよ」とふてくされ、そんな息子に父はこう語りかけたそうだ。

「たぶん将来は逆になるよ。マイクがサインをして、僕が待っているようになるんじゃないかな」

 マイクがヨーロッパを舞台に羽ばたき始め、日本代表のストライカーとしても注目される存在となった今、その言葉は現実になりつつある。

 “2018年ワールドカップベスト4”が実現した時、そのピッチには日の丸を胸に着けたマイクが立っているのだろうか。名古屋U18に所属し、大型センターバックとして将来を嘱望されている次男のニッキにもチャンスがあるかもしれない。もしかすると、その日本代表を率いているのが……いや、それはあまりに出来すぎた物語だろうか。

 来日から27年、日本のサッカーを取り巻く環境は大きく様変わりした。「日本のサッカーを世界レベルに」。ディドが抱き続ける思いが実を結ぶ日は、もう遠くはない。

インタビュー・文=川瀬太補
写真=足立雅史(マイク)、安藤隆人(ニッキ)、鉄本宏(ディド)

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