[サムライサッカーキング6月号 掲載]
「俺みたいなキャリアの代表選手、他にはいないでしょ」。体格のハンデ、キャリアの不遇があったからこそ作り上げられた中村憲剛のスタイル。《考える》サッカーが、日本サッカーの明日を照らす松明となる。
──中学1年の時にJリーグが誕生しました。
中村憲剛(以下憲剛) 開幕戦をテレビで見たことを、いまだに覚えていますよ。
──中学に上がる時点で、プロという明確な目標ができたというのは、最高のタイミングでしたね。
憲剛 確かに最高のタイミングだったんですが、現実はそうではなくて、中学に上がったとたん、フィジカルサッカーの壁に思いきりぶち当たりました(苦笑)。中学では、新しくできたクラブチームに1期生として入ったので、僕らのチームには1年生しかいなかったんですね。でも、練習試合をやると、当然、相手チームには3年生がいて、向こうは身体つきも全然違ったし、全く通用しませんでした。小学生の時って、2つ上の学年とやる機会ってほとんどないじゃないですか。だから、身体が小さくても俊敏さという武器があればやっていけたんですが、中学生になって、相手が2学年上になると、完全にフィジカルで負けちゃうんです。
──その年代での1学年の差は大きいですからね。
憲剛 かなり差がありましたね。特に僕の場合は背が低かったですから。府ロクと比べたら弱くて勝てなかったですし、そこで嫌になって、半年ぐらいで辞めました。
──半年で辞めたんですか?
憲剛 1年の夏で辞めました。その後はどこにも所属せず、一人で寂しくボールを蹴ってましたね。
──中学1年で、大きな挫折を味わったわけですね。
憲剛 かなり大きなダメージでした。何をやってもダメでしたし、しかも、それを自分のせいにしてませんでした。当時はそういうダメな考えしかできなかったんです。でも、サッカーから離れていた半年の間に、「やっぱりサッカーがやりたい」と思ったんです。それからは、「身体が小さい自分は、どうすれば生き残れるのか」ということをとことん考えました。そこで、「パス」と「相手に当たらずにプレーする」ということを少しずつ意識するようになったんです。
──中学1年で? それはすごい。
憲剛 本当に何もさせてもらえなかったから、考えざるを得なかったんだと思います。フリーでボールを持った時のプレーには自信がありましたけど、それまではフリーになろうという努力もしなかったですし。
──ボールをもらうことすらできなかったわけですね。
憲剛 そうです。それまでは何もしなくてもボールをもらえる世界でやっていたのに、中学校に入ったとたん、ボールをもらおうとすると相手にガッとやられるようになり、そうしているうちに、怖くなって、受けられなくなって……。
──よくそこで考えられましたね。いろいろな人に相談したりしたんですか?
憲剛 いや、話していないです。自分で考えました。結局、「自分はサッカーが好きだ」ということを再確認して、中学2年で今度は学校のサッカー部に入りました。その時には、今度は自分のスタイルでやっていこうと思っていましたね。
──2年生から入ったのは、結果的にとても良い選択だったかもしれませんね。
憲剛 そうですね。対戦相手に3年生がいても、学年は一つしか違いませんから、小学校の時の感覚に戻れるというか。ただ、僕は府ロク時代に活躍したこともあって、東京ではそこそこ有名でしたから、学校のみんなも僕のことを知っていたんです。当時はそれが結構キツかったですね。「もう、今はみんなが期待しているような中村憲剛ではない」という事実が情けなくて。
──なんだか、漫画みたいな話ですね。それこそ、『キャプテン』(ちばあきお氏による野球漫画)みたいな(笑)。
憲剛 名門・青葉から転校してきた谷口、ですよね。いやいや、あそこまでの状況じゃなかったです(笑)。でも、とにかく、またサッカーをやれることが楽しくて仕方なかったです。別に強いチームでレベルの高い練習ができていたわけじゃなかったですけれど、ただただ、ボールを蹴るのが楽しかったです。
▷▷中村憲剛、乾貴士、細貝萌。サムライサッカーキング6月号では、日本代表を更に進化させる3枚の「切り札」それぞれのロングインタビューを掲載。とくとご覧あれ。