OB選手たちの現在――大谷圭志(元FC東京)「サッカーの世界を離れて大きな充実感を手にする毎日」

Jリーグサッカーキング6月号掲載]
Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、地元の群馬県伊勢崎市で美容関連用品の卸売業に従事する大谷圭志さん。ケガに苦しめられた5年間のプロ生活で、彼は何を学び、今の仕事に生かしているのか。セカンドキャリアへの想いに迫る。
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構成=Jリーグサッカーキング編集部
取材協力=Jリーグ企画部 人材教育・キャリアデザインチーム
写真=兼子愼一郎、新井賢一

高校サッカー界の有望株として変革期を迎えたFC東京へ

 彼のサッカー人生はケガとの戦いだった。

 だからFC東京、ザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)で計5年のキャリアを終えることになった時も、プロサッカー選手であることに対する未練は一切感じなかった。というよりむしろ、プロの世界に飛び込む頃からイメージしていたセカンドキャリアに対して、いいタイミングであるとさえ感じていた。「サッカー選手って、ある意味“それ以上”を見つけるのがすごく難しい仕事だと思うんです。日本代表と言っても、そこにたどり着けるのはほんの一握りの選手だけ。僕はずっと“それ以上”を見つけられなくて、正直なところ、自分のキャリアにはかなり早い時点から見切りをつけて、違う道を探るようになっていました」

 大谷圭志がサッカー界で脚光を浴びたのは、群馬の名門、前橋育英高校で冬の高校サッカー選手権大会を目指していた高校時代のことだ。

 チームには双子の兄であり、鹿島アントラーズやアルビレックス新潟でプレーした大谷昌司、さらにヴィッセル神戸や大宮アルディージャを渡り歩き、現在もアルビレックス新潟で活躍する坪内秀介ら将来を嘱望されたタレントがそろっていた。

 3年の冬、前橋育英高は高校選手権で優勝候補の一角に挙げられ、見事ベスト4に進出。しかしそのピッチに大谷の姿はなかった。県予選の決勝で左ひざ前十字じん帯を断裂する大ケガを負い、高校生なら誰もが憧れる大舞台に立てなかったのである。「キャプテンでもあったし、選手権に出られなかったことは残念でした。ベンチには入れてもらっていて、PK戦になったら出してくださいって言ってたんですけどね(笑)。ただ、その時はもう、気持ちを切り替えていた部分もあるんです。高校サッカーはサッカー人生における一つの通過点でしかないって。大会が終わるのを待って、すぐに手術しました」

 大ケガをする前の時点で進路はすでに決まっていた。U-18日本代表の中心選手で、高校サッカー界の有望株であった彼には、5つものJクラブからオファーが届いていたのである。熱烈な誘いの中から彼が選んだのは、「やっているサッカーが面白いと感じた」というFC東京だった。それも「自分で希望した」のだと振り返る。「ある遠征先で、テレビでやっていたFC東京の試合を見たんです。その時にすごく面白いサッカーをやっていると感じました。前橋育英高のスタイルに似ていたこともありますが、すぐに監督に話をして、練習に参加させてもらったんです」

 実際に練習生として参加してみると、上下関係を感じさせないFC東京のフレンドリーな関係が肌に合った。だから進路を決断するのも難しくはなかった。ただ、この時点で彼は、セカンドキャリアに対するイメージも膨らませていた。「こんなことを言うとガッカリされてしまうかもしれないんですが、正直なところを話すと、実は僕、プロになっても4年で辞めようと思っていたんです。大学に行きたいという気持ちも強かったんですが、高校の監督に相談したら、『大学はいつでも入れる。4年後にプロになれるとは限らない』と言われて決断しました。だから4年間、長くても25歳になったらサッカーから離れて、新しい仕事を始めようと考えていたんです。25歳から30歳の5年間で社会にもまれて、それ以降は一人の社会人としてやりたい仕事に就きたい。ずっとサッカー選手でありたいという気持ちは、僕にはありませんでした」

手応えをつかんだ草津時代に再び襲ってきた大ケガ

 前田和也、馬場憂太、近藤健一、尾亦弘友希、鈴木規郎。彼らは大谷と同じく、2002年にFC東京へ新加入した選手である。

 このシーズンのFC東京は、大きな転換期にあったと言える。2000年のJ1昇格で旋風を巻き起こし、7年間続いた大熊清体制が01年で終幕。新監督に原博実を迎えたチームは、培った実力を定着させ、さらに発展させるべく大掛かりな改革を進めた。新人選手の大量獲得も、そうした方針の一環だった。

 大谷はルーキーイヤーの大半をリハビリに費やし、秋になってようやく高校生活の最後に負った大ケガから復帰。しかし復帰後もなかなかチャンスを得られず、苦しい時間を過ごした。青赤の28番を背負った期間の公式戦出場記録はゼロ。プロの世界の厳しさを実感した。「あの3年間はすごく勉強になりました。毎日のようにトレーナーさんと一緒にいて、それまで考えたこともなかった自分の体のことをいろいろと知りました」

 とはいえ、プロになる前に設定していたサッカー選手としての自分のリミットは迫る一方だった。鹿島に在籍していた昌司から珍しく電話があったのは、まさにそのタイミングだった。「『ザスパからオファーが来てる?』ってメールがあったんです。その時は何も聞いていなかったので『来てない』と答えたんですが、1週間後くらいにクラブからオファーがあることを知らされて……。それからザスパの関係者が小平の練習場に練習試合を見に来てくれて、その試合でサイドバックに入っていた僕が、たまたま2アシストを記録したんです。ザスパの人はボランチの僕がサイドバックをやっていたことに驚いたそうですが、その試合が決め手となって正式オファーをもらいました」

 3年間で心の中に溜め込んだ「試合に出場したい」という強い思いも、地元・群馬のクラブであることも、彼の決断を後押しした。ケガも不安もなくなりつつあり、プロのサッカーに慣れてきたという手応えもある。舞台がJFLに“降格”してしまうことに対する戸惑いはあったが、限られたプロサッカー選手としての時間をピッチで楽しみたいという思いが気持ちの中で勝った。04年夏、彼は草津への期限付き移籍を決意する。「最高に楽しかったですね。ずっとワンボランチとしてプレーさせてもらって。FC東京で学んだ体のケアもすごく生きました。チームにはトレーナーが2人しかいなかったので、マッサージやアイシングなど、自分でできることは積極的にやって……。東京から草津に一人旅に出ているような感覚というか、自分で全部やらなきゃいけないなって。環境は厳しくなりましたが、自分の意識は高くなったと思います」

 J2昇格を目指して戦った04年はシーズン途中の加入ながら、13試合に出場して1得点。それまで感じたことのなかった充実感を覚え、自分がサッカー選手であることを強く実感した。ところがこの年の最後、J2昇格を決定する大事な一戦で、またしても大きなケガが彼を襲う。傷めたのは高校時代に負ったケガとは逆の右足。全治約8カ月と診断される重傷だった。「J2昇格が懸かった大事な試合だったんですよ。ケガをしたのは、ヘディングで競り合った後の着地でした。あの試合は『これでJ2だ』という気持ちで、ものすごいモチベーションでピッチに立っていたので、体がいつもより軽かったんです。自分ではものすごく高く跳んだ気がして、完璧なプレーだったんですが、着地が変な形になってしまって……。ただ、その瞬間はアドレナリンが出ていることもあって、どの程度のケガなのか全く分からなかったんです。ケガは残念でしたし、『またやってしまった』という思いと、どこか冷静に、『これが運命なんだろうな』と感じる思いもありましたね」

サッカーの世界を離れて大きな充実感を手にする毎日

 05シーズンの大半をリハビリに費やすことになるが、それでもザスパ草津は大谷との契約を更新した。最初に負傷した左足には先天的なひざ変形症があって復帰に時間を要したが、右足は順調な回復を見せる。しかし、彼に思うような出番が与えられなかった。

 万全なコンディションを取り戻したと思っていたからこそ、出場機会が巡ってこない状況を理解するのが難しかった。体は以前のように動くし、サテライトの練習試合ではゴールを決めることもあった。第34節東京ヴェルディ1969戦では司令塔マルクスの徹底マークを命じられ、自身でも「完璧に封じ込んだ」と語るほどの手応えと存在感を見せた。それでも彼がJ2のピッチへコンスタントに送り出されることはなかった。自らの置かれた状況を踏まえ、シーズン中盤から覚悟を決めていた。「ラストシーズンと決めて本気でやっていました。当初考えていた4年目のシーズンを越えて、もう一年だけ挑戦してみようと思ったんです。これでサッカー人生が終わりだと思っていたから、キャリアの中で最もいいコンディションを作ることができたと思います。でも、結果的には出場機会を得ることができなかった。そこが僕の限界だったんでしょうね」

 クラブから契約満了の通知を受け取って感じたのは、「やっぱりな」という気持ちだった。日本サッカー協会が発表する移籍リストに名前を載せることも断り、セカンドキャリアを歩み始めることを決意する。「タイミング良く叔父さんが経営する会社で仕事をさせてもらえるという話をもらったんですよ。大きな会社ではありませんが、ちょうど跡継ぎを探していたみたいでタイミングが合って。迷うことなく決断しました。僕は僕の人生を頭の中に描いていたし、サッカーの世界から離れて、いずれは自分の会社を経営したいという目標もありましたから」

 高校卒業後すぐにプロサッカーの世界に飛び込み、サッカーに明け暮れる毎日を過ごしていた大谷には、もちろんピッチ外における“社会経験”が圧倒的に不足していた。思い返せば、アルバイトをしたこともない。8時間労働を繰り返す毎日を過ごしたことももちろんない。社会人として求められる正しい敬語も分からなければ、マナーもルールもよく分からない。自分がいわゆる“世間知らず”であることを痛切に感じて、人生のリスタートを切る覚悟を固めた。というよりむしろ、若くして次の道に進むことを、この時の大谷は心から願っていた。

 入社した大谷美材で彼が与えられたのは、美容関連の用品を店舗に卸す“材料卸”の営業担当職だった。ヘアカラー剤、パーマ液、ハサミ、ドライヤーから、鏡や作業台といったアイテムまで、美容院や理髪店で使用する美材全般を、各店舗を回って販売している。「一年目はもう、右も左も分からずに走り回っていました。社長からは『恥をかいて来い!』と言われていたので、そのとおりに(笑)。大変でしたけど、楽しかったですね。新規の営業先に飛び込んで行ったり、そこでお客さんと話して関係を築いたり。商品のことも全く知らなかったので、毎晩、カタログを見て頭に叩き込んでいました。肉体が疲労するサッカーとは違って、精神的な疲労はものすごかったですね。でも、それが逆に充実感につながっていたという気もします。それに人と人との関係を築かなければ、仕事は増えていかない。そういう部分では自分に向いていると思っています」

 社長である叔父、大谷孝夫さんの言葉に従って、1年目は特に新規の飛び込み営業を積極的に行った。そうしてゼロからスタートした分、おそらく吸収も成長も早かったのだろう。営業と配達を兼ねて朝から得意先を回り、一日の仕事が終わるのは早くても19時過ぎ。営業先である美容室の経営者には同年代も多く、彼らの話を聞くのも、こちらから話し掛けるのも楽しい。サッカーの世界では出会うことができなかった人に出会えることも、自分にとって大きな刺激になる。「営業ですから、商品の魅力ももちろん大事。でも、やっぱり、仕事は人と人とのコミュニケーションで成り立っているんだと感じます。初めて会うお客さんもいますから、信頼関係を築くまでにはかなりの時間が掛かりますよ。でも、契約してもらえるまでの時間も楽しいし、喜びも大きい。相手に自分のことを伝えるため、営業先では積極的にキャラクターを出すようにしています」

 この仕事を初めて6年目。仕事の難しさや厳しさも十分に味わった上で、それでも自分の中で楽しさを感じながら仕事に精を出すことができている。担当エリアは群馬県全域と関東の一部地域にまで及ぶが、得意先が増えることが営業マンとして何よりうれしい。努力を重ねてきた成果として、売り上げも安定してきた。「社長にお願いして、今はお給料を歩合制にしてもらっているんです。そのほうがやりがいがありますから。自分の努力に応じて報酬がもらえる。そういう環境に身を置いて、今は楽しみながら仕事ができています」

 6年間に及んだプロ生活は、彼にとっては想像以上に長い時間だった。ただし、25歳で別の社会に飛び込むという当初の予定どおり、大谷は周囲の反対を受けながらもサッカーの道をあきらめ、全く異なる世界に飛び込んだ。ピッチへの未練が全くなかったわけではないが、それも次第に、今の仕事で感じられる充実感が忘れさせてくれた。振り返って思うことがある。「今の仕事を始めて分かったことがあるんです。プロの時は周囲の人や自分を支えてくれる人に対する感謝が足りなかったなって。プロであるというだけで、環境が良すぎると思うんです。だから僕は、自分の道を進むことができて良かった。今の仕事をさせてもらっていることに感謝していますし、大きな目標を持てるようにもなったので」

 大谷の言うとおり、プロになった誰もがピッチの上でその先の夢を追い続けられる訳ではない。サッカーを目いっぱい楽しみながらも別の社会に目を向け、目標を持つ。それもまた、サッカー選手としての一つのあり方なのかもしれない。「自分がプロのサッカー選手だったとお客さんに言うことは……基本的にないですね。最初の頃は、『それを武器にしたほうがいい』とも言われました。でもそれじゃせっかく新しい世界に飛び込んだのに、昔の自分で勝負しているみたいで嫌だったんです。でも、そうやって意地を張っていたということは、きっと僕自身も自分の気づかないところでサッカーに対する未練を持っていたんでしょうね。この仕事を始めて最初の2年くらいは、やっぱり心のどこかにボールを蹴りたいという気持ちが残っていたんだと思います。でもそういう気持ちを乗り越えることができたからこそ毎日の仕事が楽しい。自分自身の力で勝負できている実感がありますし、あの決断は間違いじゃなかったと思います」

 4月17日に誕生日を迎えて30歳になったばかり。「25歳から30歳の5年間で社会にもまれて、それ以降は一人の社会人としてやりたい仕事に就きたい」

 18歳の頃、頭の中に思い描いていた人生設計を、大谷は着実に歩いている。

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