[ワールドサッカーキング0606号掲載]
海外の舞台で確かな“足跡”を残し、日本サッカーをけん引し続ける男が語る世界とは――。
全力で毎日を生きていきたい
――2002年にレッジーナに移籍しましたが、セリエAの舞台はどういうものでしたか?
中村俊輔 あの時のセリエAは世界一でしたから、いい時期にイタリアでプレーしていましたね。下位のチームにいたからこそ、ビッグクラブと戦う手段が身につきました。
――いわゆる強豪と呼ばれるクラブに勝つすべというのは?
中村俊輔 それが難しいんですよ。3-6-1で完全に守り切ろうとするので、僕は使われづらかったです。だから、自分を変えなくてはいけないんです。速攻における最初のパサーになるか、受け手になるかとか。そこでは自分のプレーではないことをしなくてはいけません。でも、それをしなければ試合に出られませんから、多少はプレーの幅が広がったと思います。(エミリアーノ)ボナッツォーリという大型のFWの周りで、モリシさん(森島寛晃)のプレーをまねしてみたりしました。西澤(明訓)さんとのコンビはすごかったですからね。ただ、ゴールを狙おうと思っても、ロングボールを蹴ってしまうためボールが回ってこない。ボールをもらいに行こうとしても、イタリア人は敵を背負っている選手に出さないんですよ。そのうちボールを取られると「お前が弱い」と言われ、そういう印象がついてしまうんです。そういう意味では、自分が最も得意としないリーグで、生き抜くのは難しかったですね。3年目に(ワルテル)マッツァーリ監督(現ナポリ監督)になり、トップ下をやらせてもらって、自分の色を出せるようになりました。最後の何試合かは出られませんでしたが、手応えはありましたね。
――セルティックの環境やチームの位置づけはどうでしたか?
中村俊輔 全く逆でした。レッジョと違ってグラスゴーには本格的な中華料理もあるし、日本の食材も売っていました。毎試合5万人の観客が入りますし、チームメートがうまいから、毎試合勝てますしね。その中で、いいプレーを続けていないと試合に出ることができません。コンディションやメンタルを整えて、仲間の良さを引き出すためにいろいろしました。セルティック時代は、運もあったと思うし、チームメート、監督など、すべての面で、一番うまく回っていましたね。
自身が「合わなかった」と語るエスパニョール時代。日本人がスペインで活躍できない理由とは? 続きは『ワールドサッカーキング0606号』で!