[サムライサッカーキング 7月号掲載]
文●清水英斗
写真●Getty Images
《考えて走る》という言葉の真意とは?
『考えて走るサッカー』。これは2006年に日本代表監督に就任したイビチャ・オシム氏のサッカースタイルに付けられた標語である。現代サッカーは選手がたくさんの距離を走ることがベースであり、それも、やみくもに走るのではなく、チームが必要としている動きを効果的に発揮することで攻守に関わり続けなければならない。『考えて走る』とは、そのような現代サッカーに必要な要素を簡潔に示した言葉と言える。
しかし、サッカー解説者の金田喜稔氏は以前、その標語について次のようなことを言っていた。
「考えて走る、と言うけど、サッカーにはゆっくり考えるような時間はない。少なくとも攻撃の選手は、頭で考えるよりも身体が勝手に反応して、感覚でプレーするくらいでなければ間に合わない」。1980年頃の日本代表の中心選手として活躍したサイドアタッカーならではの実感だろう。
難しいのはサッカーというスポーツの即興性だ。パスを出すのか、ドリブルをするのか、シュートを打つのか。それを、いつ、どこへ、更に予備動作をどうするか。ここでは判断の質とともに、瞬時に答えを出すスピード感が求められる。僕らはリプレー映像を見ながら、「ああでもない、こうでもない」と議論をするが、選手にそのような時間は与えられない。サッカーは1秒遅れれば状況が一変する。わずか1秒の遅れが命取りになることもある。考えている暇はない、という金田氏の実感はもっともだ。
ところが、メディアが作った標語『考えて走る』には一つの誤解がある。日本代表でオシム氏の通訳を務めた千田善氏によれば、実際にオシム氏が選手の前で指導する時は、「考える」と「走る」が同じ一文になったことがないとのこと。つまり、考えることと走ることは別のプロセスであり、「走れ!」という時は単純に走りの量のみを求め、プレー中には頭でごちゃごちゃと考えることで決断力にブレーキがかからないように注意を払っていたそうだ。そして選手がリスクを負ったことの責任は監督であるオシム氏が取る。それによって選手の決断力を更に高めていた。つまり、この点に関して金田氏とオシム氏の考え方はむしろ近いものであることが分かる。
監督の指示を頭で考えて『正解』となるプレーを選ぶのではなく、普段から習慣として身体に染み付け、感覚的に体が勝手に反応するくらいでなければ、本当にプレッシャーのかかる場面では発揮できない。「考える」と「走る」は別のラインにあり、「考えて走る」とミックスされるべきものではない。これは重要なサッカーの原則と言える。
こなすだけに陥りがちな日本人
10年夏、ザッケローニ氏が日本代表の監督に就任する。イタリア人が構築するサッカー戦術の緻密さは世界一だ。以前、僕はユヴェントスで指導を学んだサッカー指導者、河村優氏(現在はアルテリーヴォ和歌山の指揮官)の監修の元、イタリアの指導メソッドをまとめた書籍を作ったことがある。自分の体勢、相手の体勢、身体の向き。そしてたった一歩のポジショニングにまでこだわり尽くす《イタリア流》の考え方。システムの運用方法も本当に細かい。イタリアでは4─ 2─ 3─ 1、4─ 4─ 2といったシステムの動かし方、対戦する相手のシステムとのかみ合わせのパターンが、システムごとに1冊ずつの書籍にまとめられているほどだ。戦術の指向性に違いはあっても、ほとんどのイタリア人監督は細かく戦術にこだわるものであると聞いた。
細かな手順、パターン、プレーの正解を徹底的に選手に仕込む《イタリア流》。日本代表の指揮をイタリア人に任せるのは歴史上初めてのことであり、その指導内容は新鮮さを伴って伝えられることもあった。
しかし、刺激が一巡した今、僕は徐々に大きくなる不安を抑えることができない。日本人のことは日本人が一番よく知っている。細かな手順を、『先生』に手取り足取り教えられた時、指導の落とし穴になるのは何か?
「(ザッケローニ)監督の戦術は細かいので、どうしても練習でやったことばかりが頭に入ってしまう。しかし、実際の試合では相手が思うように動かないこともある」(長谷部誠/ 13年3月カナダ戦)
「前半は3─4─3のシステムで、みんな窮屈そうにやっていた。メディアもそうだけどシステムに固執しすぎ。システムは何でも同じ。その話はやめたほうがいい」(本田圭佑/ 11年6月ペルー戦)
日本人の真面目なメンタリティーが欧州で高い評価を受けていることにも見られるように、日本人は上司たる監督の言っていることをキチンと遂行しようという意識がもともと強い。それ自体は素晴らしいことだが、ザッケローニ監督の細かい指示を処理することばかりに一生懸命になり、頭でごちゃごちゃと考えながらプレーすると、決断力が鈍り、判断に迷いが出やすくなる。つまり、頭と身体がお互いに悪影響を及ぼし合う状態『考えて走る』になってしまうのだ。
また、指示をこなす人間になれば、教科書どおりのプレーしかできなくなる。たとえば細かくレシピが整理された、至れり尽くせりの料理教室を卒業した人は、結局、レシピどおりの料理しか作れないだろう。たとえばデートプランが細かく整理された雑誌で予習した男性は、当日に雨が降るなどのアクシデントが起こったら、女性を楽しませる術を失ってテンパってしまうかもしれない。
カチッとはめられた答えを与えられることで、僕らは創意、工夫を面倒くさがり、安易な道にすがろうとする。言われたことだけをやり、自らが創造的な判断を下すリスクを恐れる。特にサッカーはチームスポーツなので、監督の意に大きく反するプレーをすれば、試合に出る機会を失う可能性もある。長谷部や本田のコメントには、監督が言ったことを消化し切れず、戸惑いながらサッカーをしているチームの様子が伺える。
イタリア流戦術レシピと日本人選手の相性はどうか
監督の戦術レシピが細かいことと、日本人選手の相性は果たしてどうなのか。どんなに質が素晴らしくても、戦術レシピに頭が支配され、個々のパフォーマンスが8割しか発揮できないのでは意味がない。それは僕の不安の種だった。
そんな時、『インテンシティー』という言葉が降ってきた。ブルガリア戦とオーストラリア戦に向けた記者会見の場で、指揮官の口から出た言葉だ。直訳すると『プレー強度』という意味になる。インテンシティーが高いという表現について、解釈は様々だが、基本的には選手が試合に120パーセント集中し、判断のスピード、球際の激しさなどの『強度』をフルに発揮する状態を指す。「このチームが良いのはインテンシティーが高い時」と指揮官は語る。細かい戦術レシピに振り回されているうちは、そのような境地にはたどり着けない。この言葉を、このタイミングで強調したことで、ザッケローニ監督自身が日本代表の現状をどのように捉えているのか。それが表れたのではないかと思う。
『ザックの指示を無視しろ』──。
もちろん、本当に無視をするべきと言いたいわけではないが、ピッチに入ればプレーヤーズファースト。自分たちの考え、判断、そして実際に対戦した感覚が優先される。02年の日韓ワールドカップでは、フィリップ・トルシエ監督がこだわったフラット3を、宮本恒靖を中心とするピッチ内の選手たちが自らの判断で崩し、宮本が一列下がってリベロになるようなやり方を実践した。
また、南アフリカW杯のデンマーク戦では、相手のロングボール戦術を予想して4─2─3─1でスタメンを組みながらも、試合が始まってみると予想以上に相手がバイタルエリアに縦パスを入れてきた。すると、すぐに遠藤保仁がカメルーン戦とオランダ戦で機能した、アンカーを置く4─1─2─3に戻すことを進言。これにより日本は安定感を増した。
W杯本大会など、いざという時には、それくらいの柔軟な決断力を生み出さなければならない場面が現れるだろう。言われたことを『こなす』だけの選手、細かい指示に振り回されている選手には、このような決断や進言はできない。
もちろん、本田、長谷部、遠藤、長友佑都など南アフリカW杯からの中心選手に関しては不安はない。問題はロンドン・オリンピック組など、ここ1、2年で代表に定着しつつある選手たちだ。彼らがザッケローニ監督の細かい指示を、いかに自分の中に『消化』するか。
例えば酒井高徳は、13年2月に行われたラトビア戦の段階では、「《今のは違ったな》と思うことはありますし、日本代表のコンセプトが全部身体に染み付いている感じではない」としながらも、次のように続けて語っている。
「例えば、逆サイドにボールがある時はもう少し絞るとか、身体の向きはこうというのは言われています。戦術としてやっていると受け止めているので、注意されたら吸収するという感じ。攻撃は自分のボールサイドだったら好きにやっていいと思うし、そこに関してはザックさんもそんなに言ってないです。指示しているのは動き方とかだけで、ボールを持ったら自分の好きなことをやっていいと理解しています」
チームのためにやらなければならない戦術の指示と、自分の個性を積極的に発揮して構わない部分を切り分けて考えている酒井高。このように監督の指示を自分の感覚の中に『消化』しようとする姿勢がなければ、昨年11月に途中出場したアウェーのオマーン戦で、岡崎慎司の逆転ゴールを演出した思い切りの良いドリブルの仕掛けは生まれなかったのではないだろうか。
規律の細かい組織に身を尽くしつつ、ピッチに立つ11人は自立したプレーヤーでなければならない。イタリア人監督と上手に付き合うことができるか。それがW杯までのキーになるのではないかと思っている。(了)