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なぜ柿谷はC大阪で“復活”できたのか――“早熟の天才”の成長物語

2013.07.28

<a href='なぜ柿谷はC大阪で“復活”できたのか――“早熟の天才”の成長物語'>https://www.soccer-king.jp/sk_column/article/125689.html</a>

なぜ柿谷はC大阪で“復活”できたのか。「自分を大きくして帰ってくる」と言い残して旅立った悩める天才。闇の中から自らを這い上がらせたのは精神的成長だった。
柿谷曜一朗
文=小田尚史 Photo by Getty Images サムライサッカーキング8月号掲載

 アンダー世代で見せた印象的な活躍により、早くから将来を嘱望されるも、セレッソ大阪のトップ昇格後はプロの壁に当たり、一度は自分を見失った。その後、期限付き移籍したJ2の徳島ヴォルティスで様々な経験を経て、プロサッカー選手としての自覚を取り戻し、古巣へ帰還。復帰2年目の今シーズンはクラブの象徴である背番号「8」を背負い、チームを初のタイトル獲得へと導くべく奮闘している。

 ここまで、柿谷曜一朗は実に起伏に富んだサッカー人生を送ってきた。栄光→挫折→復活。そのストーリーは既に語られ尽くされた感もあるが、現在の彼を語る上で、やはり2年半に及んだ徳島での経験は欠かせない。

 6月28日。C大阪の練習拠点である舞洲グラウンドに、現在徳島で強化部長を務めている中田仁司氏が現れた。彼こそ、“柿谷復活”への道筋を付けた人物である。練習後、2人は二言三言、言葉を交わすとがっちりと握手。中田氏について柿谷は、「昔から気にかけてもらっているお父さんのような存在」と語る。そして、「もう一度、サッカーの楽しさを思い出させてもらった。感謝してもし切れない」とも。

 2000年にC大阪のコーチとなった中田氏は、ほどなくしてユースの統括責任者にもなり、そこで中学時代の柿谷とも間近で接している。「紛れもなく天才。サッカーの感覚が身体に染み付いていた」と当時のプレーについて証言する。06年のU-17選手権(現U-16選手権)で、柿谷は日本を12年ぶりの優勝に導き、自身はMVPを獲得。更に翌年のU-17ワールドカップのフランス戦では、卓越したテクニックと思い切りの良さでハーフウェーライン付近からスーパーゴールも決めた。幼少期から優れた能力を見せ付けていた柿谷を知るがゆえに、中田氏は徳島の強化担当として、09年当時のC大阪で腐りかけていた彼に、救いの手を差し伸べることを厭わなかった。「運命的なものでしょうね」とも語る。獲得に当たっては「反対意見もあった」というが、「すべての責任は自分が持つ」という意思の下で迎え入れた。現在の柿谷の活躍については、「あのくらいやって当然。まだまだ能力を隠している」と評している。

徳島に移籍する直前の柿谷

 徳島での2年半を振り返る前に、移籍直前の様子も記しておきたい。今となっては伝説でもある、香川真司、乾貴士と揃って先発出場した09年第10節のカターレ富山戦の前は、「なぜ出られないのか、自分でも分かっている。活躍して信用を取り戻したい。2人とうまく絡みながら攻撃したい」と話している。結果はスコアレスドロー。「結果を出せなかったのは残念」と試合を振り返った。また、日本代表招集で不在の香川に代わって先発起用された第19節東京ヴェルディ戦前は、「“俺もいるで”というところを見せたい。得点が一番だけど、自分らしいプレーをしたい」と話したが、自身は無得点。「真司君が代表に行っている間も強いセレッソでいたかった。今日は得点に絡めなかったし、自分の持ち味も出せなかった」と悔やんだ。同年代である香川と乾が活躍して得点を量産していくのに対し、自身は出場もままならず、時折やってくるチャンスにも思うように結果を残せない。2人との間にある、目に見えない壁にもがき、苦しんでいた。09シーズンは練習に度々遅れてくることに対し、レヴィー・クルピ監督から公の場で苦言も呈されており、徳島移籍の最終的なきっかけになったとされるのも、6月8日の練習への遅刻だった(もちろん移籍には出場機会を増やす、という大きな目的もあったが)。皮肉にもそれは、前日の第20節ファジアーノ岡山戦にて、今シーズン3度目の先発で2得点を奪い、ようやく結果を出した矢先の出来事だった。2日後の10日、クルピは柿谷について次のように述べている。「セレッソを象徴する選手になるためには、プレーだけでなく、すべての面で高い意識を持たなければならない。今の曜一朗にはセレッソサポーターへの敬意が見られない。責任感のない行動はあり得ない。本人が一番よく分かっているだろう」

 柿谷本人は、「落ちるところまで落ちた。あとは這い上がっていくだけ。結果を積み重ねれば、また使ってもらえると思う」と話したが、徳島への期限付き移籍が発表されたのは1週間後の17日のことであった。クラブのプレスリリースを通して柿谷は、「サポーターの皆さんの期待に応えることができませんでしたが、徳島で一回りも二回りも自分を大きくして、セレッソで活躍できるような選手になって帰ってきたいと思います」とコメントを残した。

受け入れ体制抜群だった徳島

 柿谷が初めて徳島の練習に参加したのは、移籍発表翌日の09年6月18日。その日の取材ノートを読み返してみると、「楽しみと緊張の両方がある。(徳島の練習場は)キャンプをしているみたいな感じ(笑)」とある。「抱負は?」という質問には、「とにかく90分試合に出たい」とシンプルな回答が寄せられていた。また、本人の言葉以上に興味深かったのは、受け入れる周囲の体制だ。練習参加初日、柿谷はいきなり紅白戦のスタメン組に入った。システムは4-4-2でポジションは左MF。柿谷以外の中盤は、右MFに徳重隆明、ダブルボランチに倉貫一毅と青山隼、といった組み合わせである。その紅白戦で柿谷とプレーした感想について、3人は次のように語っている。「若いな、と(笑)。でも、若いけどサッカーをよく分かっている。技術はもちろんしっかりしている」(倉貫)「若いけどサッカーを知っている。センスがある。簡単にやるプレーとドリブルで突っ掛けるプレーを使い分けていた」(徳重)「セレッソしか知らない環境で育って、初めての移籍で不安もあると思う。溶け込みやすいような雰囲気を作ってあげたい」(青山)

 倉貫は持ち前のリーダーシップと高いプロ意識で、柿谷に大きな影響を与えた。徳重と青山は、「あいつが高校生の頃、セレッソで一緒にやっていた」(徳重)、「セレッソ時代に寮で一緒だった」(青山)と、柿谷とはC大阪で接点があった。ベテラン勢の深い懐と同世代のサポート。この両輪で、当時の徳島が柿谷を受け入れていたことが分かる。

 初めての紅白戦から2日後。第22節の横浜FC戦で、柿谷は早速、移籍後初先発を果たした。更に、出場するだけでなく先制点を挙げ、徳島での初得点も記録した。試合後は、「徳島をJ1に昇格させるために来たと思っている。それに、セレッソにも活躍している姿を見せたい」と複雑な心境を覗かせた。監督会見では、当時の徳島の監督であった美濃部直彦(現長野パルセイロ監督)が、「柿谷は起用するか否かで迷ったが、彼を紅白戦で見た時に、問題なくすぐにでも使えるというイメージが湧いた。積極的に使っていこうとする意思を周りの選手も感じてくれた。彼を受け入れてチームとして戦えて、結果も出せて、ホッとしている」と率直な胸の内を明かしている。

 柿谷の評価に関しては、「得点だけでなく、中盤でのプレーやトップで起点を作る能力、ラストパス、ドリブルなど、素晴らしい出来だった。ただ、彼自身もっともっとステップアップしなければいけない。そうなるために、評価するとともに、満足することなく私たちも彼をもっと高みへ指導していきたい。そして、周りももっと要求していくと思う。皆が彼の成長を楽しみにしている」と、温かくも決して甘やかさない姿勢を示した。

 柿谷は翌々節の第24節ヴァンフォーレ甲府戦でも得点を挙げた。それも決勝点という価値の高いゴールであった。この試合は、第23節FC岐阜戦の0-3という完敗を受けての試合であったため、試合前に美濃部はチームに厳しくカツを入れた。「自分達はまだまだ上手くない。もっと泥臭く、一生懸命走って、一生懸命ボールを追い掛けて、そこから生まれてくる何かを求めてやっていかなければならない。足先や小手先でやれるチームではない。ロッカーに帰ってきた時にクタクタで動けないくらいの状態まで走り抜かないといけない」。これはチームに対してのコメントだが、当時の柿谷には、そっくりそのまま自らに響いたであろう。

 かくして、徳島での選手生活が始まった。その期間は2年半にも及ぶ長期となったが、一つ言えるのは、すべてが順調であったわけではない、ということ。指揮官から、時に「危機感が薄れている」とスタメンを剥奪され、時に「チームの一員としてやるべきことをやれていない」と試合途中に交代させられた。09、10シーズンはチームとしても個人としても結果を残したとは言い切れない。

徳島での“精神的武者修行”

 本格的な変化の兆しを見せたのは11シーズン。監督から副将という役割を与えられ、チームもJ1昇格へ向かって邁進した年だ。シーズン終盤、彼から発せられるコメントは、精神的な成長がにじみ出るものばかりだった。そしてそれは現在の柿谷にも通じるモノだ。「昔は自分のことで精一杯だった。今は自分のプレーも大事だけど、チームが勝つために何ができるかを考えている。守備でブロックを作る時でも、自分が相手の前に立つだけでもプレッシャーになる。相手の攻撃を遅らせることがチームに役立つプレーにもなる。もちろん攻撃で自分のプレーを出して勝利に貢献することが一番だけど、それだけでもない。90分サボらず一生懸命にプレーすることが自分の幅を広げることにもつながり、チームの勝利にも貢献できる」「今は本当に充実している。徳島に来て、少しは大人になれたのかな。周りの選手やスタッフにも恵まれて、試合に使ってもらって、厳しいことも言ってもらって、時には気も遣ってもらって(笑)。選手として良いシーズンを過ごせている」「周りのスタッフ」の代表格である美濃部は、「自分が何か特別なことをしたのではない。曜一朗自身が変わった」と語るものの、09年の移籍直後から、「この地(徳島)で彼と仕事をすることになったのも何かの縁。のちのち、彼にとって徳島に来て良かったな、と思えるような経験にさせることが自分の役割」と親心を持って接し続けてきた。

 今回の原稿を執筆するにあたり、当時の徳島の取材ノートを読み返してみたが、愛するC大阪を離れざるを得なくなったことに対する苦しみ、徳島でプレーすることへの葛藤や、この地で得た充実感や責任感や感謝、そしてサッカーに向き合う純粋な喜びなど、柿谷は実に様々な感情に揺れ動いていたことが分かる。

 一方で、取材陣に対して、とげとげしく生々しい感情を剥き出しにしたこともある。それは、「人間形成だけが遅れていた」(中田氏)彼の、“精神的武者修行”とでも呼ぶべき体験だった。徳島に来たことで最も変わった部分について中田氏は、「気持ち。メンタルの持ちよう」だと話す。

 J1昇格を懸けて、目一杯戦った11年。「初めてシーズンが終わって休みたいと思った」(柿谷)。やり遂げた感覚が残った。間違いなく、これまでのサッカー人生のターニングポイントとなった一年だ。シーズン終了後の謝恩会では、サポーター一人ひとりに丁寧に対応する姿が印象的だった。その時点で翌シーズンの去就は発表されていなかったが、徳島を去るであろうことは誰もが予感していた。そのため、柿谷の前には長蛇の列ができていた。「徳島での最後のほうは、あいつ自身、レベルをJ2に落としてプレーしていた。セレッソに戻るか、海外に行くか」(中田氏)。選択の時は迫っていた。

C大阪復帰、そして成長

柿谷曜一朗
 機は熟した。12シーズン、柿谷は満を持して生まれ育ったセレッソに帰還した。「徳島ではプロの選手としてサッカーをすること、そして試合に出て勝利する喜びを改めて感じることができた。これからは大阪のピッチでセレッソのために全力で闘っていきたい」とC大阪サポーターに誓ったこの年。柿谷にとっては大きなドラマが待っていた。指揮を執っていたセルジオ・ソアレスが成績不振により8月途中で解任され、レヴィー・クルピの再任が発表されたのだ。一度は袂を分けたクルピとのまさかの再会。8月29日、クルピ監督が復帰して初の練習後、報道陣に囲まれた柿谷は、「しっかりプレーして、監督の要求に応えたい。タイミングを見て話もしたい。コミュニケーションは前にいた時よりも取れると思う。自分からも歩み寄って、レヴィーを尊重して話したい」と殊勝な態度で述べた。「徳島に行く前の自分は、結果がすべてのプロの世界で結果が出せなくてイライラしていた。今思うと恥ずかしい言動をしていたことも確か。真司君や乾君みたいに成功した選手もいるので、単に自分が未熟で幼かった。今の自分なら、もう少しクルピ監督ともうまくやれると思う」。C大阪復帰にあたり、そう話していた柿谷は、遠征先のホテルで通訳を交えてクルピとの対話の場を作り、過去のわだかまりを完全に解消させた。

 クルピの復帰初戦となった第24節アルビレックス新潟戦。決勝点を挙げてチームを勝利に導いたのは柿谷だった。試合後、決勝点について問われたクルピは、「特別な思いがゴールの瞬間によぎった。彼がプロ2年目の時に私が監督に就任したわけだが、言ってみれば、彼はかわいい息子。かわいい息子であるがゆえに、過ちを犯した時には正しい道に導く必要があった。今日のように一皮剥けて成熟したプレーを見せてくれて本当にうれしく思う」とコメント。公の場で両者のベクトルが同じ方向に合致した、歴史的な瞬間だった。

 今シーズンはC大阪の象徴である背番号「8」を背負う。シーズンオフには海外移籍も浮上したが、「森島さんから直接『8を付けてくれないか』と言われて、もう自分としては何も迷うことはなかった」とC大阪でのプレーを選択した。「8番を付けて、このチームで優勝を目指す」。並々ならぬ覚悟で迎えた今シーズン、彼のプレーは昨シーズン以上に輝き、ピッチ外でも責任感に溢れた言動が目立つ。以前、「サポーターに対する敬意が見られない」とクルピに叱責された姿は、もうどこにもない。

 放つ光が眩ければ眩いほど、陥る際の闇も深い。一度はドン底まで落ちた。そこから這い上がった今の彼に迷いはない。これから先のサッカー人生において、どのようなストーリーを紡いでいくのか。これまでの物語すら序章に過ぎなかったのではないか。そんなスケール感さえ、柿谷曜一朗というフットボーラーには漂うのだ。

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