[Jリーグサッカーキング9月号掲載]
Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、セレッソ大阪で2001年から2年間活躍し、現役引退後、文字どおり“キャリア”の仕事に携わりながらサッカー界とその外の世界を行き来する山内貴雄さん。旧キャリアサポートセンターの一員として働いたこともある彼だからこそ、見えてくる理想のセカンドキャリアとは――。
文=Jリーグサッカーキング編集部 写真=足立雅史
勝負の3年目を前に突きつけられた戦力外通告
学生時代の山内貴雄は、無名の選手と言っても過言ではなかった。それでも、プロの世界に飛び込みたいという希望、自分にもできるのではないかという自信だけは失わなかった。「大学時代は一般の学生と同じように普通の就職活動をしました。ただ、自分としてはJリーグにチャレンジしたかったので、ツテをたどって3つのクラブのテストを受けることができました。1つ目が大分トリニータ、2つ目が横浜F・マリノス。そして3つ目がセレッソ大阪。当時、セレッソのスカウトを務められていたネルソン吉村さんが関西大学リーグでプレーしていた私のことを知ってくださっていたので、3日間の練習に参加させてもらったんです」
山内はサテライトリーグの京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)戦に出場し、その日の内に“合格通知”を受け取った。「チャレンジしなければきっと後悔する」。そんな思いに駆られて行動に出た結果、勝ち取ったプロ契約だった。
プロサッカー選手としてピッチに立ったのはわずか2年間である。しかし彼の人生は、わずか2年でもJリーグの世界に身を置いたことで大きく動いた。山内は言う。「サッカー選手としての経験は、その後の社会人生活の大きな糧になっていると思います。やっぱりほんの一握りの人しかそこに到達できないプロの集団ですから、サッカー界の厳しさを経験していれば、どこにいっても大丈夫だと思いますよ」
関西学院大を卒業してセレッソ大阪の一員となった山内は、プロ1年目から多くの出場機会を得た。ルーキーイヤーの01年はJ1で20試合、Jリーグヤマザキナビスコカップと天皇杯でそれぞれ2試合に出場。不振を極めたチームはJ2降格を余儀なくされたものの、山内は開幕戦でスタメン出場を果たすなど期待のルーキーとしての存在感を存分に示した。「ルーキーと言っても大卒でしたから、1年目から試合に出場して当たり前という気持ちは持っていました。ただ、今振り返れば、プロの世界のレベルの高いサッカーについていくのに必死でしたね。学生時代から一対一の守備には自信があったのですが、それまでと同じ感覚ではボールを奪えなかった。当時ヴィッセル神戸にいたカズさん(三浦知良/現横浜FC)とは2度対戦してしっかり1点ずつ取られました(笑)。それから、名古屋グランパスのFWウェズレイの強さは衝撃的でしたね」
個人としてはJリーグで戦えるという手応えをつかんだ。ただ、チームは低迷の一途をたどり、J2降格を余儀なくされる。プロの世界の厳しさを痛感した1年だった。「チームがなかなか勝てなかったので、精神的にはキツかったですね。自分自身のメンタルをコントロールできていたかは分からないんですが、常に自分の持ち味は何なのかということを忘れずに、それから監督が何を求めているのかということを考えながらプレーしていました」
ところが、2年目の02年は出場機会が激減した。リーグ戦での出場は、故障の影響もあってわずか8試合。ピッチに立てない日々が続き、心と身体のコンディションを整える難しさに苦心した。プロの世界はピッチに立たなければ評価されない。選手としての自身の価値を見いだし、それを信じて努力し続けることも簡単ではない。山内もいつ出番が回ってくるか分からない不安に苛まれながら、それでも自らを奮い立たせた。「僕はもともとエリートではありませんし、高校、大学時代にも試合に出られない時期がありました。大切なのは、そういう時でも自分を信じてやるべきことをやり続けること。そうやって少しずつステップアップしてきたという自負がありましたから、ある意味、免疫のようなものはあったと思います」
不完全燃焼のままシーズンが終わり、チームは目標とする1年でのJ1復帰を成し遂げた。しかし山内には、戦力外通告という厳しい現実が待っていた。「自分の中では最初の3年が勝負と思っていたので、正直、まさかあのタイミングで戦力外になるとは思っていなかったですね。ただ、選手としてサッカーを続けたかったので、内心では落ち込みましたけど、『やらなければ!』と自分に言い聞かせて気持ちを切り替えました」
J2のクラブだけでなくJFLのクラブでもテストを受け、Jリーグ合同トライアウトにも参加した。しかし願った環境からのオファーは届かず、悩み抜いた末、山内はプロサッカー選手というキャリアに区切りをつけることを決断する。「葛藤はありました。サッカーを続けることはできたんですが、自分としてはどうしてもJリーグという舞台にこだわりたかった。応援してくださった皆さんへの申し訳なさもあって、なかなか難しい決断でした」
この決断を機に、山内のセカンドキャリアは始まった。
クラブスカウトから一般企業へ、積極的な行動がもたらした出会い
実質的な社会人1年目の職場として最初に籍を置いたのは、地元のJリーグクラブ、ヴィッセル神戸だった。「たまたまタイミング良く声を掛けてもらった」ことで得た仕事は、フロント業務の一環であるスカウトだった。当時の心境を次のように振り返る。「将来的に指導者になるつもりはなく、スポーツビジネスやクラブ経営に興味がありました。だから、そういった部分を体感できるスカウトの仕事は面白そうだなと。クラブの組織作りに関わることができるし、サッカー界のいろんな人と接点を持てるので」
そうした考え方は、自身がエリートではなく、あくまで地道にステップアップしてきた選手だからこそ持つことができたものでもある。「一般企業への就職活動もしましたので、ビジネスに対する興味は学生時代から持っていました。きっと、だから比較的スムーズに別の仕事に取り組めたんだと思います」
もちろん、選手としてピッチに立つことの未練を感じなかったわけではない。スカウトとしてピッチに足を運べば、「自分は何をやっているんだ」という気持ちを抱くこともあった。思い切って現役生活に別れを告げる決断をしたとはいえ、まだ若く、身体も動く自分がボールを蹴っていないことに違和感を覚えた。
スカウトとしての契約は1年で満了した。その理由は、「サッカー以外の業界にチャレンジしたいという気持ちが大きくなってしまった」こと。いつかビジネスとしてサッカーに関わりたいという強い思いを持ちながら、それでも一度離れることを決断した背景には確固たる理由がある。「サッカー界で過す10年と、別の世界で過す10年。いつかまたサッカー界に戻ることを想定した時に、後者の道を歩むほうが大きな力を発揮できるのではないかと考えました。当時の自分には何一つ武器がなく、一般企業に勤める友人と比較しても“出遅れ感”を感じざるを得なかった。そうした焦りのような感情があったことも事実ですね」
当時2?歳。山内は大学時代以来となる就職活動を開始した。先輩や友人、現役時代の知人に相談し、キャリアサポートセンターにも足を運んだ。一方、それまでに築いたコネクションに頼らず、転職支援サービスにも登録した。そうしたアクションがきっかけとなり、山内の進路は決まる。「現在勤める(株)リクルートキャリアが展開する転職サービスに登録しました。簡単に言えば、ここで相談に乗ってもらっているうちに、そのままこの会社に採用してもらうことになったということなんです」
新生活には大きなモチベーションを持って臨んだ。担当は法人営業。「企業の事業推進や事業拡大を“採用”を通じてお手伝いする仕事」に1年間没頭した。サッカーから離れて、未知の世界で仕事をすることには大きな不安もあったが、とにかくガムシャラに仕事と向き合うことができた。社会人としての新たな生活は、厳しくも楽しかった。「『自分でもできるんじゃないか』という根拠のない自信はありましたけど、やっぱり最初は大変でしたね。この仕事のことを何も知らないし、サッカー以外の社会で働くことが初めてだったので……。自分ができることと言えば、スカウトの時に覚えた名刺交換くらい。とにかく一般社会のことを知らない人間でしたから、とにかくガムシャラに仕事に没頭した1年という感じでした」
ところが意外にも早く、山内はサッカー界に舞い戻ることになる。「当時、会社の社会貢献活動や支援サービスの一環として、アスリートのキャリアを支援する事業を展開し、Jリーグや日本野球機構と提携したんです。そのタイミングで元選手である自分に声を掛けていただき、Jリーグのキャリアサポートセンターに出向することになりました」
わずか1年前、セカンドキャリアについて“相談する側”だった山内は、キャリアサポートセンターのスタッフとして選手からの“相談を受ける側”に回る。そこで再びプロサッカー界で生き残ることの難しさに直面し、同時に、将来的な不安を抱える選手たちをサポートする体制を整えること、その重要さを改めて認識した。「プロスポーツの世界に入ればすべてが自己責任という認識は昔からあると思います。ただ、そこから一度放り出されてしまうと誰も手を差し伸べてくれないという現実はあまりにも厳しい。逆に、セイフティネットのようなものさえあれば、思い切ってプロの世界に飛び込むことができるかもしれませんよね。そういう意味では、すごく意味のある仕事をさせてもらったと思います」“相談を受ける側”として多くの選手たちと接する中で感じたこともある。「当然のことかもしれませんが、サッカー選手はほとんどサッカーのことしか知らない。それがプロとしての姿勢であると思う反面、別の可能性が閉ざされてしまうことを残念に思うことはありました。より良いセカンドキャリアを構築するためにも、サッカー選手と、サッカー以外の何かをつなげる……そういう仕組が必要であると感じました」
いつかまた、サッカー界に貢献できるように
キャリサポートセンターでの出向は2年半に及んだ。契約を終えて再び(株)リクルートキャリアの一員となると、今度は横浜で法人営業に従事した。サッカーの世界から再び離れることで、掲げるビジョンもより鮮明になったという。「サッカー界とその他の世界を行き来させてもらったことで、現役を引退する時に興味を抱いていた仕事をひと通り経験させてもらうことができました。そのおかげで、『将来はサッカー、あるいはスポーツの世界にかかわる仕事に就きたい』というブレない信念を確立することができたんです。だからこそ、まずはこの会社でしっかり力をつけたい。そう思えたことが、何より大きかったですね」
現在の肩書きは、「株式会社リクルートキャリア 中途事業本部 第2営業統括部 東日本営業部 さいたま支社・千葉支社 営業マネジャー」。2つの支社の営業部署を統括するマネジャーとして多忙な日々を過ごしている。仕事は決して楽ではない。それでも、「自分がやりたいこと、自分がやっていることの意味を考えながら」仕事に没頭し、そうした日々の中で成長する自分を感じている。月に一度、会社の仲間たちとボールを蹴る時間が心地良く、たまの週末にはJリーグの観戦に足を運ぶという。「セレッソに対しては、引退して10年経った今だからこその愛着を感じますね。やっぱり、現役時代はつらいことのほうが多かったし、試合に出ることで必死でしたから。それまで、プレーで自己表現をすることでつけていった自信が、少しずつ打ち砕かれていくというか……。それでも、わずか2年間でしたけど、選手としてのキャリアはその後の人生に大きく生かされていると思います。もちろん、体力的な部分も含めて(笑)」
自身のセカンドキャリアについて、ブレない未来像もある。「頭の片隅には、常に『自分がもしサッカーに貢献できるとしたら』という考えがあります。いずれはまたサッカーに関わって、自分がやってきたことを還元したいですね。キャリア、教育、それから、選手たちの社会的地位を高めること……そういった分野に関わりたいという希望は頭の中にあります」
山内自身のセカンドキャリアも、まだその先に見据えた目標に向かう途中段階にある。ただ、サッカー界をあらゆる角度から見てきた彼だからこそ言える、現役選手へのアドバイスもある。「オン・ザ・ピッチはもちろんですが、オフ・ザ・ピッチを含めて、プロのサッカー選手としての価値を高めることに力を注いでほしいと思います。本当にそこで全力を注ぐことができれば、その後の道はいくらでも開けると思う。Jリーグの歴史は20年。今、社会には本当にたくさんのJリーグOBがいらっしゃいますからね。選手としての自分の価値を高めるための努力を惜しまなければ、誰かが必ず力になってくれると思います。だから、大切なのは現役生活を思う存分満喫すること。それから、引退を決意したならしっかりと踏ん切りをつけて、覚悟を決めること。そして、多少後ろ髪を引かれながらでも次の道に進むこと。そうしたプロセスを踏むことができれば、セカンドキャリアでどんな仕事に就いたとしても“元プロ選手”は強い。僕はそう思いますよ」
自分の価値を探し求め、それを高めようと努力すること。そうした姿勢を崩すことなく、山内は自らがイメージするセカンドキャリアと向き合い、道を切り開いている。
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