[Jリーグサッカーキング 2014年4月号掲載]
Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、ヴィッセル神戸を含む6つのクラブでプレーしたボランチ、佐伯直哉さん。現在はサッカースクールでの子どもたちへの指導、さらに飲食店の経営にも乗り出している彼に、サッカーへの熱い思いとセカンドキャリアに対する考え方を聞いた。
文=細江克弥 取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム 写真=新井賢一、Jリーグフォト
大学ナンバーワンMFに突き付けられた厳しい現実
1977生まれの佐伯がJリーグの開幕を目の当たりにしたのは、彼がヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のアカデミーに在籍していた高校1年の頃だった。
「でも、初めて“プロ”を意識したのは、確か小学生の頃だったと思うんですよ。たぶん、日本リーグがプロ化するという話を耳にしたんだと思います。両親に『プロって何?』と聞いたら。『サッカーをしてお金をもらうこと』と言われて、『なりたい!』と言ったことを覚えています」
佐伯は中学入学と同時に、ヴェルディの前身である読売クラブのジュニアユースに加入。トップチームは日本リーグ時代に日産FC(現横浜F・マリノス)と人気を二分した強豪で、ラモス瑠偉や三浦知良ら屈指のタレントを擁するスター軍団だった。ジュニアユースからユースへと年齢を重ねるにつれて「トップチームでプレーしたい」という思いは高まり、93年にはU-17日本代表に選出されるなど順調な成長を遂げた。
「でも、ユースからトップには上がれませんでした。それが分かった時に監督やコーチと相談して『大学の4年間で力をつけて、それからまたプロにチャレンジしよう』という話になったんです。それで国士舘大に行くことになりました」
U-17日本代表まで経験した佐伯が、なぜトップチームに上がれなかったのか。そう問いかけると、今だからこそ口にできる答えが返ってきた。
「勘違いしてしまったところもあったんです。U-17の代表に入ったと言っても試合に出場することはなかったのに、自分が評価されていると勘違いしてしまったんですよね。正直、『このままやっていればプロになれる』という思いもありました。今になって思えば、あの頃の僕なんて何者でもなかったんですよね」
どんなに才能に恵まれた選手でも、努力し続けなければプロへの道は開けない。実感を持ってそう言える今だからこそ、「努力や“プラスアルファ”の部分が足りなかったと思う」と自己分析できる。トップレベルにまで上り詰めた選手たちは皆、自分に厳しく、飽くなき向上心を持ってサッカーと向き合っていた。当時の自分には、そうした姿勢が足りなかったと思える。
しかし国士舘大での4年間は、佐伯のサッカーに対する意識を変えた。4年時には「大学サッカー界ナンバーワンのボランチ」として、Jリーグ各クラブのスカウトからも注目される存在となる。
「大学4年の春に監督に呼ばれて、『ジュビロ磐田から話が来ている』と言われました。スカウトの方が大学の先輩だったこともあって、話はスムーズに進みました。他のチームに入ることは考えていませんでしたね」
迎えた2000年、佐伯は当時“黄金時代”を迎えようとしていた磐田に加入する。しかしようやく飛び込むことができたプロの世界には、想像を超えるほどの大きな壁があった。
「いやあ、もう、あの頃に感じた“壁”の高さはハンパじゃなかったですよ(笑)。磐田には当時の代表選手がズラリといて、その壁を破ることができなくて苦しかった。サッカーを学ばせてもらっていることはものすごく実感したんですけど、選手としては全く通用する気がしなかった……。大学で結果を出すことができて、ある程度の自信を持って磐田に行ったんです。でも、全然ダメでした」
本人の感覚では、「すべて」が異次元の世界だったという。プレーの質、考えてプレーする力、身体能力……。そのすべてにおいてポジション争いのライバルに劣っていると感じ、厳しい現実を思い知らされた。
「特に名波(浩)さんからは影響を受けましたね。初めて一緒にプレーさせていただいた時は衝撃的でした。プレーもコーチングも、すべてにおいて質が違う。決して身体能力が高いわけじゃないのに、あれだけ高い質でプレーできるわけですから、プレーヤーとしても人間としても、すごく大きな影響を受けました」
結局、磐田での出場試合は2年目の1試合にとどまり、シーズン途中にはヴィッセル神戸への期限付き移籍を選択する。当時監督を務めていたのは、ヴェルディユース時代から知る川勝良一。その縁も手伝って、佐伯は神戸から届いたオファーを二つ返事で受けた。大卒でプロになった自分は、本来、“即戦力”でなければならない。それでもほとんど出場機会を得られない現実を脱却するため、新天地に向かった。
「それまでのキャリアで試合に出られないということがなかったので、スタンドで試合を見ることが当たり前になってしまうことがイヤでした。『このままじゃダメだ』とすごく強い危機感を持っていました。やっぱり、サッカーのストレスはサッカーでしか発散できないんですよね。だからどうしても、環境を変えて挑戦したかった。神戸には、かなりの覚悟を持って行きました」
01シーズン途中に加入すると、即座に定位置をつかんでリーグ戦10試合に出場した。翌02シーズンは23試合に出場して2得点。磐田時代に溜め込んだピッチに立てないストレスを徐々に発散し、神戸の中心選手としても存在感を増していった。ところが03シーズン、磐田からの完全移籍によって心身ともに神戸の一員となったシーズン開幕直後に、思わぬアクシデントに見舞われる。
「第2節だったと思います。当時のウイングスタジアム(現ノエビアスタジアム)。前十字靭帯を断裂してしまって、そのシーズンの大半を棒に振りました。ピッチに立てたのがシーズン終盤だったんですけど、それからケガが続くようになって、常にどこかに痛みを抱えている状態でしたね」
サッカーのストレスはサッカーでしか発散できない。しかし今度は正々堂々と勝負した結果ではなく、ケガという不運によってピッチに立つことを阻まれた。リハビリに耐える時間は、想像よりも長かった。
簡単には受け入れられなかった現役引退の決断
04シーズン、故障から復帰した佐伯は12試合に出場し、翌05シーズンは30試合に出場した。しかしこの年、チームはJ2への降格を強いられる。相次ぐ監督交替によってチームのスタイルを確立できず、改革の成果が結果に表れない日々はピッチに立つ選手としても歯がゆい。シーズンを通して試合に出場し続けた分、自分の力のなさとサポーターに対する責任感も強く感じた佐伯にとって、この年は「最も難しい1年」だった。
しかしキャリアを通じて最も長く在籍した神戸は、佐伯にとって最も思い出深いクラブの一つである。
「あれだけ試合に出場させてもらったこともありますし、初得点も神戸時代でしたからね。本当にギリギリでJ2降格を免れたシーズンもありましたし、選手もみんな個性的で、刺激的でした。スゴい選手もいましたよね。カメルーン代表の(パトリック)エムボマとか、トルコ代表のイルハンとか。それから、何と言ってもカズさん(三浦知良)。読売クラブ時代からの憧れの存在だったので、一緒にプレーできたことがうれしかった。オンとオフの切り替えや試合に向けた準備、そういう部分でものすごく強い影響を受けました。もちろん、サポーターの皆さんにも感謝の気持ちしかありません。あれだけ難しい時期をともに戦ってくれて、ものすごく大きな気持ちをもらいましたから」
だからこそ、05シーズン限りでチームを去る決断は難しかった。しかしJ1でプレーしたいという気持ちを、自分の中で抑えることができなかった。
「すごく悩みました。自分の不甲斐なさでチームを降格させてしまったという気持ちもあったし、アツさん(三浦淳寛)にも『一緒に神戸でやろう』と声を掛けてもらったので……やっぱり、葛藤はありましたね」
それから佐伯は、大宮、福岡、千葉を経て2010年に自分の原点とも言える“古巣”東京ヴェルディに復帰。ここで3シーズンを過ごし、12シーズン限りでの引退を決断した。選手としていつまでもピッチに立ち続けていたかったが、13年間のキャリアで蓄積した疲労と故障によって、体はボロボロだった。
「やっぱりその……自分の中ではケガの影響が大きかったですね。本当はケガを理由に引退するのがイヤだったんです。でも、正直、あれ以上プレーし続けることはできなかった。最後のシーズンはほとんどリハビリに費やす状態で、基本的にはチームと別行動。どれだけ準備をしてもうまくいかなくて、これはちょっと、プロとしてはもう難しいかなと」
自らの素直な気持ちだけに従うなら、引退という決断を受け入れることはできなかった。しかしケガを抱えている自分を冷静に客観視すれば、これ以上続けられる状況ではないことはすぐに分かる。初めて「引退」の2文字が頭に浮かんでから、自ら口にするまで2カ月。時を同じくして「第一線を退く」ことを発表した中山雅史と同様に「未練タラタラ」だった。
「一番最初に、奥さんに相談しました。きっと、彼女も薄々感じていたんだと思います。泣きながら『お疲れさまでした』と言ってくれて……。その時のことを思い出すとダメですね。今でも泣いちゃいます(笑)」
そう言って涙ぐむ佐伯の姿を見れば、彼にとって現役引退の決意がどれほど重かったか想像できる。
常に不安と隣り合わせ、それでも前を向いて歩く
引退後のセカンドキャリアについては、それまでほとんど考えたこともなかった。自分が何をしたいのか、どういう人生を歩みたいのかについても明確な青写真はない。サッカーに携わっていたいという気持ちを頼りに、友人や知人に相談した。
「セカンドキャリアに対する恐怖心はありました。というか、もちろん今もあります。何が自分に向いているのかも分からないし、何がやりたいのかも明確には分からない。ただ、磐田でチームメートだった藤田俊哉さんと話す機会があった時に言っていた事は『誰だってそうだよ。何が向いているかなんて俺だって分からない』と言っていて、それを聞いて少し落ち着きましたね」
とにかくサッカーに携わっていたい。そんな思いから、指導者としての経験を積むことにした。13年の年明け早々には友人のサッカースクールでアシスタントを務め、子どもたちとともにボールを蹴る日々を過ごす。2月には国士舘大の先輩である金沢浄(ザスパクサツ群馬)が代表を務める「JO FUTSALBASE IRUMA」(埼玉県入間市)でスクールのメインコーチを務め、約1年、指導の基本を学びながら、子どもたちにサッカーの面白さを伝えてきた。
「指導は難しいですね。スクールに来てくれる子どもたちは様々で、ボールを蹴ったこともない子もいれば、クラブチームに入っていてすごくうまい子もいる。そうした環境で、時間配分やトレーニングメニューを考えるわけですから。この子にはインサイドキックを教えなきゃいけない。でもこの子には難しい技術を教えなきゃいけない。そういう中で、子どもたちみんなにサッカーを楽しんでもらうことって、やっぱり難しいですよ。ただ、自分が経験したことを伝えていくのが役割でもあるので、試行錯誤しながら子どもたちと接しています」
もっとも、1年間指導に携わってきたことで「楽しみ」も見いだせるようになってきている。自らも子を持つ親であるからこそ、コーチとして、子どもたちの成長を目の当たりにできる喜びは大きい。その成長度に見合ったトレーニングを考え試行錯誤しながら実行することにも充実感を得られるようになった。
指導の傍ら、13年11月には共同オーナーとしてイタリアンバー『diario』(東京都小金井市/武蔵小金井駅すぐ)をオープンさせた。
「友人のつながりでこういう機会をもらえることになって、挑戦という意味でもやってみようと思いました。ただ、僕は経営のシロウトだし、飲食店で働いたこともありません。サッカーコーチとしての生活の軸は変わりなくやらせてもらっているので、本当にみんなの理解と協力がないとできません。やらせてもらっていることに感謝です」
サッカースクールのコーチと、イタリアンバーの共同経営者。二足のわらじを履くセカンドキャリアは順調に見えるが、本人はどう感じているのだろう。
「いつも不安と隣り合わせですよね。引退してから1年くらい経ちましたけど、いまだに何が自分に向いているのか、自分が何をやりたいのかは見えてこない。でも、きっといろんなことにチャレンジしていれば見えてくると思うんです。僕一人じゃ何もできない。本当にありがたいことに、たくさんの人に支えてもらっているなと感じますね」
これからどんなセカンドキャリアの“続き”が待っているかは、本人にも分からない。ただし、自分の中でサッカーに対する情熱が消えないことだけは分かる。
「指導に関しては、今はまだ基本を伝えることに専念しています。もしかしたら、勝負の世界に戻りたくなるかもしれませんね。そうなったら指導者として勝負の世界に身を置いてみたいし、そのための準備はしておきたいです。こうやって飲食店の経験も積ませてもらっているので、もちろんそれも活かしたいですよね。全国展開? いやいや(笑)。ただ、何をやるにしても自分の持っているエネルギーを全力で注げる何かを焦らずに見つけたい」
今もなお持ち続けているサッカーへの情熱は、これからどこへ向かうのか。佐伯のセカンドキャリアは、まだ始まったばかりである。
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