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OB選手たちの現在――杉本倫治(元セレッソ大阪)「現役中はサッカーのことだけを考えてやったほうがいいと思います。そうでないと、きっと後悔してしまうことになると思う」

2014.11.21

[Jリーグサッカーキング 2014年11月号掲載]

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、2000年から3年間セレッソ大阪でプレーし、現在は大阪市消防局に勤務する杉本倫治さん。C大阪、甲府、横浜FCと渡り歩いた彼は、どのようにして現役引退を決断し、どのようにセカンドキャリアを選んだのか。その心の内に秘めた思いを聞いた。
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文=Jリーグサッカーキング編集部
取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム
写真=安田健示、Jリーグフォト

コンバートを機に切り開かれた道

 杉本倫治が奈良県立耳成高(現・畝傍高)からセレッソ大阪に加入したのは、2000年のことだった。

「高校の監督が当時のセレッソの強化部長と知り合いで、加入テストのようなものを受けさせてもらいました。その時にたまたま調子が良かったこともあって、取ってもらえることになったんです」

 テストは練習試合の場で行われた。杉本はセレッソの対戦チームに飛び込みで加わり、実力を評価されてチャンスをモノにする。しかし、そこは子供の頃から憧れていたプロの世界である。当時のセレッソには日本代表に名を連ねるそうそうたるメンバーが在籍していたこともあり、力の差は歴然としていた。

「森島寛晃さんや西澤明訓さん、西谷正也さんなどタレントが揃っていた時代でした。しかも加入した当初はFWだったので、西澤さんとポジションがかぶってしまったこともあって、なかなか試合には出られませんでした」

 転機が訪れたのはプロ2年目のこと。当時の指揮官である西村昭宏は、杉本を左サイドMFにコンバートした。「当たりが弱く、ポストプレーが苦手だった」というウィークポイントはプレッシャーの弱いサイドへ主戦場を移したことで軽減され、逆に走力と左足の精度というストロングポイントが評価されるようになった。

「全く試合に出ていなかった僕を使ってくれたことに驚きました。でも、そこである程度の結果を残すことができましたし、自信につながりました。もっと試合に出たいと思うようになりましたね」

 ポジションの転向を機に急成長を遂げ、02年にはトゥーロン国際大会に臨むU-21日本代表に選出された。出場機会こそなかったものの、松井大輔(現ジュビロ磐田)や阿部勇樹(現浦和レッズ)らとともに日の丸を着け、翌年に開催されたカタール国際大会のメンバーにも名を連ねた。日本代表の一員としてピッチに立ったのは、予選リーグのドイツ戦である。先制点を挙げるなど勝利に貢献した杉本は、この試合のマン・オブ・ザ・マッチに選出された。

「3週間くらいカタールにいたのですが、やっぱり日の丸を着けて戦うことの重圧はすごいなと感じました。『お前らは何十人もの選手たちの思いを背負っているんだぞ』と言われて、一気に気が引き締まりましたね。そういう中で戦って、恥ずかしい試合はできない。だから、代表でずっとやっている人はすごいなと思いました。正直、これが1年続いたらしんどいだろうなと感じましたから」

 とはいえ、初めて海外の選手と対戦したことで、自身の能力をより高めたいという意欲も高まった。そのためには、とにかくJリーグで試合に出続けなければならない。そう考えた杉本はクラブに移籍を申し出た。

「カタールで試合に出て感じたのは、練習だけでは全く伸びないということでした。セレッソでは試合に出られない状況が続いていましたから、期限付き移籍でもいいから挑戦させてほしいとお願いしました」

 ヴァンフォーレ甲府への期限付き移籍が決まったのは03年月のこと。1年後には目標としていたアテネ五輪の開幕が迫っており、「Jリーグのチームでプレーすることができれば、チャンスは残されている」とこの移籍を前向きに捉えた。当時J2に所属していた甲府の選手層はセレッソほど厚くなく、望んでいた実戦経験を積み重ねることも期待できる。しかし、結果的にはここでもチャンスを得ることができず、控えに甘んじる日々が続く。

「全く試合に出られませんでした。原因は明らかで、甲府の気候にうまく対応できなかったんです。特に夏場は大阪と比べてものすごく暑くて、全くと言っていいほど動けませんでした」

 結局、甲府でリーグ戦に出場したのはわずか3試合のみ。半年間の期限付き移籍が終了すると、所属先のセレッソからは契約満了という形で事実上の戦力外通告を受けた。とはいえ、彼自身はすべてを悲観的にとらえていたわけではない。心の中にはサッカーを続けたいという強い気持ちがあり、引退という選択肢が頭をよぎることもなかった。その気持が通じたのか、結果的にはJ2の横浜FCからオファーを受け、迷うことなく契約書にサインする。

妻のひとことで決まったセカンドキャリア

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 アテネ五輪への出場は叶わなかった。それでも、横浜FCではコンスタントに試合に出場し、順調に実戦経験を積み重ねた。1年目の04年はリーグ戦28試合に出場。しかしようやく自身のキャリアが軌道に乗り始めた矢先、左ひざじん帯の炎症というケガに見舞われてしまう。長距離のダッシュをすると足が張り、思うように動かなくなるという感覚に襲われた。

「ずっと試合に出させてもらっていたのですが……。痛みが出てからは思うようにプレーできなくなって、必然的に出場機会が減ってしまいました」

 さらに悲劇は重なる。今度は右足の「すね」の疲労骨折という診断を下され、半年間の離脱を強いられることになった。

「おそらくプレー中の接触で、ヒビが入っていたんです。痛みを我慢してプレーしていたので、そこに力が加わって治らないような状態でした。どこでヒビが入ってしまったかは分かりません。痛みがずっと続き、おかしいなと思ってレントゲンを撮ったらそういう状態でした」

 戦列に戻っても痛みが完全に消えることはなく、出場機会は完全になくなった。1試合もプレーすることのなかった05シーズン終了後、自身二度目の戦力外通告を受けた。

 それでも、すぐには現役生活を諦めなかった。

「まだまだJリーグでやりたいという気持ちは強かったですね。ただ、当時すでに結婚していて、子供もいました。生活できるだけの給料をもらえるのであればJリーグで現役を続行する。Jリーグ以外のクラブであればやめる。その2つのどちらかと考えていました」

 左ひざじん帯の炎症は回復していたが、右足の痛みからはいつになっても解放されなかった。その痛みと戦いながら合同トライアウトに臨んだが、彼のキャリアをつなぐオファーは届かなかった。

「合格者はその場で声が掛かるか、少ししてから声が掛かる。でも、1週間くらい待っても連絡がなかったので、このタイミングで気持ちを切り替えました」

 2005年、杉本は6年間の現役生活に終止符を打った。まずは“充電期間”として故郷の奈良県に戻り、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めた。

「とりあえず何かをしながら次のことを考えようと思いました。アルバイトをしながら嫁さんとゆっくり考えましたね。今まではずっとサッカーをやってきたので、次はサッカーとは全く関係のない職業がいいと思っていました」

 若くして現役を退いた“元選手”が、そのままサッカー界に新天地を求めることは珍しくない。Jクラブの育成組織やサッカースクールのコーチなど、培ってきたスキルを活かす場は少なからず存在する。

「僕は小さい頃からサッカーだけしかやってこなかったので、違う世界を見てみたいという気持ちがありました。ただ、やっぱり何か体を使う職業がいいと思って、自衛隊や警察官という職業も考えました」

 転機となったのは、人生のパートナーの一言だった。

「嫁さんが『消防士はカッコ良くていいんじゃないの』と言ってくれて。その言葉をきっかけに、消防士について調べ始めたんです」

 消防士になるための試験を受験することを決心してからの半年間は、専門学校に通って必死に勉強した。もともと勉強することは嫌いではなかったがそれでも専門学校に通った理由は、他にある。

「面接を受けたことがなかったので、どういうものなのか全く分からなかったんです。論文の書き方も全く分からなかったので、独学ではなく、学校で教わるほうが正しいと考えました」

 半年後、努力の成果が報われ、見事試験に合格した。年齢制限のため、希望した奈良県内の消防局の受験はできなかったが、大阪市消防局から合格通知を受けた。そうして実家に最も近い大阪市消防局をセカンドキャリアの舞台として選んだ。

努力を重ね、救急救命士の資格を取得

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 初めは目標としていた消防士からキャリアをスタートさせた。しかし、一つの出会いを通じて、その目標は“救急救命士”へと変わっていく。

「初めは消防士の中でも救助隊が身につけるオレンジ色の服が、一番目立つしカッコいいなと思っていました。でも、消防学校に入った時に救急救命士の教官が、ものすごく教え方がうまかったんです。いろいろな話を聞かせてくれて、ものすごく感銘を受けました。もともと僕は、医療関係の話に興味を持っていたこともあって、話を聞いているうちに“救急”に関わりたいと思うようになりました。救急車に同乗して現場に関わるようになったのは、しばらく経ってからのことです」

 もっとも、当時は救急救命士の資格を所持していたわけではない。

「救急救命士の資格を取るためには、救急救命士養成所に入って半年間勉強し、さらに国家試験に合格する必要があります。そうした過程を経るための選考試験が毎年あるのですが、初めの1、2年は、必要となる実務経験が足りていないので、その試験を受ける資格がありません」

 大阪市消防局に入って4年後の2011年、杉本は救命士の資格を取得する。しかし、新たな目標として掲げた“救急救命士”となるには、大きな努力が必要だった。

「この資格を目標とする人がたくさんいるので、内部の選考試験をパスしなければなりません。筆記試験なのですが、勉強できる環境を見つけるのに苦労しました」

 それでも空いた時間を見つけては勉強に励み、高倍率の試験を突破した。憧れの救急救命士として活動する一番のやりがいをこう話す。

「救命現場で傷病者の方と接し、病院に搬送する時に『ありがとう』と言っていただけると、やっぱりやりがいを感じます。心臓が止まって呼吸も止まっているような方を病院に搬送し、その後に社会復帰されたことを聞くと本当にうれしい。人命救助にかかわりたいという思いから救急救命士になりましたし、助けられる可能性のある人を助けたい。そうした思いが、やりがいになっています」

 もちろん、苦しい場面に直面することもある。

「救急現場では、中には病院に行きたくないという方もいます。そういった方をどう説得して病院に搬送できるか。実際に説得できずに病院へ搬送できなかったこともあります。他にも受け入れ先の病院がなかなか決まらないこともありますし、そういったところがすごく難しい。この仕事には、すごく高度なコミュニケーション能力が求められるのではないかと考えています」

 困難な状況があるからこそ、その先にやりがいを感じることができる。そのような救急の現場で、長年続けてきたサッカーの経験が活きることも少なくない。

「チームプレーの重要性は感じます。救急車は3人が、消防車は4人が一つの部隊となって動くわけですから、その中でバラバラのことを考えていたら良い活動はできません。みんなが同じ方向を向き、同じ目標を目指して活動する。サッカーもチームとしてどれだけプレーできるかですよね。そういうところはすごく共通していると感じます」

 知らぬ間にサッカーから重要な気づきを得ていた杉本は、現役時代のセカンドキャリアとの向き合い方について「僕自身は全く考えていなかった」と前置きしつつ、こう話した。

「もしセカンドキャリアが不安なのであれば、時間はたくさんありますから空き時間に資格を取るようなことをしておくとすごく役立つのではないでしょうか。せめて僕みたいにサッカーと関係のないことをしたいのか、サッカー関係で仕事を続けたいのかという方向性だけでも考えていたらいいとは思います。ただし、現役中はサッカーのことだけを考えてやったほうがいいと思います。そうでないと、きっと後悔してしまうことになると思う」

 ちなみに、現在も“古巣”との関係は途絶えていないという。

「セレッソから救命講習を受けさせてほしいという連絡があり、僕が行くことになりました。少しでもセレッソのプラスになれば、それ以上にうれしいことはありません。そうした関係を、これからも続けていくことができればいいと思います」

 自身のこれからのキャリアについては、次のように思い描いている。

「できる限り、救急救命士として救急車に乗り続けたいですね」

 最後に彼が何気なく発した一言は、彼が救急救命士である事実を雄弁に物語っていた。

「救急時の出動指令の音と似ている音があるんですよ。トラックのブレーキ音はそうですね。あれを聞いたらドキッとします。『行かな!』って」

 国の代表としてプレーすることの重みを知り、サッカー選手としてより一層の成長を誓った。その道のりは志半ばで途絶えたが、日常と切り離せないほど密接な、新たな活躍の場が杉本にはある。

 日の丸を着けることの責任を感じていた青年は、今、人命を任される責任と向き合って日々を過ごしている。

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