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宇留野純(UBON UMT UNITED)|神という名の光に照らされて~癌と闘う決意をもってピッチに立つ~

2015.04.04


文●川本梅花

「いまは、我慢をして何かをやっていれば、何か報われることがあると思える時代ではない。そんな時代だからこそ、こうした内容のものが必要とされるんじゃないかな」

 この言葉は、今から6年前の2010年に、現ファジアーノ岡山の長澤徹監督が、1時間以上の取材を終えた後、僕に話をしたことだ。僕も長澤さんが述べたことが、現実になって欲しいと考えてここまで文章を書いてきた。僕は、選手が一生懸命に語ってくれた言葉を文章化することで、それを読んだどこかの誰かが、少しでも「頑張ろう」と思えるようなものを書きたいと望んできた。しかし、この原稿を世の中に発表した2011年当時は、まったく反響がなかった。

 僕は、書かれた言葉に関しては、こんな風に考えている。僕が書いた言葉は、誰かによって拾われる。書き手の言葉は、自分の手元を離れて誰かに読まれた瞬間にその誰かのものになる。その誰かが拾った言葉は、また別の誰かへと受け渡されていく。書かれた言葉は、そうして誰かによって消費されて時間とともにあちらこちらに巡っていくものだ。そうやって僕は、書かれた言葉の存在について考えている。

 2015年になって、僕が書いた言葉が僕自身に戻ってきた。現在の僕は、今まで取材してきた選手や関係者の言葉によって支えられている、と言える状態だ。どのような状態なのかは詳しく書かないけれども、僕が、こうして過去に書いた作品を公開するのは、僕に語ってくれた選手や関係者の言葉や気持ちを埋もれさせたくないからである。

 彼らの言葉によって僕が勇気づけられているように、これから記される物語がどこかの誰かによって拾われて、誰かの生きる支えになれることを、僕は心から願っている。

 この物語は、2015年現在、タイ3部リーグUBON UMT UNITEDでプレーする宇留野純と、J2リーグのファジアーノ岡山で監督を務める長澤徹との師弟愛を描いている。いや、そんな表現では伝えきれない物語が凝縮されている。人が生きていくためには何が必要で、いったい何によって人は支えられているのかが、この物語を読めばはっきりとわかる。

 1998年、宇留野と長澤は本田技研で出会うことになる。ここでの物語は、2人が出会った1998年から2011年3月6日までが描かれている。その日は、Jリーグ ディビジョン2の開幕戦、熊本県民総合運動公園陸上競技場で行なわれたロアッソ熊本対東京ヴェルディの試合があった日である。宇留野が出場したその試合で物語は幕を閉じる。

 僕が記した物語は、癌を抱えて闘いながらピッチに立つ宇留野の姿で筆を置いたのだが、当然、今でも2人の関係は続いている。現在の宇留野は、タイの3部リーグのクラブでプレーを続けている。長澤は、宇留野がタイでプレーする決断をしたときに「気のすむまでとことんやれ」と告げたという。一方の長澤は、ファジアーノ岡山の監督としてシーズン前のキャンプなどで、メディアの話題となっている人物である。

 僕は当時、この物語を書き終えていろいろと考えさせられた。僕は誰のために文章を書いているんだろうか、と自問自答した。

 日本代表クラスの選手を追いかけて物語にする。彼らが代表クラスまで駆け上がった道程を書き記す。メンタルやフィジカルの問題を世の中に伝える。それはそれで大切な仕事である。

 僕はどんな書き手なのかとじっくりと観察した。取り上げる選手が、代表クラスでも地域リーグでも、どのクラスに属する選手であっても関係がない。僕の関心は、その選手がどうやって生きてきて、どうやってサッカーと向き合ってきたのかを表現することであって、僕が書きたい物語は、有名無名に関わらず、人の生きざまを描きたいのだ。それを読んだ読者が、「もうちょっと頑張ってみようかな」と思えるものが書きたいのだと思った。

 僕が書いた言葉は、誰かによって拾われる。きっとどこかで誰かに活かされるときがくるだろうと、僕は信じて文章を書いている。

絶望=癌を告知される

「まだ俺の順番じゃないのか」
 と呟いてから、大きなため息をつく。

 2005年11月4日、セレッソ大阪との天皇杯の戦いを終えた翌日、宇留野純は、浜松医療センターにいた。1年前から続けられている月2回行なわれる精巣癌 のPET (陽電子放射断層撮影)検査の結果を待っている。

 病院の廊下の壁際に並べられた椅子に座っている時間が長ければ長いほど、宇留野の恐怖心は増していく。

「検査結果が良くなかったから、俺の名前がすぐに呼ばれないのではないか、と待っていて畏縮していくんです。検査の前日は眠ることさえできない。腫瘍マーカー検査が継続されている、と思うだけで怖くなります。その日の検査を終えると、検査結果を知らされるのが1週間後なんですが、知らされるまでの間が苦痛でした。もしも今回の検査で数値が上がっていたら、という不安といつも隣り合わせでいました」

 宇留野は、病気によって自分が絶望の中にいることを直視させられた出来事があった。それは、腫瘍マーカー検査を受けようとしていたときである。彼は、検査台の上に仰向けに寝かされる。用意をしようとした女性の検査技師が、彼の顔を覗き込む。「えっ」というかすかな驚きの声がする。宇留野は検査技師の目を見る。

「『こんなにも若いのに』と声をかけられたんです。そのときに、癌を抱えてしまった俺の宿命を認識させられました。『ああ、寿命のときまで、検査の日々は終わることがないんだな』と。だから完治という約束された休日は、俺にはやってこない。癌が、いつ転移するのかわからずに、恐怖とともに生き続けなければならない。俺は、このとき初めて絶望という言葉の意味を知ったんです」

 彼の不安を察した妻が、「運気を呼び寄せるためにね」と言って授けてくれた数珠を両手で強く握りしめる。〈どうか検査の結果が問題ないように〉と心の中で何度も祈り続けて自分の順番を待つ。

 診察室に入ると、担当医師がカルテに視線を落として静かに語り出す。
「正常値とされる腫瘍マーカーの数値が0.1だとされます。前々回の検査のときは0.1でしたが、前回は急に0.4に上がりました。今回はさらに上がって0.6になっています。この数値の上昇からすると、癌が転移した可能性が高い。すぐにでも抗癌剤治療を始めなければなりません」

 宇留野は、医師の説明を聞いて尋ねる。
「先生がもし……もしも俺の立場だったらどうしますか?」
 医師は即答する。
「私だったら今すぐに抗癌剤治療を受けます」
「そうですか……」
 と言って息を呑む。
「シスプラチン という抗癌剤は副作用がとても強い。治療を始めたら短くて半年、長くて1年間は入院を余儀なくされます。仮に治療をしないとなると、命に関わることになる」
 そう言われた彼は、〈とうとうこの日が来てしまったのか〉と悲嘆して抗癌剤治療に踏み切る決心をする。
 医師の述べた「抗癌剤治療を行なう」という勧告は、同時に「サッカー選手を辞めなければならない」という宣告でもあった。医師の言葉は、宇留野にとって、死に等しい響きを持って耳に届いていた。

兆候=身体の不調を感じる

 2004年12月2日、JFL(日本フットボールリーグ)最終節を3日後に控えた練習中、激痛が下腹部を襲う。
「なんだか最近肌が荒れているな、と感じていたんです。それに唇も乾いていました。でも、まったく気にもとめなかった。その日、練習をしていたら突然ものすごい痛みが下腹部に走って。なんか変な病気だったら嫌だな、という軽い気持ちでいたんですが……」

 帰宅して「下腹部がすごく痛いんだけど」と妻に打ち明ける。「心配だから病院に行った方がいいよ」と言われた。宇留野が向かったのは、大学などの大きな病院ではない街の小さな開業医院だった。すぐにいくつかの検査をされる。医師が深刻そうな顔をして現れた。宇留野は、「急性精巣上体炎 じゃないですか?」と伺う。以前、彼の知人が腹痛を訴えた際に、診断された病名だった。医師は彼の質問を受けて、「その可能性は低い。はっきりとは言えないけれど、腫瘍の可能性がある。明日にでも大きい病院に行って診てもらったほうがいい。もし何も言われなかったら、私をヤブ医者だと思っていいから」と諭す。同行した妻は医師の話を聞いて「大丈夫。たいしたことないよ」と宇留野を励ました。

 翌日に浜松医療センターで診察を受けると、担当医師が「悠長に細胞を採取して検査している時間はない。すぐに腫瘍を切除しなければならないので、今日中に入院してください」と告げる。宇留野はまだ、患った病気の重さが飲み込めていなかった。「あの、あさっての試合には出られますか?」と尋ねる。医師は、「とんでもない」と語気を強めて「そんなことをしている場合ではないんだよ」と話す。宇留野が嘆願した「あさっての試合」とは、ザスパ草津戦のことを指す。それは、来季にヴァンフォーレ甲府に行くHondaFCの監督、安間貴義の最後の試合だった。

 宇留野にとって安間の存在は、サッカー選手として自分の新しいスタイルを築かせてくれた恩師にあたる。だからどうしても、安間にとってHondaFCでの最後の試合になる草津戦に出場して、勝利を土産に快く送り出したいと望んだ。しかし、腫瘍の摘出手術のために、彼の願いは叶わない。3-0で勝利した草津戦の結果を知ったのは、術後のベッドの中だった。

 宇留野は医師から自分が難治性の癌におかされている事実を知らされたのだが、彼はまだ、この時点では、手術をして腫瘍を摘出すれば、以前と変わらない生活が送れるだろうと考えていた。

 術後に医師は、次のように宇留野に伝える。「摘出した精巣は破れていました。PET検査などで全身をくまなく調べた結果、転移は認められませんでした。だが、画像に現れない癌が血液中に転移している可能性が高いんです。ですから、抗癌剤療法を行なう必要があります。それと、リンパ節 への転移を防ぐために腹部のリンパ節を取ることも検討したいのです」。

 病気の症状と治療法を詳しく訊くうちに、宇留野は事態の重大さに気づく。手術が終わって検査をして、転移が見られないと言われたことで、手術が終わったらリハビリをして終わりだ、と彼は考えていた。手術したのだから、もう大丈夫だろう、と。

 医者は、「これからどうやって治療していきましょうか」と語る。「ああ、はい」と答えると、「この腫瘍は転移が早いからすぐに予防しないといけない」と言って「血液中に転移する可能性が高いからすぐにでも抗癌剤を入れて予防をしたほうがいい」と付け加えた。そこで早急な処置が必要な難病なのだと認識されて、自分に降りかかった困難さを実感する。さらに、追い打ちをかけたのが、術後の検査結果がよくなかったことだ。悪性の腫瘍で転移する可能性が高いほうの癌だと診断される。医師は、シスプラチンという抗癌剤治療を勧めた。

 説明を受けた宇留野は医師に尋ねる。
「抗癌剤治療をやっても、サッカーはできますよね?」
 医師は、一瞬ためらって答える。
「サッカーができるという保証はありません」

 宇留野は、医師から話を訊いて精巣癌と抗癌剤治療に関して調べ始める。本やインターネットから得られた情報を知れば知るほど、自分が抱えた病気の難治性の前に立たされた。非セミノーマ の精巣癌の場合、医師が言う通りとても進行が早い。ほとんどが、痛みを感じられずに、リンパ節や肺や脳まで転移した時点で発見される。彼のケースは、激痛があったことで早期に発見された。非セミノーマに対しては、放射線治療よりも抗癌剤治療が有効。シスプラチンという抗癌剤を使用したなら、癌細胞は撲滅できる。それによって日常生活に復帰することは可能。ただし強い抗癌剤のために、副作用 から正常な細胞を壊すことになり抹消神経 を傷つけるので、もう2度とプロサッカー選手としてグラウンドでプレーすることは不可能だ。

 「先生、俺、どうしてもサッカーを続けたいんです。抗癌剤治療以外の療法はないのですか? なんとかお願いします。サッカーを続けられるようにしてください」
 彼の度重なる願いにも医師は病状の深刻さから首をタテに振らない。それでも宇留野は、諦めずに何度も嘆願する。次第に医師は、彼の「サッカーを続けたい」という切実な想いに心が傾いていき、ある提案をする。

「私が、行なおうとしている抗癌剤は副作用が強い。だから、この抗癌剤を使えばサッカーを続けたいという宇留野さんの願いは叶わないことになってしまう。ただ、ここ10年かけて抗癌剤は改良されてきて、転移が確認されてから行なっても遅くない。どうしてもサッカーを続けたい、と言うのなら抗癌剤治療はせずに通院しながら経過を診ていくという方向でやってみましょう。でも、転移する確率は5割あると思ってください。ですから、月に2度通院してCT (コンピュータ断層撮影)検査やMRI (磁気共鳴画像診断装置)検査、血液検査などの腫瘍マーカー検査をしてもらいます」
 医師は一通りの説明を終えたあとで、「ただし」と付け加えて、彼に1つの条件を出す。
「月2度の腫瘍マーカー検査で数値が上がっていたら、すぐに抗癌剤治療に切り替えますから」

 実は、精巣癌が発見される数日前、宇留野に徳島ヴォルティスからオファーが届いていた。目標にしていたJリーグでのプレー。しかし、諦めなければいけないという自己との葛藤の末に、彼はオファーを断わらざるを得なかった。

出会い=恩師となる人

 宇留野が本田技研に所属したのは、1998年のときである。ちょうど同じ年に、長澤徹がコーチとしてやって来て、2人は運命的な出会いをすることになる。

 長澤の宇留野に対する印象は、次のようなものだった。
「才能がありました。本当にサッカーが大好きなんだな、と思った。サッカーで生きていきたい、という気持ちが強かった分、試合に出られない現実に押しつぶされそうになっていたんです。そのことで、ものすごいストレスがかかっていたのは、見ていてすぐにわかりました。宇留野の場合、ストレスになれていなかったんですね。これは誰にでも言えることですが、とんとん拍子で行くことはそうはない。基本的に順風に右肩上がりでいくことはないですよね。波を打ちながら右肩上がりになって行くというのが基本的な図式ですよ。プロになってからもそうです。

 宇留野のように、子どもの頃から一線でやってきた選手が、プロになって試合に出られなくなると、イメージとしてブレーキとアクセルを一緒に踏んでしまって動けなくなるという感じになるんです。人はストレスがかかると、どこかで発散しないといけない。でも、溜まったら吐き出すという人間として当たり前の行動が上手くできない。たとえば、壁に当たった選手をレンタルに出して別な場所で可能性を試す、ということは日本のマーケットでは難しい。僕らの仕事は、選手として1人前にすること。だから、物の見方をわかっていない選手に、『お前はどう思う?』と問いかけ続けなければならない。

 今の時代は、我慢していたらきっといいことがある、という感覚をもてない。だから、グラウンドの中でもすぐに答えをもらいたくなる。問題があることが問題なのではなく、問題があるのに考えないのが問題。『監督がダメだから』とか『パスをよこさない味方の選手がダメだから』と、人のせいにしているうちは、自分と向き合っていない。最初に会った頃の宇留野は、そうでした。

 でも宇留野は、『使われないのはなぜか?』という問題に自分で意味を見いだした。見いだすことができたのは、宇留野に才能があったから。ちょうどその頃から、プレースタイルは変わってきました。オンリーサイドとか、身体能力だけでやっていたのを、周りの人を使うというスタイルに変わった」

 長澤が本田技研でコーチを務めたのは、1998年から2000年まで3年間だった。その後、本田技研は、2002年になってHondaFCと改称される。宇留野は、長澤がチームを去ってからもクラブに残って2005年まで所属することになる。

転移=受け入れがたい現実

 2005年11月4日、1年間の通院のあとに「癌が転移した」と医師に告げられたその日の夜、宇留野は検査結果を報告するために長澤徹に電話をした。
「徹さん。ダメでした。癌が転移したみたいで……」
 次の言葉が出てこない。
「そんな大事なこと、電話で話すようなことじゃないだろう。明日、朝一番の新幹線で浜松に向かうから」

 FC東京のトップチームのコーチをしていた長澤は、当時の監督の原博実に事情を話して、午後からクラブの練習があったのに、わざわざ浜松までやって来た。彼ら2人は、駅前のファミリーレストランで待ち合わせをする。宇留野は、長澤の顔を見た瞬間に声を出して涙する。

「サッカーができなくなる、という悲しさよりも、俺のために足を運んでくれた。そんな徹さんの気持ちが嬉しかったんです。俺は、〈この人に大切に思われている〉と思ったら泣けてきて……」と宇留野は涙の理由を話す。
 人というものは、生きることが辛くなったときや、自分は誰からも頼りにされていないという孤独を感じたりしたときに、どうすれば折れそうな心の翼を回復できるのだろうか? おそらく人は、人によってしか究極の救いは得られないのだと思う。

 宇留野は、検査結果を詳しく説明しなければならないと思って、昨日の医師の言葉を思い出しながら語り出す。
「1年前に癌がわかってから、サッカーを続けたくてこの1年間通院をしてきたんですけれども……。癌を治そうと思って、やれることは何でもやってきたんです。『漢方薬が効くから』と言われれば薬を飲みました。『熱い風呂に入るのがいい』と言われれば入浴をする。『ここの神社のお守りがいい』と言われればお守りを身につけました。食事療法もやれることは何でもやってみたんです。でも……症状が進んでいたみたいで……。だから、抗癌剤治療をしなければならないと医者に言われました。転移していたらそうするしかない、と覚悟を決めて1年間過ごしてきたので……。治療を始めると完治するのは難しいかもしれないんですが……またサッカーをやれるようにがんばります」
 と、声を振り絞る。

 2人のあいだにしばらく沈黙がある。長澤は「んん」と言ってから「治療が終わったら体が弱っているだろうから、俺の家でドイツワールドカップでも観ようか」と語りかける。
「はい、そうします」
 と、宇留野は答える。

 このとき、宇留野は抗癌剤治療しか延命できる道が残されていないと覚悟をしていた。長澤と向き合って話していると、〈もう本当にサッカーができなくなるんだ〉という喪失感とは別な感情がこみ上げてくる。〈俺、サッカーをやっていて徹さんと一緒にいた3年間が一番楽しかったな〉という充実感。長澤は宇留野が苦しいときに、いつも声をかけて励ましていた。

叱咤=愛情をもった接し方

 長澤は、1997年にHondaFCの前身にあたる本田技研で現役生活を終えて、翌年の1998年から2000年までコーチを務める。宇留野が、長澤に最初に声をかけられたのは、練習後、帰宅しようとしているときだった。長澤は、宇留野を「ジュン」という愛称で呼び止める。初めの会話は、たわいもない日常生活の話から始まった。「食事はちゃんと摂れているのか?」。「彼女とは上手くいっているのか?」。次第に会話はサッカーの話題に行き着く。「今日は動けていたな」。「もっと空いているスペースを使った方がいいぞ」。2人が話しだすと、時間はあっという間に過ぎて行く。しかし、最初のうちは、宇留野の心の扉はなかなか開かれなかった。

 宇留野は、HondaFCに加入して最初の2シーズン、公式戦2試合しか出場チャンスを与えられていない。試合に使ってもらえない自分に段々と納得ができなくなる。試合に使ってもらえば十分にやれるのに、という自負が顔を出す。一方で、ベンチにも入れない、という焦りがつのる。彼の自信は時間の経過とともに喪失していく。周りから見れば、当時の宇留野のレベルでは実力不足と映ったのかもしれない。あるいは1人よがりのプレーをする選手だと思われていたのかもしれない。でも、本人からすれば、自分は上のレベルでもできると信じて取り組んできた。しかし、自分の今のレベルでは認めてもらえないのか、という失望感が日々を襲う。踏みつけられたプライド。不甲斐なさという自己嫌悪が増していく。試合に出られないという不満は、練習中、無意識に態度に出てしまった。

 長澤は、コーチの立場から宇留野を叱ったことがある。それは練習中の出来事だった。宇留野は、試合に使ってもらえないことからうっぷんが溜まっていた。自分の近くにボールが転がってきても追いかけようとしない。どこか不貞腐れている態度に見えた。
「ウル。悪い雰囲気をみんなに与えるくらいなら、お前は外でやれ」
 長澤の怒鳴り声がグラウンドに響く。一瞬にして周りの選手は凍りつく。長澤は、ピッチを出ようとする宇留野に近づいて腕をギュッとつかむ。納得のいかない宇留野は、目を合わせようとしない。
「お前1人の存在はチームにとって小さな存在じゃないからな。お前の存在はちゃんとここにあるから。それをみんなが見ている」

 次の日になって、まだ不貞腐れている態度をとる宇留野を呼ぶ。
「22人がスタメンだったならお前は試合に出られるけれど、11人しか試合には出られない。だけど、これだけは言える。100パーセント、このまま行くはずがない。チャンスは必ずくる。チャンスを手に入れるかどうかはお前しだいだ。お前がチャンスを得られなかったら、他の選手が試合に出られることになる。サッカーとは、そういうスポーツなんだよ」

 サッカーを職業とするまで登りつめた選手は、子どもの頃からほとんどがレギュラーでチームの中心にいた。つまり、様々な選手の中から淘汰されて残された存在として立っていて、同時に自身を冷静に見られる達観した視点を持っている。そうした選手が、大人になって試合に出られなくなると、それまでの状況との違いから強いストレスを感じてしまうものだ。そうしたストレスは、「これからどうやっていけばいいんだ」という迷いを生じさせる。その頃の宇留野も迷いの中にいた。長澤は彼の心の襞を読んで、次のように話す。

「試合に使わない理由を監督がいくら理路整然と話したところで、『はいそうですか』という聞きわけのいい選手なんていない。でも大事なことは、試合に使われないのなら、そこから『じゃあ、自分はどうするのか?』ということ。たとえ話としてだが……、夜中に船が出航していて、船長が灯りを消せと言った。船乗りたちは夜中に灯りを消したら真っ暗になって何も見えなくなると戸惑う。それでも船長が、灯りを消せというものだから、船乗りたちは言われるままに灯りを消した。そうしたら真っ暗闇の向こうに一筋の光が見える。つまり、陸地から照らされる光が見えたんだ。1つずつ自分の目の前にある事柄を消していって最後に全部消してしまえば、意外と進むべき道を発見して歩んで行くことができるものなんだよ」

 また別の日に、練習後、長澤は宇留野に呼びかける。
「中途半端な気持ちでトップチームの試合に出ているよりも、今はBチームで練習していたほうが上手くなるぞ。いいか、ジュンの課題はサイドにこだわったプレーをすることだ。こだわったプレーをするのは悪いことではない。でもサッカーは、チームでやるものだから、もっと周りの選手を見た方がいい」

 毎日、練習後に語りかけてくる長澤に、ある日、宇留野から質問してきた。
「なんで俺、使われないんでしょうね」
「使われないお前の気持ちはわかるよ。俺も現役のときに使ってもらえないときがあったから。で、お前はどう思うんだ?」
 と長澤は逆に問いかける。
「どう思うかって言われても……」
「自分には何が必要だと思う?」
「技術的なことで言えば、俺、クロスの精度をもっと上げられたらいいと思うんですよ」
「じゃあ、チーム練習が終わってから、居残りで個人練習に付き合おうか?」
 と宇留野に提案する。
「え?」と長澤の提案に少し戸惑った彼は、「はい、お願いします」と言う。

 長澤は、宇留野1人だけでなく、Bチーム全員の選手に1つひとつ課題を与えて、それをクリアすることを要求していた。たとえば、紅白戦でクロスを10本上げるとか、シュートを10本打つとか、具体的な数字を挙げて日々の目標を設けてクリアさせることで、試合に出られない選手の気持ちを切らさないようにした。チームの練習が終わると、毎日、グラウンドで2人のトレーニングが始まるようになり、それは長澤がチームを離れるまで続けられた。

 個人練習の成果はすぐに表れる。2000年のシーズンには、公式戦に21試合出場し8得点を挙げて頭角をあらわし始める。宇留野の活躍は、「黄金世代」 の一員としてメディアで取り上げられだす。そして、年末の天皇杯でのプレーにも注目が集まる中、彼自身も対サンフレッチェ広島戦の出場を楽しみにしていた。しかし、宇留野は、メンバーに選ばれなかった。ベンチにも入れないという事実を訊かされたときには、「まさか」という驚きしか持てない。今季は結果を残してきたのに、「またか」と疑心が首をもたげる。

 でも彼は、絶対に試合で使われると信じていた確信がこなごなに砕かれても、もはや2度と不貞腐れた態度を示すことはなかった。遠征メンバーから外されたとしても、すぐに長澤のもとに行く。
「徹さん。練習に付き合ってくれませんか?」
 と宇留野はシュート練習の相手を頼む。
 〈ここでやる気をなくしたら、徹さんと歩んできた2年以上の年月が無駄になってしまう。1からの振り出し。同じ道へは戻れない〉と、自身の甘えを振り払う。

 テーブルを挟んで向き合う長澤に、癌の転移を告白する宇留野は、5年前の居残り練習の場面がプレイバックする。宇留野の目の前には、決して自分を見捨てなかった長澤がいた。抗癌剤治療への決心を語る宇留野。生きることに絶望してもおかしくない状況なのに、必死になって再生を誓おうしている宇留野の姿を長澤は見つめる。天皇杯の対広島戦のメンバーから外れたことを告げられてすぐに宇留野本人が志願した居残り練習の日から数えて5年が経っていた。
「徹さん。覚えていますか?」
 と広島戦から帰還したあとに2人で練習したことを問う。
「ああ、そんなことあったよな」
 と当時を振り返る。
「あれから数年後に徹さんはこんなこと言ったんですよ。『お前、大人になったな』って。俺、そう言われて、自分が変わったんだって実感できたんですよ。人は変われると思うんです。俺、サッカーができるような体になって絶対に戻ってきます」

 宇留野は、そういって長澤と別れようとする。「あっ」と呟いて、言い忘れていた事柄を付け足す。
「病院の帰りに、HondaFCのドクターから電話があったんです。絶対にセカンドオピニオン をしたほうがいいって。知り合いに有名な先生がいて、予約をしたからすぐに行きなさい、と言われました」
 長澤は彼の話を受けて、「検査するたびに、連絡してこいよ」と言う。
 抗癌剤治療を決心した宇留野にとって、セカンドオピニオンを勧める電話が、これからどのような運命をもたらすのかは、彼本人も恩師の長澤も知ることがなかった。

決断=ステップすることの意味

 HondaFCのドクターに紹介された病院に行って診察を受けると、医師は「私は乳癌が専門なのです。私よりももっと詳しい専門の先生が国立がんセンターにいますから」と言って別の医師を紹介される。JFLベストイレブン表彰式に出席した翌日に、国立がんセンターで検査を受けると、専門医は、抗癌剤治療とは別の治療法を提案してきた。それは宇留野にとって嬉しい誤算であった。彼はすぐに、長澤に電話で診察結果を伝える。
「抗癌剤治療をしなくてもよさそうなんです。医者が言うには、抗癌剤はとても強いから使わなくていいのなら使わないほうがいいって。数値だけだと100パーセント転移しているという確信が持てないから、もう少し様子を見たほうがいいって言われたんです」

〈まだサッカーを続けられる〉という喜びから、別人のように声が弾んでいた。「良かったな」と答える長澤も安堵して「次の検査結果がわかったら連絡してこいよ」と言って電話を切る。新たな検査結果は、数値が0.6から0.5に下がっていた。そして数値は、時間とともに0.1に戻っていく。
 抗癌剤治療を行なうと決心する数日前、安間がコーチをしているヴァンフォーレ甲府と愛媛FCから移籍のオファーがある。ちょうど1年前に、徳島ヴォルティスからのオファーを病気のために断った経過があった。その1年後に再びJリーガーになれるチャンスが巡ってきた。しかし、甲府と愛媛には、病気を理由に再び断りの連絡をする。だが、新たな検査の結果、抗癌剤治療を行なわないことになったので、〈この日のために1年間頑張ってきたんだ〉という思いから1度断りを入れた甲府に再度連絡を入れて移籍することにした。

 移籍のことを早く長澤に連絡しなければならない。もちろん長澤も両手を挙げて喜んでくれるだろうと考えていた。「甲府には病気のことすべてを話しても、獲ってくれるって言ってくれたので行きます」。しかし、長澤からは、予想していた答えとは別な言葉が返ってきた。「本当に、お前はそれでいいのか? 体が一番大事だろう。後悔はしないのか? お前は、何を思っているのか知らないけれども、ホンダにいれば何の不安もなくいられる。サッカーは、どこでやってもサッカーなんだよ。とにかく、両親と嫁さんともう1回話をして、それから決めたほうがいいぞ」。

 宇留野は、〈何でそんなことを言うのか?〉と長澤の言葉にショックを受ける。Jリーグでプレーしたいと望んでいたこと。病気のために1度オファーを断わっていること。もう1度オファーをもらうために1年間チャレンジしてきたこと。かつての恩師の安間と大木武からの誘いであること。監督の大木が、宇留野の病気を知っていても獲得に名乗りをあげたこと。長澤は、こうした事情をすべて理解してくれている。そう信じていた。だから「良かったな」と言ってもらえるだろうと疑わない。

 宇留野は、長澤に言われた通り家族で話し合いをする。両親は移籍に賛成してくれて、妻には「私も一緒に頑張るからチャレンジしようよ」と背中を押された。「甲府に行こう」と再び決断してから数日が経つ。「また反対されるかもしれないな」という考えが頭をもたげて、なかなか長澤に連絡できない。しかし、いずれは話さなければならないと思って、家族会議の結果を報告する。
「お前行くのか?」
 と長澤が問う。
「やっぱり甲府に行きます」
 躊躇なく答える。
「どうしてもやるのか?」
「はい」
「そうか。この間は、あんなこと言って悪かったな。お前が本当に決めたんだったら、それが答えだよな。お前が考えて出した結論だったなら俺は賛成する」

 移籍をしたいと告げた1度目の電話から、「甲府に行ってしまうんだろうな」と長澤は考えていた。人が何かを決めるときに、しばしばリスクをともなうことがある。病魔を抱えた宇留野の決断は、大きなリスクをもたらす。それは本人にも家族にも、もたらされるものだ。だからもう一度、熟慮してから結論を出しても遅くはない、と宇留野に伝えたかったのだろう。

 一方で宇留野は、「どこまで俺が本気の決断なのかを徹さんは試したんだと思います。あえて否定的なことを話すことで決断に揺るぎがないのかどうか、確認してくれたんでしょう」と話す。

神という名の光=サッカーを続けていくために

 宇留野が、自分に訪れるあらゆる事象を謙虚に捉えて思考するようになれたのは、検査入院の際に同室になった1人の癌患者がささやいたある言葉が、宇留野の思考を覚醒させたのであった。

 彼は、浜松医療センターで1年間検査を受けてHondaFCでプレーを続けた結果、数値の上昇を知らされる。そのときに検査入院をするのだが、同室になったのは50歳くらいの癌患者だった。彼は、とても辛そうに苦痛を顔にして抗癌剤治療を受けている。ベッドで横になっている若い宇留野に向かって彼はささやいた。

「健康な体さえあれば何でもできるから」

 宇留野は、癌患者の言葉の真意をすぐに理解した。〈本当にその通りなんだよ〉と思う。人は、普段、生きていることが当たり前のようにさえ思わない。でも、まったくそれは当たり前のことではない。生きていること自体を当たり前だと思って生活していても、ある日突然に病魔が襲ってくることがある。

「生とか死とか向き合ったことがなかったから、生きていられることが当たり前だと思っていた。俺は一人で生きているんだって感じで生きていた。でも、そうではないことを知ったんです。嫁さんだったり両親だったり、周りの人がいて俺が支えられている。その人たちのおかげで俺が生きてこられた、というのがわかって。俺、病気になってからそれがわかったっていうか。今、振り返ると、人は俺に対して何気ない気づかいや細かい配慮をたくさんしてくれていたことに気づいたんです。生きることが当たり前だと思っていたときは、俺自身のことで精一杯だった。特に、嫁さんは、俺のことを真剣に考えてくれていたんだと気づかされて。だから、感謝の気持ちしかないんです」

 2011年3月6日、Jリーグ ディビジョン2の開幕戦、ロアッソ熊本対東京ヴェルディの試合が熊本県民総合運動公園陸上競技場で行なわれた。2006年から2008年までの3年間、甲府でプレーを続け、2009年に熊本に移籍して背番号11を背負い、チームの中心選手となった宇留野が、開幕戦のグラウンドに立つ。後半40分になって交代を告げられるまで、ピッチを縦横無尽に疾走する。

 精巣癌を告知されてから8年の歳月が過ぎようとしていた。32歳になってプレーを続ける彼は、長澤がかつて語ってくれたことを思い出す。「代表選手とかスター選手は、プロフェッショナルとして尊敬されるけれども、30歳を過ぎてサッカーでメシを食っていける選手は、それだけでも価値がある。そいつらの方が苦労しているし、うしろ姿がしっかりしている」。これは、宇留野が、プロサッカー選手としてクリアしたいひとつの目標でもあった。

 交代する際に、彼は、サイドラインを超えて雨中のグラウンドに向きをパッと変える。背筋を伸ばしてからグラウンドに一礼した。彼が礼を終えて頭を上げたとき、彼のうしろ姿がこれまでの生きざまを物語っていた。この世のすべての万物が雨で濡らされて暗い色に染められたとしても、宇留野純は、神という名の光に照らされて加護されているのだと確信させた。

〈了〉

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