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サッカーノンフィクション
言葉のパス ~ぼくのサッカーライフ~
文●川本梅花 写真●Getty Images ※記事は2011年に取材した内容を再編集したものです。
はじめに
この物語は、群馬FCフォルトナに加入した2000年から横浜FCに在籍していた2013年までのシュナイダー潤之介のサッカーライフである。彼は現在、奈良クラブのGKとしてプレーしている。
潤之介は、群馬FCフォルトナに月3万円を支払ってサッカー選手になった。当然、サッカーでは生活できないので、当時のキャバレーの客引きのアルバイトをしながらサッカーを続けるのだが、驚き、笑い、涙、彼のサッカー人生は波瀾万丈へと巻き込まれていく。
父がくれた2年間のチャンス
シュナイダー潤之介は、明星大学サッカー部に所属していた。大学を卒業してからもサッカーを続けようと考えている。しかし、大学時代にJリーグのクラブから注目されるほど活躍したわけでもなく、大学のサッカー部自体も強豪というわけではなかった。
これから先の進路に関して具体的にどうしようかと思い悩んでいたときだった。1冊のサッカー雑誌を眺めていたら、群馬FCフォルトナというクラブの立ち上げと、それにともなうクラブ所属選手の募集が紹介されている記事が目に飛び込んでくる。「これだ!」ととっさに思いつき、すぐさまクラブに電話して、セレクションに参加させてもらうことにした。
潤之介は、父に「俺、卒業してもサッカーを続けたい」と自分の願いを告白する。父は、息子の話を聞いて1つの条件を提示した。それは、「2年間チャレンジしてみて、ダメならうちの(建築)会社を継いでほしい」というものだった。つまり、2年間のあいだに「プロサッカー選手」になれなければ、サッカー選手として生計を立てるという夢を捨てるということを意味した。父の提案に「わかった」と答えた潤之介に、「約束だからな」と念を押して、「がんばってこいよ」と言って彼を送り出した。
彼の父は、スイス北西部のゾロトゥルン州にあるグレンヘンという街の出身者で、ドイツ系スイス人だった。高級時計のピアジェの販売・製造に関する仕事で日本にやってきた。そこで潤之介の母になる女性と知り合って彼が誕生する。そのとき父は44才だった。したがって、潤之介が大学4年生のころに、父は67才になっている。
「2年間チャレンジしてみて、ダメならうちの(建築)会社を継いでほしい」という条件を出したのは、年齢を重ねた親が、かわいい息子の将来を心配してのことだ。たとえプロサッカー選手になれなくても、早いうちに見切りをつけて家業を継いだ方が、息子にとって次の人生を立て直せることになる、という年の離れた親の心から出たことだった。
月3万円……クラブに払うことに
セレクションを受けて数日後に電話が潤之介のもとにかかってくる。
「あなたは合格しましたよ。B契約ですがいいですか」
とクラブ関係者から報告をもらう。
「やった! 本当ですか? ありがとうございます」
潤之介は受話器をもったまま飛び上がって喜ぶ。
「それでは、月3万円でお願いします」
〈え!? いきなりサッカーでお金をもらえるのか。これはいいぞ〉
と感嘆にふけっていたら、電話の相手はまったく逆のことを話してきた。
「月3万円でかまわないので、月末にはお支払いください」
「え?! は、はい」
「それから、午前中は練習を行いますので、午後からできるようなお仕事をご自分で見つけてくださることをお勧めします」
クラブ関係者の丁寧な言葉使いとは正反対の過酷な現実を、潤之介は叩き付けられたのだった。
月3万円クラブに払っても「最初の1歩としてはしかたがない」と考えて群馬FCフォルトナへの加入を決断した。
「俺は本当にサッカーが下手だったんですよ。群馬FCフォルトナは、俺が入ったときには、群馬県リーグ2部に所属していました。最初は、俺自身、(群馬県リーグ)4部のサテライトからはじまったんです。対戦相手は、おっさんたちがいるチームとかで、彼らハーフタイムにたばこを吸っているんですよ。その姿を見て『俺、なにやってるんだ』と思って情けなくなった。そんなときにチームメイトだった大石(篤人)さんが、『お前、練習が足りないんだったら付き合ってあげるよ』と言ってくれて、助けてもらったんです。
それで、前橋ジュニアユースの練習に参加させてもらいました。1日のスケージュールは、午前中に近くのサッカースクールで練習。午後からアルバイト。夜になるとまた練習をする。オフのときもランニングをしてボールを蹴る。俺、サッカーバカだったんで、なにも考えずにひたすら練習していたんですが、そんなやり方だとコンディションが上がってこないから、チーム練習でアピールできなかった」
大石はコンディション調整に失敗している潤之介を気にして声をかける。
「お前な、練習好きなサッカーバカは大事なことだけど、オフでどれだけ体を休められるのかという考えもプロとしたら大事な部分なんだぞ」
「ああ、そうなんですか」
と、潤之介は答えて、オフの過ごし方について考えるようになった。
大石の助言を受け入れて、オフの日はゆっくり体を休めてダウンさせていたら、レギュラーだったゴールキーパー(以下GKと略す)とその控えの選手が怪我をする。潤之介にとうとうチャンスが回ってきた。スタメンで出場した試合をうまくこなして、それ以降、レギュラーポジションを獲得する。
群馬FCフォルトナは、しばらくすると学校法人堀越学園に経営母体が移ることになる。選手たちの多くは、堀越学園が用意した寮に住むことになった。以前はある企業の社員寮だったその場所は、建物が古くたいぶ劣化が進んでいた。
「3畳一間の部屋で布団を敷くといっぱいになる」という狭さだった。「寮費が1万円でした。加入当初は3万円をクラブにこっちが払っていたんですが、母体が変わって、逆に3万円をもらえることになりました。朝飯はおかゆで、たくあんがでる。精進料理でしたね。休みの日は監禁状態というか、外出が許されなかったんです。寮に帰ると、ストレスを感じて、夜にこっそりと寮を抜け出したことがありました」。
クラブは、2000年の天皇杯の群馬県予選で、高校生の青木剛(現鹿島アントラーズ)がいた前橋育英高校をPK戦の末、勝利して本大会に進出する。そこでの初戦の相手は、J2リーグで優勝したコンサドーレ札幌だった。試合は0対2で群馬FCフォルトナが敗れてしまう。「札幌戦を最後に、チームは解散ということになったんです。コーチ陣は全員解雇。みんなは『コーチ陣が切られたんなら俺らもチームを出る』という話になった。俺は『どうしようかな』と迷っていたんですが、『これもタイミングだな』と思ってチームを出ることにしました」。
鳥栖のセレクションに合格、電話越しに聞こえた父の泣き声
「さあて、これからどうしようか」と思ってサッカー雑誌を読んでいたら、今度は、サガン鳥栖が選手を募集していた。「佐賀県か。確か九州だよな。まあ、とにかくセレクションを受けに行ってみよう」とすぐさま新幹線に飛び乗る。
鳥栖に着いてグラウンドに行ってみたら、セレクションメンバーの表に「ミッドフィルダー 10番 シュナイダー」と記されてある。「これはまずい事態になるぞ」と思ってクラブ関係者に伝えに行く。「いやー、俺、ゴールキーパーなんですよね」。関係者は落胆の表情を見せた。
「だいぶ期待されていたみたいですよ。シュナイダーという名前だけで。あとから聞いた話なんですが、フォルトナにいたもう1人のゴールキーパーもセレクションを受ける予定になっていて、その彼が、事前に鳥栖のフロントに電話したそうなんです。『GKをとる気ありますか?』と。そしたら『いや、GKは3人いるんで大丈夫です』と言われた。
俺は、体験をしたかったので受けたんですが、仲間うちでは『セレクション費をとるためのセレクションだよ』という噂があったんです。実際、そのときも3万円とられました。なんですがね、3万円という数字に縁がありますよね。まあ、セレクションは楽しかった。1次審査に受かって、そうしたら2次審査のときに、『こいつは、選手としてよくなるぞ』とある関係者に言われたんです。GKの人員枠がいっぱいだったから諦めてはいたんですが」
セレクションが終わって東京に戻ってくると、またしても幸運という巡り合わせが、潤之介のもとに届けられる。それはちょうどクリスマスの日だった。
鳥栖の強化部長から電話がある。
「正GKだった選手(高崎力)が移籍(ジェフ市原・千葉)したので、そこで『3人のセレクション生の中から誰かを選ぼう』となりました。是非、うちでやってもらえますか?」
「はい、よろしくお願いします」
潤之介の張り上げた声とは逆に、小さな声で強化部長は囁く。
「給料5万円だけどいいかな」
「ああ、問題ないです」
と、より大きな声で答えた。
潤之介はすぐに父にセレクションの結果報告を電話した。「2年間はサッカーに専念して結果を出す」という条件をクリアーしたことを告げる。父は、「それで、サラリーはいくらもらえるの?」と聞いてくる。「ああ、60万円だけど」と答えると「すごいな、やったな!」と喜ぶ。潤之介は、「いやいや、ワンイヤーね」と付け足す。「バッカなー」と言って怒りだす。そして、母親に話し相手が代わると、受話器の向こう側から父の泣いている声が聞こえる。母は、「あなたが1年で結果を出したからね」と言い添えた。
チャンスをものにするが
2001年、鳥栖での月給は5万円からスタートした。寮は群馬FCフォルトナのときと同じく、ある会社の元社員寮に住まされた。寮費が月1万円で昼ご飯は一食250円で食べられる。その時のチームメイトに森田浩史(前ヴァンフォーレ甲府所属)などがいた。
寮に住むチームメイトたちと、「月5万円で、どうやって生活して行こうか?」としばしば話し合いになる。「何人かでスーパーマーケットに行きました。そこは夕方になると品物の半額券を配ることがあって、俺なんかが他の客を体でブロックをして、その半額券を手に入れたりしました。親からは米を送ってもらいましたね」。翌年には月給が9万円に上がって、出場給が2万円、勝利給を3万円もらえるようになる(まだC契約だった潤之介は勝利給がもらえない)。
潤之介は、2年目から試合に出られるようになる。彼は3番手のGKだった。すぐに試合に使ってもらえる状況ではなかったのだが、またしても彼に幸運が訪れる。2番手のGKが練習に2度遅刻してしまう。そこで潤之介がベンチに入ることになる。そうしたら、1番手のレギュラーだったGKが、その試合でレッドカードをもらって退場になった。潤之介に出番が回ってきる。「ここだ、と思って気合いが入りました」と彼は振り返る。
3年目になった2003年には月給が20万円までアップした。「その年がプロになって一番辛い時期でした。監督と選手が、練習を終えてから酒を飲みにいくようなチームに変わってしまったんです。僕は、彼らと距離を置いて頑張りましたよ。だから、チーム内でも孤立していきました。あまり、セカンドキャリアを考えない方だったんですが、仲のよかったチームメイトに『サッカー選手よりもそのあとの人生の方が長いから』と助言をされたことがあったんです。ちょうど結婚をして、奥さんは『辛いならサッカーを辞めてもいい』と言ってくれたので、辞めたあともサッカーに関わる仕事をしたいと考えて、C級ライセンスをとりにいったんです。その年は、1年間で3勝しかしていない。アウェーの(アルビレックス)新潟戦だったんですが、試合前半に1点とって、その1点を守るために前半から時間稼ぎをした。そんなのはじめての経験でしたが、それほどチームが勝てなかったんですよ」と潤之介は当時の苦い思い出を語る。
もっと高いレベルで、そして鳥栖との決別
2006年になって鳥栖を退団することになるのだが、2005年にはリーグ戦40試合に出場してキャプテンを務める。潤之介自身、「J2リーグで結果を出したので、次はもっとレベルの高いJ1リーグへとステップアップしたい」と考えるようになる。これは当たり前のことだ。プロサッカー選手ならば、誰もが考えること。
「クラブからは、『社長も変わるから1年間だけ残ってくれ』と言われたんですが、『J1でやってみたいんです』と伝えると『じゃあどこか移籍先を探すから』と言われた。でも、いつまで待ってもクラブからは何も返事がなかったので、ある人に本当に移籍先を探しているのか調べてもらったら、クラブはどこにもオファーをしていなかったんです。
クラブ関係者の言葉を信じていたのでショックでした。探すつもりがないのなら『探すつもりがない』とはっきりと本当のことを言ってほしかった。『鳥栖に騙されたな』という思いが残ったんですが、『それならばしかたがない』と割り切って『1年間だけ頑張ります』とクラブに伝えました」
2006年には、リーグ戦31試合に出場する。クラブには前年度に伝えていたように移籍志願を伝える。当時の監督だった松本育夫がチームに残るように潤之介の説得に回る。
「なんでチームを出て行くんだ」
松本は開口一番、潤之介に言い放つ。
「仙台から話しがあって、環境を変えて自分のレベルを上げたいんです」
と、潤之介は答える。
「(ベガルタ)仙台には正GKに小針(清允/前ガイナーレ鳥取所属)がいるから、鳥栖にいたらお前はレギュラーだぞ」
松本は説得し続けたが、彼の意志は固かった。
鳥栖での契約はA契約だったが、規定にある最低限の年俸である480万円はもらっていなかった。そこで選手会の方から、「それは違法だから」ということで、鳥栖も480万円を支払うことになった。
誰よりも先に準備し、最後までグラウンドに残る
J1リーグへの移籍志願だったが、実際に移籍したのは、鳥栖と同じJ2の仙台だった。「J1のクラブからは具体的な話がなかったので、J2の中でも、仙台は戦ってみてJ1に上がる可能性が一番高いと感じていたので仙台に行くことにしました」と打ち明ける。
仙台に移籍した2007年には、正GKだった小針からポジションを奪って試合に出るようになる。しかし、同年6月6日に練習中にボールを取ろうとして右手を脱臼骨折する。全治3ヶ月の重傷を負ってしまう。
「グローブを脱いだら、血がでていたんです。開幕戦からレギュラーポジションをつかんでいたので、さすがに怪我をした瞬間は『ああこれでダメだな』と絶望的な気持ちになりました。でも、『小針がいるからチームは大丈夫だろう』と、まずは思った。鳥栖にいたときは、俺がチームで最年長だったということもあって、控えのGKも一緒になってGKのグループというものを大事にしていたんです。
お互いにライバルだけれども、選手が上手くなればチームも強くなれる、というテーマをみんながもって頑張っていった。でも、仙台に来たら、お互いのライバル意識がものすごかった。そうしたライバルを意識した関係は、確かにある意味で選手として成長はできるんですけど、自分がメンバーから外れてリハビリをしていると、今までとは別の感情がでてくるんです。最初は、控えに回ったことも『チームのため』と思って取り組んでいたんですけど、時間が経つにしたがって『なんでゴールマウスの前に立っているのが俺じゃないんだ』という焦りが出てきた」
2009年になると、潤之介は第3番目のGKからも降格されるという憂き目にあう。
「そのときから、僕の中でなにかが変わったんです。具体的に言えば、練習のある日は、誰よりも先にクラブハウスに一番乗りして準備をする。そして、練習が終わって、体をケアしてから最後にクラブハウスを出る、というようになった。移籍して怪我をした。復帰しても、なかなかレギュラーに戻れなくって、自分の中で『なにかを変えないといけない』と思ったんです。
『なにかもっと頑張んなきゃいけない』と。だから、その日の練習が終了したグラウンドの中でも、最後まで残るようにしました。シュートを打ってくれる選手がいる限り、GKは絶対に彼らよりも先に帰ってはいけない、というポリシーをもっているので、シュートを打ちたいという選手がいれば、絶対にその選手に最後までつき合いましたね」
2008年のシーズンでもって仙台をあとにする潤之介に、鳥栖の松本育夫から電話がある。「もう一度、鳥栖でやらないか」と言われる。「はい。引退するなら鳥栖で選手生命を終えたいんです」と潤之介は話す。
「最初にプロとしてプレーした場所で辞めたい、という気持ちがあったんです。松本さんは『来てほしい』と言ってくれたんですが、社長の方が『うちを辞めた選手はいらない』と言ってきたので、鳥栖には行きたかったんですが諦めました。そのあとで鳥取から話があったので『提示された金額でやります』と伝えて移籍することにしました」
父のために、シュナイダー劇場はまだ続く
潤之介がサッカーをはじめたのは、『キャプテン翼』(高橋陽一作)を読んで『サッカーは面白い』と思ったことがきっかけになっている。当時は、サッカーよりも野球の方が人気スポーツだった。だから子どもころは、野球に熱中していた。
「小学校1年生のときだったと思うんですけど、父に『これはなにと』言って『キャプテン翼』の漫画を見せたんです。父は、『それはサッカーだよ』と教えてくれて、『じゃあ、やってみるか?』ということで、三菱養和SCに行ったんです。最初のポジションはディフェンダー(以下DFと略す)でした。当時は、ストッパーシステムだったことと、身長はデカかったのでスイーパーをやらされました」
スイス人の父と日本人の母の間に生まれた潤之介は、「俺、身長がデカかったので、相手を力でねじ伏せるタイプだった。だから、あまり周りも変に絡んでこなかったんです。ハーフだからいじめられたことはありません。小学生のときは、上級生に『君、何人? アメリカ人なの』って言われることが多くて嫌だったことはありますが。中学生になって、「君、ドイツ人?」と言われるようにはなりました(笑い)。剣道、水泳、野球など、いろいろなスポーツをやっていたのですが、その中で、サッカーが一番楽しかったんです」と述べる。
「プロになりたい」と意識したのは、明星高校の1年生のときだった。1年生からDFで試合に出る。中学校は新宿にある落合第2中学校のサッカーに入って、そこから明星高校サッカー部に行く。しかし、中学・高校とそれほど強くはなかった。高校は、選手権の東京都予選大会で2回戦に勝ち進めれば御の字だった。「漠然と『プロになりたいな』という思いがあった。DFでなら可能性があるかなと考えたんですが、難しいだろうなと自分で判断した。高校1年生のときに監督に相談したら『フォワード(以下FWと略す)かGKならばチャンスがあるかもしれない』と言われて。俺は、『じゃあ、GKやってみたいです』と伝えたんです。そうしたら監督が『FWとGKをやってみて、どちらがいいか適性を見よう』と話されて、GKをやることにしたんです」。
GKというポジションに関して、2010年に横浜FCに移籍した潤之介は、鳥栖にいたときのようにGKというグループのチームワークを強調する。「横浜FCでは、GKの中で『みんなでレベルを上げようよ』と話し合って、そして実際にレベルが上がったことが嬉しかった」と語る。さらに彼は言葉を続けて次のように話した。
「俺はGKコーチじゃないから、本当はライバルであって、試合に出られないときには悔しがらなければいけないんですけど、レギュラーで出ている選手は、GKのメンバーの代表として試合に出ている。だから、『彼が頑張れば、俺らの評価も上がる』というようにあらためて考えるようになったんです」
横浜FCに加入したことを知った78才の父は、潤之介にこんな風に話す。
「これでやっとホームで試合を見に行けるね」
仙台と鳥取にいたときに、「シュナイダー劇場」または「ガイナーレ劇場」と呼ばれたパフォーマンスがあった。それは、試合終了後、観客とともに潤之介が音頭を取って、その試合で最も活躍した選手を選出して祝うという祭りだった。それは、高齢の父に自分の存在をアピールするために、行われていたものだった。
サッカー雑誌に載っていた公募から生まれたJリーガーであるシュナイダー潤之介は、雑草のように誰かに踏まれても、強く生き抜いていく力をもった選手だ。なぜならば、プロ契約選手になるために「2年間の猶予」を父に与えられた無名だった選手が、あれから11年という歳月を重ねて、りっぱなプロサッカー選手として今もグラウンドにいるからである。