[写真]=Borussia Dortmund/Getty Images
[ワールドサッカーキング5月号掲載]
ブンデスリーガが一時の低迷から復興を遂げた背景には代表チームの活躍や国際舞台でのバイエルンの成功、そして国内におけるドルトムントの大躍進があった。その時、ドルトムントの中心にいた香川真司は、異国の地ドイツで“時代の寵児”となった。
文=ミムラユウスケ
写真=ゲッティ イメージズ
追い風となったブンデス復興の流れ
ブンデスリーガで2連覇を果たし、日本人として初めてマンチェスター・ユナイテッドの一員となる。文字に起こせばたったこれだけのことだが、香川真司がヨーロッパで成し遂げたことの意義はとてつもなく大きい。
香川が日本を離れ、ドイツに戦いの場を移したのは2010年夏のこと。この南アフリカ・ワールドカップ直後の渡独は、結果として最高のタイミングだった。南アフリカ大会に臨んだドイツ代表は出場32カ国中、平均年齢が2番目に若いチームだった。結果は惜しくも3位だったが、プレーのクオリティーは高く、各メディアから“ドイツ代表史上最も魅力的なチーム”と評された。これによってブンデスリーガの注目度は、W杯前と比べものにならないほどに高まった。10-11シーズンの開幕前には、「ひょっとしたらブンデスリーガが復権するのではないか」との期待感がドイツ全土を包み込んでいた。
そのタイミングでリーグに旋風を巻き起こしたのが、香川を獲得したばかりのドルトムントだった。開幕戦こそレヴァークーゼンに敗れたが、そこからは破竹の勢いで勝ち星を積み上げ、第4節で相まみえた宿敵シャルケとのルール・ダービーでは敵地にもかかわらず3-1の快勝を収めた。そしてその中心にいたのが、この試合で2ゴールを決めた香川だった。
「ドイツに来てから最高の日になりました」。試合後、香川は今にも鼻歌を歌い始めそうな幸福感に包まれながら、そう話していた。序盤のダービーをきっかけに上昇気流に乗ったドルトムントは、その勢いのままブンデスリーガを制した。リーグ優勝は実に9年ぶりのこと。2005年に約2億ユーロ(現在のレートで約260億円)もの負債を抱え、破産寸前まで追いやられたドルトムントが、リーグの頂点に返り咲いたインパクトは強烈だった。
また、この優勝には見落とせない事実が2つあった。1つはドルトムントがブンデスリーガを制した歴代のチームの中で最も平均年齢が低かったこと。そしてもう1つは、前シーズンにリーグとカップの国内2冠に輝き、チャンピオンズリーグ(CL)でも準優勝を収めていたバイエルンを倒してリーグタイトルを手にしたことだ。
若い選手を中心に据えて南アフリカW杯で健闘したドイツ代表と同様、ドルトムントの優勝はブンデスリーガに若く将来性のある若者がひしめいていることを改めて証明した。なお、ドルトムントはこの翌シーズンにもブンデスリーガを制し、更にはクラブ史上初となるドイツカップとの2冠を達成している。
日本国内を上回るドイツでの香川人気
10-11シーズンの香川は、アジアカップで負ったケガの影響でシーズン後半をほぼ棒に振った。だが、11-12シーズンは1年を通して活躍。シーズン前半こそやや低調だったチームに引きずられる形で彼自身も万全とは言えなかったが、シーズン中盤からはチームとともに調子を上げ、最終的にはリーグ戦31試合に出場、13ゴール11アシストの大活躍を見せた。チームとしても当時のリーグ戦無敗記録やシーズン最多勝ち点など、新しい記録を次々と樹立。ブンデスリーガの歴史に新たな1ページを刻んだ。
ドイツサッカー界が華麗なる復権を遂げようとするタイミングで、すい星のごとく現れ、大活躍を見せた香川は、あの時点でブンデスリーガ有数の攻撃的MFとして認知され、ドイツ国内での人気と知名度は一気に跳ね上がった。
この時期を境に、日本での香川人気も一気に高まったが、特筆すべきはドイツにおける『KAGAWA』の人気や知名度が、日本のそれをはるかに上回っていたという事実だ。ドイツ人が香川に向けていた熱い視線は、日本代表のスター選手として向けられたものではなく、“俺たちの国”ブンデスリーガのスターとしてのものだった。
ヨーロッパで活躍する日本人プレーヤーが日本国内で人気を博すというのはよくあることだ。だが、サッカーのようなメジャースポーツを生業とするアスリートの中で、日本での人気が現地での人気に追いつかないことなど、それまでにはなかったのではないだろうか。
ドイツでの香川の人気は、サッカー選手としての実力もさることながら、ここまで述べてきた“ドイツサッカーの復興”という時代の流れを味方につけた結果でもある。だからこそ香川は、他の日本人がたどり着いたことのない高みにまで上り詰めることができたのだ。
ちなみに、香川がドイツサッカー界に与えた影響は、彼がイングランドへ移籍した後も見て取れた。10-11シーズンにドルトムントにタイトルを奪われたバイエルンは11-12シーズンの開幕前に、マヌエル・ノイアーやジェローム・ボアテングらを補強。リーグタイトル奪還に燃えていた。にもかかわらず、そのシーズンもリーグ戦でドルトムントに後れを取り、ドイツカップでも決勝でドルトムントに敗れた。この結果を受け、バイエルンは12-13シーズンの開幕前にもハビ・マルティネスやマリオ・マンジュキッチらを補強。2年にわたって大型補強を続けた結果、ブンデスリーガ、ドイツカップ、CLの3冠を達成することになる。もちろんこれは、ドイツのクラブ史上初の偉業だ。
盟主バイエルンをそこまで駆り立てたのも、香川擁するドルトムントが圧倒的な強さを誇ったからに他ならない。つまり、香川は時代の流れを味方につけただけでなく、結果的にドイツサッカー界の新時代到来にも一役買った。長い歴史を誇るドイツサッカー界で一つの時代を作った選手となったのだ。
香川が示した日本人選手の価値
香川の活躍は、ドイツにおける日本人プレーヤーの地位向上という部分でも大きな意味があった。香川がドルトムントに入団する直前の09-10シーズンをフルに戦った日本人選手は、当時ヴォルフスブルクに所属していた長谷部誠ただ一人(ボーフムの小野伸二はシーズン途中に退団)。それが14-15シーズン現在、実に12人もの日本人選手がブンデスリーガでプレーしている。ドルトムントの丸岡満も含めれば13人だ。
かつて奥寺康彦氏や、ドイツで8シーズン目を迎えた長谷部らが蒔いた種を、香川は一気に芽吹かせ、大輪を咲かせるまでに育てた。少なくともブンデスリーガの各クラブの首脳陣に「香川のような日本人選手を獲得したい」と強く思わせたことは紛れもない事実である。
特に2列目を得意とする日本人プレーヤーにとって、ブンデスリーガはある種の“楽園”となっている。香川がドルトムントで活躍して以降、ブンデスリーガにやって来た2列目の攻撃的なポジションの選手は7人。現在はマインツでセンターフォワードとして活躍する岡崎慎司も、シュトゥットガルト時代は2列目の選手として高く評価されていた。恐らくこれから先も、ドイツでは同じようなポジションの日本人プレーヤーが増えていくことだろう。
香川の代理人を務めるトーマス・クロートはこう話している。「長い間、日本人選手は“小さい”と(否定的に)言われていた。でも、それは長所にもなり得る。彼らには俊敏性、テンポ、機転、そしてテクニックがある。香川は日本人サッカー選手の良いお手本になったんだ」
香川はブンデスリーガが復興へ向かう最高のタイミングで日本を離れ、ドイツに渡った。時代を味方につけたという点で、幸運にも恵まれたのかもしれない。ただ、ドルトムントという人気クラブに加入できたのも、ドイツサッカー界の象徴であるバイエルンを倒せたのも、彼にサッカー選手としての確かな実力があったからだ。運が良かったの一言では片づけられない力を香川は備えている。
香川はドイツサッカー界と日本サッカー界の両方に多くの影響と特大のインパクトを残した。だからこそもう一つの偉業、日本人として初めてマンチェスター・Uに加入するという離れ業をやってのけたのだ。そして、すべてが始まったドルトムントへと舞い戻った今、新たな偉業を成し遂げることは決して不可能ではないはずだ。