チアゴ・シウヴァに続き、ズラタン・イブラヒモヴィッチの獲得。中東のオイルマネーを後ろ盾に生まれ変わったパリ・サンジェルマンは今、フランスの枠を越えた存在になろうとしている。2011年5月に「華の都」で起きた現代版の“フランス革命”。現地記者が、その全容を解き明かす。
「パリがいて、その他大勢がいる」
昨シーズンの半ばにしてこんなコメントを吐いたディディエ・デシャンは、恐らく冗談が好きなのだろう。ただし、もちろんこの言葉には裏がある。当時マルセイユの指揮官だったデシャンは、「リーグ・アンの優勝チームはパリ・サンジェルマンで決まり」と公言することで、リーグの成金クラブに掛かるプレッシャーをより高めようとしたのだ。試して損はない手法だ。
結果的にパリSGは優勝を逃したのだが、スポーツディレクターのレオナルドとカルロ・アンチェロッティ監督に与えられた資金を考慮すると、デシャンの発言は“的確”だったと言える。もっとも、パリSGを「マンチェスター・シティのフランス版」のように見るのは誤りだろう。2011年5月31日、カタール投資庁が、子会社の「カタール・スポーツ・インベストメンツ」(QSI)を通じてパリSG株の70パーセントを取得したと発表して以来、両クラブはたびたび類似点を指摘されてきた。確かに、どちらも新たな資金源として中東のオイルマネーを得たわけだが、シティの躍進はフランスリーグとは全く異なる状況下でなされたものである。
仮にシティがチャンピオンシップ(イングランド2部)のクラブであったなら、パリSGとの比較は意味を持つかもしれない。だが実際には、シティは世界屈指の金満クラブがひしめくプレミアリーグを戦っている。リーグ・アンにはマンチェスター・ユナイテッドも、リヴァプールも、チェルシーも、アーセナルも、トッテナムも存在しない。デシャンが言わんとしたのはそこだ。
マルセイユの名物会長だったベルナール・タピが、フランツ・ベッケンバウアーの監督招聘とディエゴ・マラドーナの獲得を目指したのはもう遠い昔のこと。当時はボルドー、ラシン・パリ、モナコの会長たちが競って財布のひもを緩めていたが、今はパリSGだけが突出している。
高速走行をする車はスリップストリームという気流を起こし、後方を走る車の空気抵抗を減少させるという。しかし、パリSGが他のクラブにそういった恩恵を及ぼすのは、まだしばらく先のことだろう。組織と財政が健全なクラブ(マルセイユ、リヨン、リールなど)は、ある程度の競争力を持ち得るが、それでも資金面での制約があることは否めない。パリSGの新オーナーにはそれがない。
フランスサッカーは長いこと、有料テレビ局「カナル+(プラス)」(1991年から0
6年までパリSGのオーナー企業だった)に過度に依存していた。振り返れば、カナル+の経験は、今のカタールが進めているプロジェクトの「悪しき見本」のようにも思える。
カタールの衛星テレビ局「アル・ジャジーラ」は、パリSGと同様、同国の王族の支配下にある。パリSGのチェアマン、ナセル・アル・ケライフィ(同国史上最高の元テニス選手で、タミーム皇太子の親友)が、同時にアル・ジャジーラの経営者でもあるのはもちろん偶然ではない。
アル・ジャジーラは、フランスで新たなスポーツ専門チャンネルの開局を決めると、わずか数カ月のうちに主要なテレビ放映権を手中に収めた。その中にはフランスリーグの海外放映権、リーグ・アン(毎週2試合)や3部リーグのハイライトの放映権、そして最近までカナル+のものだったチャンピオンズリーグの好カードの放映権などが含まれている。
パリSGとアル・ジャジーラがフランスサッカーに対して共同で侵攻を掛けているように見えるとしたら、それは事実その通りだ。そしてこの侵攻は長い時間を掛けて、注意深く準備されていた。
だが、アル・ケライフィとレオナルドが常々「プロジェクト」と呼んでいるものについて語る前に、この大胆な試みはほとんどの人が失敗を予想するギャンブルであったことも理解すべきだ。パリSGは、90年代に数々の成功をつかみ、98年には欧州ナンバーワンのクラブにランクされている。それにもかかわらず、これまで誰一人として飼い慣らすことのできなかった奇妙な“獣”なのだ。
■パリが愛するのはサッカーだけにあらず
パリは「サッカーの都」ではない。確かに広大な郊外は、フランスきってのタレント供給源となっているが、そこはかつての城壁の跡に建設された環状道路によって都心部から切り離されている。何のことはない、今も城壁が残っているのと同じことなのだ。ランスやサンテティエンヌ、マルセイユのような真のサッカーどころとは違う。都心部ではフットサルのコートさえあまり見ない。サッカーの生中継を流すカフェはごく少数で、それもどこか弁解がましくやっている。そもそもそうしたカフェは治安の悪い地区にあり、観光客の目には触れにくい。
98年のワールドカップ決勝が開催されたスタッド・ド・フランスは、パリ市ではなく郊外のサンドニにある。パリSGの本拠地であるパルク・デ・プランスは、あまりに環状道路に近接しているため、取り澄ました第16区の一角というよりは郊外の一部のような場
所とイメージされている。パリの歴史あるクラブは軒並み消滅するか、下部リーグで細々と命脈を保っている状態。しかも、ラシンやレッドスターなどは、昔から城壁の外で試合を行ってきた。
パリSGのパラドックスは、地元のブルジョアがサッカーに無関心であるにもかかわらず、パリがフランスきってのーーあるいはヨーロッパきってのーー潜在能力を秘めた都市だと見なされてきたことだ。「競争にさらされることがないクラブ」とでも言おうか。アル・ケライフィが就任直後に指摘したように、周辺人口を含めれば、パリには1200万人以上の人が住んでいる。そして、半径100キロ以内に、リーグ・アンはおろか、リーグ・ドゥのクラブすら他にない。
そんな好条件を生かそうとする動きが表れたのは、ようやく1970年代になってからだ。しかも、そこには多少の紆余曲折があった。「パリ・サンジェルマン」というクラブ名が、そのことを何より雄弁に語っている。サンジェルマン(・アン・レー)は、緑が多く、保守的な郊外の町で、断じてパリの一部ではない。パリSGは、その町のクラブと、新設されたパリFCが合併して誕生したクラブなのである。
それでもパリSGは、創設直後からフランスサッカー界の話題の中心となった。俳優のジャン・ポール・ベルモンドのようなセレブがスタジアムまで観戦に訪れ、1973年にはファッションデザイナーのダニエル・エシュテルがオーナーになった。役員会はシャンゼリゼのシックなカフェで開かれた。創設4シーズン目に当時の1部リーグに昇格すると、16シーズン目までにリーグ制覇を1度、フランスカップ制覇を2度経験。フランスで屈指の収容人数を誇るパルク・デ・プランスを常時満員にした。
90年代は更に順風満帆だった。96年のカップウィナーズ・カップ優勝を筆頭に、国内とヨーロッパで数々のタイトルを獲得。ダヴィッド・ジノラ、ライー、ジョージ・ウェアらを擁し、レアル・マドリーやバルセロナから伝説的な勝利を挙げた。「クラブの歴史は浅くとも、実力はトップクラス」。そう誇示するような、真の黄金時代だった。
だが、躍進は混乱を招きもした。歴代のオーナーは常に財政的負担に苦しんだ。とりわけ、2000年代前半には、制御不能なほど支出額が膨張。オーナーのカナル+は、06年にやむなくクラブをアメリカの投資ファンド「コロニー・キャピタル」に売却する。ここで注目すべきは、当時、同ファンドがあらゆる手を尽くしてカタールのライバルを退けたことだ。アル・ケライフィの「プロジェクト」は、昨日や今日に生まれたものではなく、数年前から動き始めていたのである。
■オーナーたちは明確なアイデアを持っている
では、なぜアル・ケライフィはパリSGを選んだのか? 過去20年間で13の主要タイトルを獲得しているとはいえ、パリSGが経済的自立性を持たないことは明らかだった。なぜQSIはイタリアやイングランドのクラブを買わなかったのか?
その理由は、第一に安かったからだ。パリSGは信じがたいほど安かった。コロニー・キャピタルがカナル+からパリSGを買った時の値段は2600万ユーロ(約27億3000万円)。QSIは基本的にその金額を補償し、更に2000万ユーロ(約21億円)ほどの負債を肩代わりするだけでよかった。それだけでーー1人のスタープレーヤーを獲得するような感覚でーーフランスリーグ4位、ヨーロッパリーグのベスト8、フランスカップ準優勝チームが手に入ったのである。
もっとも、パリSGの買収はヨーロッパのサッカー界に堅固な地歩を築こうとするQSIにとって、最初にして、最も簡単な一歩に過ぎなかった。それまで外国の他の投資家は、極めて厳格なフランスサッカー界の会計検査ルールを嫌い、クラブの買収をためらっていた。移籍市場に大金を注ぎ込みたいオーナーにとって、収支を均衡させることは大きな難題だったからだ。それでもパリSGは昨夏、フランスでは史上最高額となる8000万ユーロ(約84億円)を市場に投じた。そして、その金額の半分以上は、パレルモからアルゼンチン人プレーメーカーのハビエル・パストーレを引き抜くためのものだった。
クラブはこの1月にも、マクスウェル、アレックス、チアーゴ・モッタを獲得した。この夏の動きからも明らかなように、金ならいくらでも払うというスタンスはなお変えていない。
これだけ大盤振る舞いをしながら、クラブはいかにして収支を均衡させようというのか? 折しもUEFAは、クラブの財政健全化を目指した「ファイナンシャル・フェアプレー」を導入しようとしている。UEFAのミシェル・プラティニ会長は、機会があるごとにパリSGのやり方を批判している。しかし、パリSGの幹部たちは、収支を均衡させる方策を質問されると決まって同じ答えを繰り返している。
「実行はするが、方法は説明しない。すべては『プロジェクト』の一部なのだ」
どうも、QSIはパリSGを「資金注入を必要としていたサッカークラブ」ではなく、「全く新たな存在として生まれ変わるサナギ」と見ていた節がある。96ー97シーズンにパリSGでプレーし、昨年7月にスポーツディレクターとして舞い戻ったレオナルドは「パリSGは41年の伝統を持つビッグクラブだ。変えるべきところは何もない」と語っている。
宝くじを当てたかのような興奮と、クラブの独自性を消されるのではないかという不安の間で揺れていたファンは、レオナルドのこの言葉に欺かれた。レオナルドはさらに「いくつかやるべきことがある。オーナーたちは極めて明確なアイデアを持っている」と続けた。確かにここまでは真実だったと言える。しかし、その先は違った。「これまでクラブで働いてきた人々も、クラブの精神を維持するために重要だ」。あれから半年も経たないうちに、彼らのほとんどはクラブを去っている。
レオナルドはスポーツ面での絶対的な権限を要求し、認められた。昨夏にアントワーヌ・コンブアレ監督の処遇について聞かれたアル・ケライフィは、「監督の評価もレオナルドの仕事だ」と答えている。この「評価」とやらは、どうやらレオナルドが初出勤する前から既に下されていたようだ。レオナルドは初めから、このリーグ・アン最後の黒人監督をクビにするつもりでいたのだ。
「補強に見合った成績を残していない」との理由で彼の更迭が発表されたのは昨年12月30日だったが、それは数カ月前からの既定路線だったと言っていい。コンブアレの立場は既に著しく弱体化していた。10月にレオナルドが戦術分析の担当者として、ミランの元ユースコーチのアンジェロ・カステッラッツィを連れてきたためだ。
ウインターブレイクに入る前には、チームはまだ首位に立っていなかった。それでも辞任しなかったコンブアレは相当プレッシャーに強い男なのだろう。自分の背中を狙うナイフが研がれる音を聞きながら、彼は頑として踏みとどまっていたのである。
だが正直なところ、どれだけ勝ってもコンブアレの続投はなかったに違いない。マルセイユとの大一番を3ー0で制しても、その首はつながらなかった。レオナルドは昨年8月の段階で新監督探しを始めており、声を掛けることができそうな有名監督にはすべて声を掛けた。そして12月になって、6週間前に一度は断られたカルロ・アンチェロッティを改めて口説き落としたのだった。
クラブの近年の歴史を知る人物は一人ずつ排除されていった。パルク・デ・プランスの暴力的なウルトラスと勇気を持って対決したロビン・レプロー・チェアマンは、QSIにその地位を「保証」された数週間後に解雇されている。78年からクラブで働くシモン・タールも、昨年11月に役員の座を追われた。
晩秋に向かうに連れて、クラブの組織が少しずつ崩され、まるで違った実体が姿を見せ始める。副ゼネラルディレクターのポストにはユヴェントス元役員のジャン・クロード・ブランが当てられた。「QSIは過去を破壊したいわけではない。改革はクラブの歴史を尊重することと両立できる」と、アル・ケライフィは断言する。だがそんな彼の講釈は、多くのサポーターの耳にうつろに響く。彼らはそれが短く、喧噪に満ちたものであったがゆえにクラブの過去に強い愛着を持っているのだ。
そうこうするうちに、愛すべきパルク・デ・プランスが老朽化を理由に取り壊されるといううわさが広まる。折しもパリSGは、ユーロ2016に向けた改装のために、同スタジアムを2シーズン離れることを求められている。アル・ケライフィは、取り壊しなど考えたこともないと否定した。改装中だけスタッド・ド・フランスに移り、終わったらまた戻るのだと。だが、全員がその言葉を真に受けているわけではない。
サンテティエンヌの元キャプテンで、今は解説者となったジャン・ミシェル・ラルクは、「パリSGは事実上、死んだ。今あるのは『プロジェクト』という名の別のクラブだ」と述べている。その言葉を真っ向から否定するのは、少しばかり難しい。
■我々は長期的視野に立っている
アル・ケライフィの語る野心は明確だ。「リーグ・アンで優勝し、ヨーロッパで良い結果を出す。今後3シーズン、チャンピオンズリーグに参戦し、ヨーロッパきっての強豪クラブになる」
金だけでビッグネームを集められるかどうかはまた別の問題だが、彼らはそれに必要な選手を買えるだけの金を持っている。
ただ、カタールの「プロジェクト」はパリSGより大きなものを見据えている。彼らにとってサッカーは「目的地」ではなく、「入り口」なのだ。地政学ではこれを「ソフトパワー」と呼ぶ。ミサイルや戦闘機を買う代わりに、カタールはF1のサーキットや競馬場、ゴルフコースを作る。あるいはサッカースタジアムを作り、W杯を誘致する。パリSGは、スペインのマラガと同様、2022年の「砂漠のW杯」に向けた一つのステップなのだ。アル・ケライフィも、「我々は長期的視野に立っている。永遠にここにいる」と述べている。
パリSGはカタールの世界戦略ツールの一つであり、単なる虚栄心のはけ口ではない。QSIがクラブに与える資金の額は(無尽蔵ではないにせよ)リーグ・アンの基準からすれば莫大だ。「我々は金をドブに捨てるためにここに来たのではない」とアル・ケライフィは述べた。選手なり、インフラなりに「有効な投資をすることが、我々の戦略なのだ」
パリSGは、より大きな施設を作ることのできる代替地が見つかり次第、1975年から使用している練習場を離れることにしている。過去との結びつきがまた一つ、失われるわけだ。パリの市議会はクラブとの関係を見直すことになるかもしれない。
もちろん、QSIはそんなことを気にしない。1月中旬には、ブランがパリ市長にこう話している。「我々は大きな視点で考え、時には様々な分野で路線を変える義務がある」
パリSGの発展ぶりは、既に目を見張るほどだ。シーズンチケット保持者は4500人から1万6000人とほぼ4倍に増えた。レプリカユニフォームの売上げは180パーセントもアップした。1年前には3万人以下だったパルク・デ・プランスの観客数も、昨シーズン後半には平均で4万人を超えていた。
フランスの他のクラブには、このような数字はとても望めない。デシャンは単なるマインドゲームを仕掛けただけではなかった。この夏、パリSGはエセキエル・ラベッシ、マルコ・ヴェッラッティ、チアゴ・シウヴァ、そしてズラタン・イブラヒモヴィッチとタレントを続々と補強。現実的にリーグ・アンは、「パリがいて、その他大勢がいる」状態になりつつあるのかもしれない。
By サッカーキング編集部
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