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「サッカービジネスとの出会いは楽天時代」シティ・フットボール・ジャパンの代表が語るスポーツ業界の可能性/前編

2015.12.01

マンチェスター・シティ、ニューヨーク・シティ、メルボルン・シティという各国のビッグクラブを傘下に置く、シティ・フットボール・グループ。日産自動車とのパートナーシップ締結で横浜F・マリノスの株主となり、サッカー界だけではなく大きな注目を集めている。その世界的なグループ企業シティ・フットボール・ジャパンで、マネージング・ディレクターを務める利重孝夫氏に、現在の役職に就くまでの歩み、これまでのキャリアで培った経験をどのように今の仕事に生かしているのか。そのバッククラウンドから、現在のサッカー界、スポーツ業界で求められているのはどういった人材かを聞いた。

写真=小林浩一 インタビュー=岩本義弘

――まず、利重さんの人となりについて聞かせてください。高校時代は、読売サッカークラブのユースに所属していたそうですね。

利重孝夫 大した選手ではなかったですけどね(笑)。当時のメンバーは、変わり者が多く、“ザ・読売”という感じでしたね。一人ひとりが個性的で、今でもサッカー界で活躍している人が多くいます。もちろん、サッカーはうまく、人間的な魅力に溢れたメンバーでしたね。私が進学した学校のサッカー部は、あまり強くなかったので悶々とした気持ちがありました。とにかく、レベルの高いチームの中で挑戦してみたい思いがあり、読売クラブユースに入りました。

今もそうですが高校サッカーが全盛で、クラブユースは知る人ぞ知るといった存在でした。今ではどのチームでも入団テストがあり、ジュニアユースやユースがあって、プロになるための関門のようになっていますが、当時はとにかく先ずは練習参加。その後続けられる選手が残り、そうでない人間は自然と来なくなるみたいな、学校サッカーとは違った環境でした。

練習に参加すると、めちゃくちゃ削られるんですよ(笑)。すでにクラブにいる選手からすれば、新入りはライバルですからね。最初の頃は、削られていること自体気づきませんでした。競った時に肘打ちを食らったり、ボールではなく足元にスライディングがきたりとか。今の日本人選手が、海外クラブに移籍した時に感じるような文化の違いじゃないですけど、そんな環境でした。最後にはコーチが選手を削ったりして、でも、それが自分の肌に合ったといいますか、そんな環境で通い続けていくうちに入団という形になっていましたね。今でも、自分のサッカー人生の中で、一番印象に残っている出来事の一つです。

――お話のとおり、当時クラブユースは知る人ぞ知るといった感じでしたよね。どうやって、読売クラブを知ったのですか?

利重孝夫 今のようにインターネットがない時代ですから、サッカー雑誌やコーチなどに聞いて、とにかく調べまくりました。読売はその年の全国クラブユース選手権で優勝していたこともあって、門戸を叩いてみようと思いました。

――自宅からは、どれくらいの時間をかけて通っていたのですか?

利重孝夫 小田急線を使って1時間半くらいかけて通っていました。当時、選手は町田や相模原に住んでいる子たちが中心でしたが、山梨や千葉、足立区など、結構遠くからも選手が来ていました。強豪高校に入ったけど先生の指導法に合わなかったとか、実力はあるけど高校の部活があまり強くないなど、当時のメンバーは皆自分の腕を試しに来る、そんな世界でしたね。

――同期や年齢の近い選手で、ヴェルディのトップチームや日本代表選手はいますか?

利重孝夫 残念ながら同年代でそこまでいけた選手はいないですね。年齢が近いところで言うと、3つ下にキーちゃん(北澤豪)がいました。彼だけが大成しましたけれど、当時彼と同じくらいの才能を持った選手はごろごろいましたよ。少し離れた世代ですと、志郎(菊原志郎)が今年からマリノスのジュニアユースのコーチになったのでしょっちゅう顔を合わせます。彼はまさに天才プレーヤーとして際立っていましたね。

――当時、トップチームの選手との関わりはありましたか?

利重孝夫 ありました。そこがまた魅力的でした。自分たちが練習する人工芝のグラウンドと、トップチームが練習する天然芝が隣にあって、練習が終わると都並敏史さんや他の選手たちが、私たちのボール回しやミニゲームに入ってきて、むきになってプレーするんですよ。子供たちに対しても絶対に手を抜きませんし、それがすごく魅力的でしたね。

――利重さんは、どんな選手でしたか?

利重孝夫 とにかく、みんなに付いていくので精一杯でした。ただ、トップもユースのチームメートたちも今まで見たことのないようなサッカーをしていたので、個人の技術も、チームプレーという意味でも、自分が日々うまくなっている実感を持っていました。当時は、チームが勝つというよりも、トップチームで通用する選手を育てられるか、というような指導法でしたね。

――現在のヴェルディと変わっていない部分ですよね。

利重孝夫 当時、ジュニアユースからトップチームまでつながっているのは、読売だけだったので。

――ポジションはどこでしたか?

利重孝夫 試合に出場できればどこでもということで、主にサイドバックをやっていましたね。自分では中盤が適性だったと思いますが。持久力は高かったので、豊富な運動量をベースに丁寧にボールを捌き、読みでボール奪取、そしてタメを作る、そんな選手でしたね。

――読売ユースから東大に進学。異色なキャリアだと思いますが……。

利重孝夫 色々な意味で“違う人”が多い集団、場所だったので、誰もが異色という感じでした(笑)。ただ今でも、「お前役人になったんじゃないの?」なんて言われますけどね(笑)。東大に行ったからって皆が皆役人になるわけじゃないんだよって。そんな会話を最近の同窓会でしてましたね。

――東大ではア式蹴球部に入部したわけですが、やはりサッカーを続けたい気持ちがあったからですか?

利重孝夫 読売でジュニア(当時のセカンドチーム)に上がれなかったので、ア式蹴球部に入るしかなかったというのが正直なところです。当時も今も「東大って別にサッカーは……」という感じでしたが、1つ上の世代で選手権にも出た東京の国体選抜のキャプテンがいたり、同期にも、鹿児島選抜のほとんどが鹿児島実業の中、一人だけメンバーに選ばれていたラ・サールの選手がいたり、清水東の三羽ガラスの同期がいたりとか、かなりメンバーがそろっていたので面白かったですね。レベル的にも、十分に楽しめる環境でした。残念ながら関東リーグの入れ替え戦までいって勝てませんでしたが、大学サッカーを満喫しました。クラブでやったことと学校でやること、全然違うメンタリティでサッカーをやることが楽しかったです。

――当時のア式蹴球部のコーチや監督の指導体制は、どういったものでしたか?

利重孝夫 コーチにすごい人がいて、筑波大にいて途中から東大に来たという変わり者だったんですけど、時代が時代ならJリーガーになれただろうなというレベルの方がコーチでした。学生からは変人と言われていましたが、僕は読売時代に免疫ができていたので、サッカーうまい人は変人なんだと、妙に納得していました(笑)。

――大学卒業後、銀行に就職されたのは、普通の学生と同じく就職活動をされたということでしょうか。

利重孝夫 そうですね。当時はバブルど真ん中だったので、サッカー部の合宿の合間に少し就職活動すればオッケーみたいな、今ではとても信じられないような時代でした。

――日本興業銀行に入られてからサッカーは続けられましたか?

利重孝夫 当時の銀行はそれぞれが天然芝の良いグラウンドを持っていて、「銀行リーグ」というのがありました。私が勤めていた銀行には、チームメートに関東リーグ上位にいる早稲田や慶應などのサッカー部出身者が入ってきていたので、それなりにレベルの高いサッカーを、週末1回エンジョイしていました。

――ビジネスとしてサッカーに関わり始めたのは、いつ頃からですか?

利重孝夫 一番最初は楽天在籍時に、ヴェルディのユニフォームの胸スポンサーとして「楽天」を付けさせてもらったことでしょうか。

――当時の担当が利重さんだったんですね。

利重孝夫 そうです。三木谷社長の隣で「今後は、スポーツマーケティングは大事ですよ」と、常に囁いていました。最初からスポーツマーケティングに力をいれていこうという感じではなかったですが、彼自身もアスリート出身なので、話し続けているうちに、ヴェルディの胸スポンサーになるチャンスがあるということを彼自身が聞いてきて、ご縁がありやらせてもらえることになりました。

――やはり、このお話はご自身が読売ユースに在籍していたという点もありますよね?

利重孝夫 当然あります。楽天と言う当時無名の会社の知名度を上げるという目的がメインであったことはもちろんですが、自分が読売ユース出身だったという気持ちも大きく作用したのは間違いないです。

――楽天の知名度は、サッカーファンの中では一気に広まりましたよね。

利重孝夫 やはりインパクトがありました。今でこそ、誰もが知っている会社ですけどね。

――最初の頃は、ユニフォームに漢字が入ることに違和感がありました。

利重孝夫 そうですよね(笑)。洗練さとは真逆のロゴでしたし、だからこそインパクトがあって、一度見たら忘れない。そういう効果はありました。

――ご自身の思い入れから関わり始めたサッカービジネスですが、やりがいや楽しさは感じましたか?

利重孝夫 それまで自分が関わってきたビジネスの一般常識が、ほぼサッカーにも当てはまるんだなと気付くことが出来ました。もちろんサッカービジネス特有の部分もありますが、大好きなことを仕事にする魅力にどんどん引き込まれていきました。

――楽天時代には、FCバルセロナとの提携もありました。あの出来事は当時、相当なインパクトがあったと思います。

利重孝夫 その提携案件がきっかけで築き上げた人脈が、今の仕事にも直接的に結びついています。自分のキャリアにとって一番大きな転機となったし、サッカービジネスに対して真剣に取り組む環境をこれで掴み取ることが出来ました。

――楽天カードの発行にいたるまでは、どのような経緯があったのでしょうか?

利重孝夫 ここではお名前を挙げるのは控えますが、今もサッカー界で活躍されている何人もの方々とのつながりの中でできた仕事でした。時期的には、ちょうど楽天が国内信販という九州を地盤とするカード会社を買収したばかりの頃でした。

――今でこそ、楽天カードは全国的に高い知名度ですけけど、当時は違いますよね。

利重孝夫 今や勢い、成長率の点で日本一だと思いますが、買収した当時は九州ローカルがベースのカードでした。ただ、楽天が買収したからには、これからは全国に出ていくぞと。プロ野球やJリーグ、アーティストとコラボした提携カードを出して、積極的に発行枚数を増やしていこうと。色々な人とのつながりやFCバルセロナ経営陣との出会い、それから国内信販のマーケティング戦略などが相まって、楽天カードでのバルサ公式カード発行につながりました。

――中途半端なクラブではなくて、世界ナンバーワンクラブとの提携ということで、楽天の戦略を強く感じます。

利重孝夫 結果論になるかもしれませんが、決してFCバルセロナだけを狙い打ちしたわけではなくて、主だった欧州トップクラブにはすべてコンタクトを取りました。その中でもフェラン・ソリアーノをはじめ、同世代の人たちも多く、ネットにも通じていて、唯一ビジネスの話ができるクラブがバルサだったので。今のバルサだったら、話が進んだかどうかわかりませんが(笑)。

シティ・フットボール・ジャパン株式会社 マネージング・ディレクター
利重孝夫
(とししげ たかお)
高校時代は読売サッカークラブのユースに所属し、東京大学在学中はア式蹴球部でプレー。卒業後は日本興業銀行(現みずほファイナンシャルグループ)を経て、2001年に楽天に入社。常務取締役、クリムゾンフットボールクラブ(Jリーグヴィッセル神戸の運営会社)取締役を歴任。

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