アメリカン・フットボールで日本一を経験、ソニー時代にはFIFAのグローバル広告戦略を担当し、現在は世界最大のスポーツマーケティングリサーチ企業レピュコムジャパンの代表取締役社長を務める秦英之氏。幼少期はスポーツビジネスの本場米国で過ごすなど、あらゆる立場で一流のスポーツ現場に触れてきた同氏に、これまでの歩みと日本のスポンサーシップにおける課題について話を伺った。
インタビュー・文=細江克弥
写真=兼子愼一郎
――秦さんが2013年2月から代表取締役社長を務めるレピュコムジャパンは、ワールドワイドに展開するスポーツリサーチカンパニーとして世界に知られています。まずは、秦さんご自身のスポーツとの関わりについて教えてください。
秦英之 私は南米のベネズエラで生まれ、小学校1年から6年までアメリカで過ごしました。皆さんもよくご存じのとおり、アメリカという国はあらゆるスポーツにおいて「見る」と「やる」の環境が非常によく整備されています。小学生の頃からアメリカンフットボールをはじめ、ゴルフ、テニス、野球、バスケットボールなど様々なスポーツに熱中していたのですが、プレーヤーとして、あるいはファンとして、「見る」と「やる」というエンターテイメントの両輪を子供の頃から肌で感じられたことは本当に大きかった。それは一人の人間として成長するための糧となり、現在の仕事や考え方、生き方に大きな影響を及ぼしました。私にとっては、何より大きな財産と言えるかもしれません。
――その後も、アメリカと日本を往復する生活を過ごされていたそうですね。
秦英之 中学1年から高校2年の途中まで日本で過ごし、それからアメリカに戻って高校卒業まで過ごしました。大学は日本の文化を学びたいと考えて明治大学に進学したのですが、特に高校からは、ずっとアメフト一筋でしたね。
――アメリカン・フットボールについては、プレーヤーとして第一線まで続けられたとお聞きしました。
秦英之 大学を卒業してからの1年間は明治大でコーチを務め、その後、社会人クラブチームの「アサヒビール・シルバースター」に加入しました。このチームは国内屈指の名門なのですが、所属する選手はアサヒビールの社員だけではありません。つまり“寄せ集め”のクラブチームにもかかわらず、野球界で例えるなら読売ジャイアンツのような、いわゆる常勝軍団でした。
なぜ、それほどまでに強かったのかというと、その理由は、選手たちの意識の高さにありました。好きでプレーしているからこそ、自分自身の努力によって結果を出さなければならない。その思いを結集させることによって、チームとしての強さを作り上げる。そうしたモチベーションが常に充満している環境においては、一つひとつのプレーに対するこだわり、そして責任感を持たなければ、チームの一員としての役割を全うできません。もちろん、それについていけない選手は必然的に淘汰されてしまうのですが、それだけ意識の高いチームでありながら、誰一人として「頑張れ」とは言わないのです。頑張ることは当たり前、高い意識を持つことも当たり前、そうした環境で真剣にプレーすれば、選手たちは必然的に成長する。そんなチームでした。
――社会人としての“本業”を持ちながら、それだけ本気になってアメフトと向き合う生活は大変だったのではないかと思います。
秦英之 そうですね。私自身、最初の1年はチームのそうした環境にうまく適応することができませんでした。意識が変わったのは、ケガによって棒に振った2年目が終わった頃のことです。3年目を迎えるにあたって、一瞬「引退」の2文字が頭をよぎったのですが、子供の頃から続けてきたスポーツを不完全燃焼のままやめることができなかった。だから、「もう一度頑張りたい」と思い直して、徹底的に自分の弱点を洗い出し、克服しようと考えました。
具体的には、2年目の1年間、つまり365日の出来事をすべて書き出すことから始めました。それによって分かったのは、「自分がいかにサボっていたか」ということです。「仕事が忙しい」「出張が多い」などと言い訳を並べてトレーニングを怠り、選手としての力が落ちていることに気づかず、自分が戦力として考えられていないことを自覚してモチベーションを下げる“負のスパイラル”に陥っていたのです。
リアルタイムでは気づけなかったのですが、日々の出来事を書き出し、改めて振り返ることによって、アメフトと真剣に向き合えていない自分に気づきました。だから3年目は、そのギャップを埋めるための努力に専念し、自分を鍛え直すために、すべて一から徹底的に取り組んだのです。出張先でも必ずトレーニングをする。残業で帰宅が遅くなっても必ず30分間走る。日頃から高い意識を持って食事を摂る。そうするうちに、試合に出られるようになり、戦力として必要とされている自分に気づくことができました。その結果として、アメフトをまた心から楽しめるようになったのです。
――秦さんが在籍されて3年目の1999年、シルバースターは日本一の栄冠に輝いています。
秦英之 日本一になった経験を持つ先輩が多く在籍していましたので、彼らに導かれるようにして、最終的には大逆転で日本一になることができました。私は、その時に「ここまで努力しなければ日本一になれないのか」ということを知りましたし、逆に、「それだけの努力をすれば頂点に立つこともできる」ということも知りました。日本一になった経験は言葉では表せませんが、ある意味では、「努力する」ことに対するリミッターを外してくれた気がします。それを実感できたことは、私にとって本当に大きな財産となりました。
――その実感が、現在のお仕事に対する意識にもつながっているのですね。
秦英之 そのとおりです。仕事に対する考え方の軸として、私は「“頂点”の価値をいかに創出するか」ということを考えています。
例えば、サッカーで言えばJリーガーはまさにサッカー選手の頂点です。個々によって過程は違いますが、彼らがどれだけの努力をしてそこにだどり着いたのかについては、しっかりと理解し、リスペクトし、それを伝えなければいけないと思うのです。また、私はプレーヤーとして「楽しむ」という意味での“底辺”も経験していますので、その裾野を広げることがスポーツの価値を高めることにつながることも知っています。アメフトを通じて“頂点”と“底辺”という2つの価値観を持ったことで、スポーツ界の発展に貢献したいという思いは次第に強くなっていきました。
――リアリティを持って、つまり実体験としてその2つの側面を知ったことが大きかった。
秦英之 そうですね。特に“頂点”については、結果よりも過程を重要視し、そこに価値を見いださなければならないと感じました。一番になった人だけに“華”があるわけではありません。それぞれに特別な過程がありますから、それを価値として捉え、ストーリーとして共有する。それが、スポーツ界にとって非常に有効な財産となるのではないかと考えています。
よく耳にする言葉ですが、スポーツは人生そのもの。プロセスにおいては、成功もあれば失敗もありますし、日常では体験し難い特別な喜びや悲しみを味わうことがある。ある意味では、この“アナログ”な要素の積み重ねにこそ大きな意味があり、スポーツの本質的な価値だと思うのです。だからこそ、その対極にあるデジタルな要素とうまく組み合わせながら、その価値を継承する力になりたい。そう考えています。
レピュコムジャパン代表取締役社長が語る「ソニー時代のFIFA広告戦略担当経験」/中編
レピュコムジャパン代表取締役社長が語る「日本のスポーツ・スポンサーシップの課題」/後編
代表取締役社長
秦 英之(はた ひでゆき)
1972年生まれ。明治大学卒。
大学卒業後、ソニー株式会社で働く傍ら、アメリカン・フットボール選手としてアサヒビール・シルバースターで日本一を経験。同社には2012年まで在籍し、国際サッカー連盟(FIFA)とのトップパートナーシップ等、全世界を束ねるグローバル戦略の構築を担当。南アフリカワールドカップをはじめ、数々のFIFA大会を絡めた活動を推進。
現在はワールドワイドで展開するスポーツデータリサーチ会社であるレピュコム・インターナショナル社の日本法人の代表として、スポーツ・スポンサーシップに対する投資価値を同社独自の方法で評価・測定。サッカー(FIFA、UEFA、英国プレミアリーグ、リーガエスパニョーラ、ブンデスリーガ、セリエAなど)、野球(MLB)、アメフト(NFL)、バスケ(NBA)、ゴルフ(PGA)、アイスホッケー(NHL)、クリケット(国際クリケット連盟)、大学スポーツ(NCAA)等の団体に「生きたデータ」を提供し、企業とスポーツがより一層相乗効果を計れる仕組みを創出している。(日本ではJリーグやプロ野球チーム等と契約)
またスポーツに出資する企業にも、マーケティング戦略に不可欠なデータとして数多く採用されている。