第2回 5度目のパラリンピックを目指す48歳の挑戦
12月22日に仙台市で開幕する第4回ブラインドサッカー(B1)アジア選手権まで、あと3ヵ月。パラリンピック初出場を目指して合宿練習を重ねる日本代表チームには、1人だけ「5度目のパラリンピック」を狙う男がいる。1992年のバルセロナ大会から2004年のアテネ大会まで4大会連続出場を果たした、葭原滋男だ。獲得したメダルは、陸上と自転車で計4つ。96年アトランタ大会では陸上(走り高跳び)で銅、00年シドニー大会では自転車(タンデム=晴眼者のパイロットとの2人乗り)のスプリントで銀、1キロタイムトライアルでは当時の世界新記録を叩き出して金。4年後のアテネ大会でも、スプリントで銀。その時点で、年齢は41歳になっていた。視覚障害者スポーツ界では最強の「鉄人」と呼んでいいだろう。
ブラインドサッカーでは07年に初めて代表入りしたが、仕事の都合もあって、すべての大会に参加しているわけではない。ちなみに、これまで日本が無得点に終わった国際大会が2つあるが、いずれもそこには葭原の姿がなかった。北京パラリンピックの予選を兼ねた4年前の第2回アジア選手権(仁川)と、昨年の第5回世界選手権(ヘレフォード)である。葭原はあまり出番の多くない控え組なので、単なる偶然と言われればそれまでだろう。だが、彼が国際大会の本番で発揮するパフォーマンスを見ると、パラリンピックという大舞台での経験が、本人やチームの力になっているように思えてならない。
たとえば07年8月、ブラジルのサンパウロで開催された国際大会で、日本はスペインから歴史的な初勝利を挙げた。その後の3位決定戦では同じスペインにPK戦で敗れたが(試合は0-0の引き分け)、この試合でもっともゴールに近づいたのが葭原だ。それまで守備に専念していた葭原が、自陣から敵ゴール前まで猛然とドリブルで攻め上がったシーンは、今も私の脳裏に焼きついている。あの攻撃が実っていれば、日本はブラジル、アルゼンチンに次ぐ3位の栄誉に輝いただろう。
そして、2年前の第3回アジア選手権(東京)。マレーシア戦の後半に途中出場した葭原は、わずか3分でハットトリックを決めるという離れ業をやってのけた。それも、練習ではほとんど試していなかったトップの位置に「ぶっつけ本番」で投入されたにもかかわらず、だ。マレーシアはブラインドサッカーを始めたばかりの弱小チームだったとはいえ、それ以外の日本の得点は佐々木と落合の各1点だけ。パラリンピックで鍛え抜かれた葭原の集中力と本番での勝負強さには、見ていて戦慄を覚えたほどだ。あまり好きな言葉ではないが、そこには「オーラ」としか呼べないような何かが漂っていた。一体、あの得体の知れない迫力はどこから生まれるのか。本人に聞いた。
──昔から本番に強い性格だった?
葭原 いや、もともとは人前に出るだけで緊張して、汗びっしょりかいちゃうタイプでしたね。でも初めてパラ(バルセロナ大会)に出たときに「これは気持ちいい!」と思った。10万人も詰めかけたスタンドに向けてガッツポーズすると、一斉にウエーブが起こるんですよ。当時はまだB3(弱視)クラスだったから、その雰囲気はよくわかりました。それからは、「なんか凄いの見せちゃおっかな~」みたいな図々しさを持てるようになりましたね(笑)。前に水泳の北島康介が「チョー気持ちいい」と言いましたが、あの感覚はよくわかります。
──そのあたりは競技ごとに実施される世界選手権とはまったく違う?
葭原 ええ。注目度が高い分、参加する選手たちの気迫も違いますしね。パラリンピックの場合、メダルを獲ると高額な報奨金の出る国が多いので、みんな自分の人生を懸けて死に物狂いで勝負する。バルセロナのときは、「うわ、オレ絶対こいつらに勝てない」と思いましたよ。たとえば走り高跳びなら、バーの設定が自己ベストを越えているのに、飛ばずにパスする選手がいるんです。お互いの記録はわかってるから「まだ飛ばないの?」と思うんですけど、そいつらは一発勝負でメダルを狙ってるんですよ。自分の記録を伸ばせるかどうかなんて、どうでもいい。どんな手を使ってでも勝つことしか考えていないわけです。それは勉強になりましたね。
バルセロナ大会終了後、葭原はアトランタで勝つために4年間の練習計画を立てた。パラ本番から逆算して年間計画、月間計画、週間計画を作り、「その日に自分がどこにいるか常にわかるぐらいの細かい練習メニュー」を作ったそうだ。しかし国内の予選を兼ねた大会では、メイン種目の走り高跳びでライバルを上回る記録が出なかった。ところが、さほど勝負を懸けていなかった走り幅跳びで「なぜか飛び抜けた記録が出て」、そのお陰でアトランタ大会に出場できたという。そしてパラ本番では(標準記録は超えていたので)走り高跳びにもエントリー。そちらで銅メダルを獲ったのだから、何とも不思議な選手だ。結果的には、本番に照準を合わせた練習計画どおりに事が運んだのである。
──アテネの自転車競技でも、練習で出せなかったタイムを本番で出して銀メダルを獲りましたよね。練習中に鎖骨を骨折したり、突発性心房細動で倒れたり、パートナーが本番直前に交代したりとアクシデント続きだったのに、結果を出した。どうして本番でそんなに力が出せるんですか? リラックスしているわけではないんですよね?
葭原 すごく緊張してますよ。でも、自分でイメージをコントロールして、気持ちのいい緊張感に持っていくんです。自分は獰猛なトラかライオンで、相手はかわいいウサギちゃんだと思ったり。たとえばサッカーでPKを蹴るときなんか、「あの野郎をブッ殺す、ブッ殺す、ブッ殺す……」とブツブツ呟いてます。
──それは、ゴールキーパーを?
葭原 いや、相手は誰でもいいんですよ(笑)。とにかく、誰かをブッ殺さないと自分がブッ殺されるという、生きるか死ぬかの瀬戸際に自分を追い込む。ものすごく緊張しますけど、集中力もそれで高まるんです。
見る者を戦慄させるオーラの正体は、この「殺気」だったのだろう。今から思えば、韓国に負けて北京パラ出場を逃した4年前の代表チームには、それが感じられなかった。本番前の怪我を恐れて対人接触プレイの練習をあまりせず、紅白戦ではやや手加減したプレイに終始していた面もある。合宿のミーティングで、メンバーから外れた葭原が「もっとガツガツやらないと、死ぬ気で来る相手に勝てない」と苦言を呈したこともあった。
当時は衝突を避ける技術も低かったので、やむを得なかった面もある。実際、衝突を巧みに避けるスキルを身につけた今の代表は、激しい接触プレイの練習が非常に多い。8月と9月の合宿では、前線からの果敢なプレッシングでボールを奪う練習が盛んに行われた。風祭監督が何度もくり返し言う「ルーズボールへの寄せ」も次第に早くなっている。その「気迫」や「闘志」を、アジア選手権本番までに「殺気」のレベルまで高められるかどうかが、ひとつの課題かもしれない。葭原も「最後は気持ちの勝負。ロンドンに行きたいという気持ちの強いほうが勝つと思いますね」と言う。
──12月のアジア選手権のときには、49歳になっていますよね。体力や気力を保つのは難しくないんですか?
葭原 疲れやすいし、回復しにくくなりました。メンタル面では、年齢を言い訳にしてモチベーションを上げきれないのが悩み。走り込みでも、本当はもっと乳酸を溜めてから抜く練習をしなきゃいけないんだけど、どうしても「48歳だから、これくらいでいいか」と思っちゃうじゃないですか。それが自分でもめちゃくちゃ歯がゆい。
──それは誰も責められないと思いますが……。
葭原 このあいだも、協会が用意してくれたメンタルトレーナーに相談したら、「それはちょっと宿題にさせてください」と持ち帰られてしまいました。48歳のモチベーションをどう高めるかなんて、前例がないらしくて(笑)。
──想定外の選手なんですね。
葭原 そうそう。だから、たとえばカズ(三浦知良)さんみたいに活躍している選手に会える機会があったら、どうやってトレーニングで自分を追い込んでいるのか聞いてみたいですよ。僕よりも少し若いけど、絶対に同じ悩みを抱えていると思う。
──ブラインドサッカーの選手たちは絶対に「だって目が見えないから」などと視覚障害のことを言い訳にしませんが、年齢は言い訳にしてしまうんですね。
葭原 ああ、そういう意味では、視覚障害よりも年齢のハンディのほうが乗り越えるのが難しいのかもしれないなぁ。視覚障害は自分で乗り越えたという意識さえないんですが、年齢は自分自身がまだ受容できていないのかもしれません。でも、障害と比較して考えると、変われるような気もしますね。目が見えなくてもできることはあるのと同じで、歳を取ってもできることはある。たとえば「PKはオレに任せろ」と胸を張れるようになったら、年齢を克服したことになるのかもしれない。
事実、葭原は日本代表の「PK職人」として期待される存在だ。本人もそれを自覚しており、本番から逆算した練習計画を立てている。まずはPKに必要な筋力アップを心がけ、次に助走時の体のブレを修正して精度を高める予定だという。
──それぞれの選手が自分なりのテーマを持って練習を積めば、チーム力も自然に向上しますよね。これまでは全員のレベルを同じように底上げする練習が中心でしたが。
葭原 これからは選手の個性をいかに活かすかが大事だと思います。それぞれの選手が自分の持ち味を磨けば、攻撃のアイデアも増えるでしょう。今は点を取るパターンが少ないし、きれいに点を取ろうとして失敗することが多い。もっと選手が自分でアイデアを持って、相手が厭がる狡賢いサッカーができたらいいですね。正々堂々と真っ向勝負を挑むだけでは、命懸けの相手には勝てませんから。
【岡田仁志(おかだ・ひとし)】1964年北海道生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。深川峻太郎の筆名でもエッセイやコラムを執筆し、著書に 『キャプテン翼勝利学』(集英社インターナショナル)がある。2006年からブラインドサッカーを取材し、2009年6月、『闇の中の翼たち ブラインドサッカー日 本代表の苦闘』(幻冬舎)を上梓。